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おかあさんのアクション
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

なぜピカソなのか、となんとなくずっと思っていた。成瀬巳喜男監督の映画「おかあさん」(1952)で、パン屋の息子の岡田英次が、香川京子とのデートのためにいそいそと焼いて持って行く、異様な風体の「ピカソパン」。(岡田の期待に反して)香川にくっついてきてしまった子供たちふたりがまず、巨大なシメジの塊のようなその形を見て、「パンのお化け!」「グロパンねえ」と素朴な感想を漏らすのに対して、香川京子は目をウルウルさせながら同じ物体を見つめ、「芸術的ねえ」と嘆息する(fig.1)。岡田は「分かる? 中にクリームと蜜とジャムとソーセージとカレーがだんだんに出てくる仕掛けなんだよ」と解説を加えるのだけど、味のことはひとまずどうでもよろしい。

ピカソパンが、原作(全国児童綴方集=子供の作文集)に出てくるのか、脚本の水木洋子が創作したものなのかは確認していない。近所の図書館には原作本が所蔵されておらず、電車に乗って国立国会図書館まで行く必要がありそうだからだ。しかし、逆方向に向かう電車に乗ったら、ひょんなところでヒント(?)が得られた。

2016年の年末。埼玉県立近代美術館に企画展「日本におけるキュビスム−ピカソ・インパクト」(*1)を見に行ったら、1951年に東京と大阪でピカソ展が開催され、洋画界にとどまらず広く日本の美術全般に衝撃を与えた、と壁に書いてあった(壁に直接ではない)。ところによっては激しい混乱に近いものがもたらされたことは、たとえば、誰がどう見ても「ゲルニカ」を思い出さざるを得ない山本敬輔の「ヒロシマ」(*2)を見れば一目瞭然。もっとも、この絵が描かれたのは1948年だから、ピカソ展のインパクトの例として引き合いに出すのは正しくないのだが、まあいいや。

ところでキュビスムと日本映画といってまず誰もが思い出すのが、マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体 No.2」(1912)(fig.2)が、もしかしたら加藤泰「みな殺しの霊歌」の独特の残像表現になんらかのヒントを与えているかもしれない、というまぎれもない事実だろう。デュシャンがここで試みたのは、時間の経過を平面に固定することだった。おそらく、当時の新興メディアであった映画に触れたときの、「このままじゃ絵画の未来ヤベェ」という焦りも大いにあってのはず。

さらにさかのぼると、デュシャンが参照元としているのはエドワード・マイブリッジの「階段を降りる女性」(*3)。これをいかにも成瀬的なタイトルだと指摘したら、あるいは牽強付会だと嘲笑されるのかもしれない。とはいうものの、連想能力に乏しいそのような読者は、これ以上この文章を読み続けても得るものはなにひとつない。それどころか、2018年現在「階段を降りる裸体 No.2」を収蔵・展示している美術館へと通じる階段は、それ自体がかなりの知名度を持っていることで知られている。「岩だらけの階段」(*4)という名前からして、デュシャン作品の岩石的な質感との象徴的結びつきを強く感じさせるはずだ。

話を戻そう。「おかあさん」でおこなわれているのは、立体物を平面(厳密には違うが)のカンヴァスへと落とし込もうとするデュシャンやピカソの苦闘の歴史を、立体物として再構成し、それを同じく立体物である俳優に持たせ、立体型のキャメラで撮影して、平面の(厳密には違うが)スクリーンへと戻し映す作業だ。こうして書くと、ごく当たり前の映像を生み出すためになんと複雑な過程が踏まれていることか、と感嘆したくなるかもしれないが、それはわざわざ回りくどく書いているからそう思うのであろうだけであって、要は、ピカソ・インパクトが成瀬巳喜男の映画にも及んでいたのではないか、と言いたかっただけだ。

成瀬巳喜男の映画で、本筋とは関係なく唐突に出てくる時事ネタと言えば、ほかには遺作「乱れ雲」(1967)で言及されるケロヨン(司葉子が子供相手に「バハハーイ」と真似をする)が思い出される。1966年11月から日本テレビ系列で放送が開始された「木馬座アワー」内のコーナー「カエルのぼうけん」のキャラクターであるケロヨンは、ビートルズに先駆けて日本武道館公演も敢行した人気者だった。

ほかには、「晩菊」(1954)での望月優子のモンロー・ウォーク(fig.3)……は一応、話に関係ある部分として除外するとしても、成瀬はキャリアの初期においてすでに、明治製菓とのタイアップ映画とも伝えられる「チョコレートガール」(1932)を撮っている。彼にとって、時事風俗ネタはなじみ深いものだったろう。たしか高峰秀子だったかが、不要と感じた台詞をどんどん脚本から削っていく成瀬の仕事ぶりについて書いていたが、そうした過程を経てもなお残ったのが、ピカソパンやケロヨンだったのだ。少なくとも嫌いではなかったはずだ。

いや、むしろ、必要としていた、と言ったほうがいいか。いわずもがなの説明やぼやぼやしたやりとりには線を引いて消し、観客に受けるであろう時事ネタは生かす。その態度からは、最小限の労力で最大限の効果を上げようとする、省エネ型アクション映画作家の姿が見て取れる。

メロドラマの巨匠。女性映画の名手。庶民の生活を活写。などといったおなじみの形容と比べると、成瀬をアクション映画作家と呼ぶのは、やや奇異に響くかもしれないが、この表現は別にわたしの発明ではない。平能哲也は『成瀬巳喜男を観る』で、次のように書いている。

「人物の動きの多さと振り返りのポジション」+「目線の芸」こそが、成瀬映画をアクション映画としている二大要素である。

成瀬映画とは「静かな映画」ではない。真の意味での「アクション映画」、映画の根源的な意味での「モーション・ピクチャー」なのだ。


周知のとおり、成瀬の映画には銃撃戦もカー・チェイスも(たぶんほとんど)ない。そのかわり、自分では持っていたくないなにか(火のついた爆弾とか)を一刻も早く近場の誰かに押し付けようとするようなスリリングな視線のやり取り(*5)や、軽快な人物の出入りがある。チャンバラによってではなく、フィルムの切った貼ったでアクションが生み出されるのだ。

「おかあさん」は、「流れる」や「妻の心」と並んで、成瀬のアクション映画のうちでも最上位に位置するもののひとつだろう。「妻の心」のグルーヴを特徴付ける目まぐるしいほどの人物の出入りは、井手俊郎による脚本の段階で指定されていることが確認できるが(*6)、「おかあさん」のアクションは、ひたすら無駄を省いた編集(笠間秀敏)によってもたらされている(*7)。98分という長さはほかの成瀬作品と比べて長くも短くもないし、目新しいことが起こるでもないのに、一度見始めるともう目が離せない。

もちろん、いわゆるショッキングな描写などといったものは周到に避けられているが、観客の注意を惹きつける、ちょっとしたいたずらのような演出がある。家の前の道が天地逆に映されるショットは、子供の「股のぞき」の視点によるものだ。また、中盤、登場人物たちが劇中で見に行った映画の画面として、スクリーンに唐突に「終」の文字が出現する。こうしたサーヴィス精神は、本作のチーフ助監督を務めた石井輝男や、東宝では岡本喜八に、受け継がれているだろう(*8)。

「おかあさん」の主な舞台となっているのは、おかあさん=田中絹代が切り盛りする家で、映画が始まってすぐ、この家は一家で経営するクリーニング屋の店舗と作業場も兼ねることになる。田中はほぼ家から出ることはなく、そのかわりに、さまざまな人間がこの家を通過していく。

クリーニング屋の顧客や親戚といった一時的な来客。死んで家を出ていく夫(三島雅夫)。一度は療養所に入ったが脱走して戻ってきて、死んで再び家を出ていく長男(片山明彦)。店を手伝いに来て、田中に仕事を仕込んでは去っていく「捕虜のおじさん」(加東大介)。田中の妹の中北千枝子は、母子ふたりでは生活が立ちいかないので息子を田中の家に預けている。夫=息子の父親がいないのは、満州で死んだからだ。田中の次女は親戚の家にもらわれていく。その家の息子は戦争で死んだからだ。語り手である田中の長女=香川京子は、遠からぬうちに岡田英次と結婚して家を出ていくだろう。岡田の兄は戦争に行ったきり戻ってきておらず、母(本間文子)は息子の写真の上にコインを糸で吊るして毎日生死を占っている。人手が失われる日に備えて、クリーニング屋はすでに住み込みの小僧を迎え入れている。

物理的な死体そのものはただの一度も画面に登場することはないが(*9)、「おかあさん」は、ちょっとした犯罪映画にひけをとらないほどの数の死者たちを乗り越えながら進行していく。終盤、おばの中北が参加する美容師のコンテストのモデルとして、香川が花嫁衣裳を身につけ、髪を島田に結い、たまたま店に来た岡田に向かってぺろっと舌を出す(かわいい)。その着替えがおこなわれているのは、彼女の父と兄が死にに帰ってきて、まさにそこで死んだ部屋だ。ここを経由せずには、誰も家の外に出ていくことはできない。

どんな家であれ、ひとがひとり減るのは一大事だが、それでも、足りなくなったところはなんだかんだで埋まってしまう。どうにかなってしまうのだし、どうにかしないとならない。三島雅夫の死んだ日、手伝いに集まった女たち(本間文子、中北千枝子、沢村貞子)は炊事の支度をしながら、次のような会話をかわす。

本間 おたくは?
中北 戦死ですの。
本間 うちの長男も、通知はあったんですけどね。
沢村 うちの主人ったら、焼け死んだんですよ。銀行の宿直室で。残された者のほうが往生しますよ、ねえ、お互いに。
本間 ほんとですよねえ。
中北 カンピョウ足りますかしら。
沢村 足りさしちゃいましょうよ。

この短いシーンで、3人はぼーっと突っ立っていたりただ座っていたりするわけではなく、常に手作業を続けている。うしろには中北の息子が立っていて、ペロペロ・キャンディを絶え間なく舐めている。ホーム・ドラマならぬホーム・アクションと呼びたいこの場面につながっていてもおかしくなさそうな気軽な口調で、隣に座っていたおかあさんが「おとうさんの葬式の予約してきたから」と言った。文脈から察するに「おとうさん」とは、クリーニング屋の店主の三島雅夫ではなくて、ボルネオかどこかで病気になって帰ってきたおかげでそこでは戦死せずそれから数十年生き続けた彼女の父親(すでに何年も死んだままの状態であり続けている)でもなく、わたしのおとうさん(1946〜2018?)のことであるらしかった。おとうさんは3年くらい前に余命半年と言われて、それからまだ、一見したところは元気に生き続けているのだが、しかし、わたしとおかあさんがふたりで出かけているあいだになにが起きるのかわからない、だから万が一の際の処置はわたしの弟に頼み、葬儀についても事前に話をつけておいた、のだそうだ(*10)。

予約の話が出たのは、今年の1月、成田空港の搭乗ゲート近くで機内への案内が始まるのを待っているときだった。それから6日間、わたしとおかあさんは、おおむね数メートル以内の距離を保ったまま、お互いのふだんの居所からは10000kmほど隔たったあたりを移動し続けた。都市のそぞろ歩きやブランド品などには興味がないおかあさんの、雄大な自然を見てみたい、との希望を最大限に取り入れた結果、あろうことか、旅程にはレコード屋のレの字も含まれないことになった(*11)。すべての場所は一度しか通過しなかったし、今後、わたしとおかあさんのいずれかあるいは両方が、そのいずれの場所をも再訪する可能性はきわめて低いはずだ。

移動中、わたしとおかあさんはさまざまな場所で話をした。窓の外にはバイソンの群れが併走するグレイハウンドの車内で。大統領の4つの顔が間近に迫る、山のカフェテリアで。モニュメント・ヴァレーのホテルの、鯨のように巨大なトゥイン・ルームで。アサイヤスの映画に出てきたような、竜の舌の形の雲が伸びる湖畔で(fig.4)。

おかあさんの話した内容のいくつか。中学や高校の同級生とはいまでも定期的に女子会をおこなっていて、60代のころは年金もらえるかとかの話題だったのが、いまでは自身の病気や夫の死のことになった、だとか。若い頃、とんかつ屋の看板娘だったり看護婦だったりした思い出。一時期はギャングの情婦で、ピストルを撃ったこともあると言っていた。そのくせ、ホテルのロビーにあったラフティングのパンフレットを見て、スピード出るものはダメ、怖い、などと弱気な口を利くおかあさん。出征する家族が行進していくのを小走りでえんえんと追いかけて、無事を祈って手を合わせたらあとで怒られた、昔の話。

夜。電気の消えたホテルの部屋で話しかけたら、やけにふがふがした頼りない口調で返事してくるので、まだ睡眠薬をのみ続けているのかと訊ねたら、いやこれは違う、寝ているとき口呼吸にならないようにテープで口をふさいでいるのだ、とふがふがと答えた。昔は70歳を過ぎて歯が丈夫だと、まだそんなに旨いものが食いたいのか意地汚い、などと中傷されたから、その歳になると自分の歯をそのへんのごつごつした質感の岩石に打ち付けて砕き、口調がふがふがになるようにしたものだ、とか。

旅行中のある日、わたしはおかあさんに「沢島忠が死んだよ」と言った。言いながら、ちょうど10年前のやはり1月のある日、日光街道沿いのステーキ宮で向かい合ってごはんを食べていたときのことを思い出していた。10年前のその日、最近はどんな映画を見ているのか、と問われ、まさにフィルムセンターでマキノ雅弘の生誕100周年の特集が開かれている時期だったのでその話をした。それは時代劇? うん。

それに続いておかあさんが、なんの気なしに「沢島忠が好きだったねえ」と言った瞬間が、いまでも忘れられない。誰それさんの結髪が好きで、きれいな結髪を目当てに映画館に通っていた、とも。そういえばおかあさんが、高校の頃に映画同好会みたいなものに所属していた話は聞いた気がする(*12)。わたしは10年間くらい、いろんなひとにいろんな映画の見方について話してもらう(自分ではなにもしない)イヴェントをしていたから、画面内外のどこに注目するかがひとによってまったく違うことを多少は承知している。それにしても、結髪のスタッフ名に着目しているひとがいるとは想像もしなかった。

2008年当時と2018年の現在とでは、日本映画に対するわたしの態度はまったく違っていて、当時は沢島忠の話ならいつまででもできそうな勢いだったから、おかあさん、そういうことは少なくとも20年前に息子に仕込んでおいてくれよ、と思いながらいろいろ話をした。細かい内容は忘れてしまったけど。

おかあさんの若い頃の好みは東映の時代劇で、成瀬巳喜男の映画は見たことがないと言っていた。そこで何年か前、おかあさんが上京した際、ちょうど名画座で上映されていた「流れる」を一緒に見に行ったことがある。おかあさんは途中からうつらうつらしていたし、よくわからなかった、と言っていた。あれは親孝行の名を借りた自己満足に過ぎなかった、といまでは思う。そしておかあさんに対してわたしはまだ、ショットの強度、とか、編集のキレ、とか、そういう言葉をつかうことができずにいる。石坂洋次郎原作の映画に出てくるような親子の間柄であれば、あるいはそうした、ごく普通の日本語でコミュニケイションをとれるのかもしれない。

帰りの飛行機。隣の席に座っていたおかあさんが、イヤフォンのつかい方を訊いてきた。しばらくたってふとモニターを覗き込むと、おかあさんが見ていたのは「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」だった。窓の外には羊の群れのような雲の原っぱが広がっていて、その上に月がのぼっていた。「おかあさん、」とわたしは言った。眠っているのはわかっていたのだけど。

あかあさん、わたしの大好きなおかあさん。
しあわせですか。
わたしはそれが心配です。
あかあさん、わたしの大好きなおかあさん。
いつまでもいつまでも生きてください。
おかあさん!

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*1→ http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=335
「1950年代前半、日本の美術界にピカソは大きな衝撃を与え、その影響は洋画のみならず、日本画から彫刻、工芸といった広いジャンルにまで及びました。多くの作家がキュビスムの手法を取り入れながら、様々な主題の作品を制作しました。」

*2→ 山本敬輔「ヒロシマ」(→☆)。これに先立って、佐藤敬 「水災に就いて」(1939)(→☆)がある。「ゲルニカ」は1937年制作。

*3→ マイブリッジが1887年頃に撮った、階段を降りる女性の作品(着衣およびヌード)としては、"Woman Descending a Stairway and Turning Around""Descending Stairs and Turning Around""Nude Woman Descending Stairs"などがある。

*4→ https://en.wikipedia.org/wiki/Rocky_Steps

*5→ こうしたアクションは、いわゆるジャンルとしての「アクション映画」でも見られるとは限らない。むしろ、三木孝浩のいくつかの作品(「アオハライド」「坂道のアポロン」)で印象的な視線の交わし合いがあることに着目したい。もっとも、印象的に感じられるのは登場頻度が高くないからで、逆に、ある種の成瀬作品ではそれがあまりに自然に多用されているため、一部の観客は、そういう演出がされていることすら気付くことができない。

*6→ 「シナリオ読もうぜ!」#01「生誕百年 井手俊郎を読む」(2010)には、「妻の心」のシナリオが掲載されている。

*7→ とはいえ、東宝で成瀬の助監督を務めた石田勝心は、『成瀬巳喜男を観る』収録のインタヴューで、こう語っている。

「唸るほどうまい編集」とは、繋げば観客が「唸る」ように演出して撮影してあるからと言えます。フィルムに記録されている平凡な演技が、編集で名演に変化する筈はありません。

*8→ 岡本喜八「大学の山賊たち」(1960)には、開巻早々「終」の文字が画面に出るギャグがある。筧正典「妻という名の女たち」(1963)も成瀬アクションの直系作品。

*9→ 葬儀の場面も、片山明彦が入る療養院も、画面には出てこない。省エネ。

*10→ おとうさんの体調のあれこれは別に3年くらい前に突然降ってわいてきた話ではなく、そもそもの発端は20年以上前にさかのぼる。そのうち、そのへんのことを面白おかしく書く機会もあるかもしれない。そういえば昨年の秋、早稲田松竹のラスト1本で「20thセンチュリー・ウーマン」を見て、おかあさんのことを考えながら外に出たら、「おかあさんです。おとうさんが入院しました」という留守電が入っていた。

*11→ ダメもとで、アメーバは見てみたくないか、と提案したところ、ゾウやキリンなどの大型動物のほうが好き、と却下された。

*12→ 先生に引率されて、同好会の仲間と一緒に、調布の日活スタジオや大船の松竹スタジオに見学に行ったことがあるようである。実家の古いアルバムには、「日活スタアの待田京介さんと」と書かれた集合写真がある。

☆参考文献
戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(NHK出版、2012年)
平能哲也『成瀬巳喜男を観る』(ワイズ出版、2005年)
「シナリオ読もうぜ!」#01「生誕百年 井手俊郎を読む」(シナモンズ、2010年)

☆謝辞
Murderous Inkさんに深く感謝します。

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