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やつらか俺たちか
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

They can never cross that line when I get to the border.

Richard & Linda Thompson "When I Get To The Border" (→☆


なんだかんだいってもみなさん意外と忙しいんでしょう? だから黒川幸則「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」がどんな映画なのか、ひとことで説明すると、ジャック・リヴェットが撮った「ゴーストバスターズ」みたいな映画ですよ。出てくるオバケ?の親玉みたいなのを演じているのは只石博紀だから、もしかしたら化けて出たのは成仏しきれていない「季節の記憶(仮)」なのかもしれない。そういわれてみれば「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」にはどこかしらキネアティック感があるし、同時に、あるいは逆に、「季節の記憶(仮)」がケイズ・シネマでレイト・ロードショウされているところを想像もした。いまからでも遅くはないじゃないか。

なにをしているのかよくわからぬ登場人物たちが、一軒家に住まって昼となく夜となくダラダラと呑んでいる。そりゃわたしだって、昼間っからゴロゴロしたり、そこらで会ったひとと突発的に飲みに行ったり、その結果として瞬間的に村村、じゃなかった、ムラムラしたり、長靴履いて水の中にザブザブ入っていったり、したいに決まってる。でもどうも実生活の中で出会う、そういうことをしてそうなひとたちは、ほぼ漏れなくヒッピーくさかったり、バックパッカーくずれだったり(そういう文脈で発せられる、旅人、なる単語の身の毛のよだつ感じ)、レゲエ臭がしたりして、端的に、生理的に無理なんだ。

でもどうしたわけか、「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」からはそんな異臭はただよってこない。あまりにもささやかだけれども、だからまだなんの確信も持てずにいるけれど、もしかしたらここに描かれているのは、日本映画がいまだかつて描いたことのない類の自由のありかたなんじゃないだろうか。たとえばそうだな……わたせせいぞうが描く「次郎長三国志」みたいな。もちろん、あなたがきっとそうであるだろうのと同様に、わたしも、自由に憧れ、と同時に、それを警戒してもいる。この映画のチラシを見て、脚本家や出演者のうちの主要な何人かが、映画専門のひとたちではなくてミュージシァンやダンサーであることにちょっと身構えてしまうひともいるだろう。そりゃそうだよ、っていうか、ダンサーのひとたちにはすみませんだけど、「職業:ダンサー」って、えっ踊るのが仕事、ほんとに?って思うじゃないですか。

まあそんなことはさておくとして、あっあとケイズ・シネマのサイトに載ってる、連日の上映後のトークに出る顔ぶれを見て、あーそういう系ね、とわかった気になるのはもったいないですよ。と、比較的得体の知れない現代日本映画について書こうとするとついついいつもいつも、これこれこういう不安をあなたは持つかもしれないが大丈夫、心配ない、不安はたったいま魔法のように取り除かれました!式の、いわばカウンセリング=批評っぽい書き方を保険のように採用することになってしまう。でもほら、ヴォワラ、あなたの不安はたったいま、魔法のように取り除かれたから、もうこれ以上ないほど自由なはず。「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」、見に行って大丈夫。こわくない。

2年前の夏に撮られたらしいこの映画、三多摩の夏の緑の深さ、濃さがとにかくすばらしい。これはわたしだけだろうけど、最近もう人間の芝居に半分絶望していて、とくに毎日こう光が強く射す中だと、立っている木でも見てたほうがはるかに豊かな気持ちになれるしたくさんの情報も得られる、なんてそんな功利主義な考えになってしまうんだけど、いや違うな、映画が人間のことにばかりかかずらわいすぎているのがイヤだってだけのこと。撮ろうと思えば、人間が緑の中にごく当たり前に呑み込まれ、うずもれているところだって撮れる。だからほら、ヴォワラ、たとえばこの映画の、離れた男と女がスケボーを蹴ってパスし合う引きのショットの、ふたりのあいだの奥で大胆にぐらんぐらん揺れる木々を見てごらん。あるいは、長靴を履いた男女数人が沼なのか川なのかわからぬ水の中に入っていくところ。拡散した人物の配置と背景の雲、まったく惚れ惚れする構図なんだけど、その人間たちがたどり着く向こう岸の草深い場所、その背後のこんもりとした林が、一瞬ほとんど真っ黒な、海苔をべたっと貼り付けたみたいな色なのには、実際ぎょっとするじゃないか。撮影は渡邉寿岳。

と、ここまで読んでもたぶんどんな映画かよくわからないと思うんだけど、わたしが見て理解したかぎりだと、トゥアー中に仲間の車から路上になんとなく振り落とされたひとりのバンドマンが、鈴木卓爾がなんとなく大家みたいに振る舞っている一軒家に居着くことになり、そこにいる者たちはなんとなくの業務として、この緑深い町?村?で、異世界?あの世?からこちらにちょっかいを出してきているとある勢力と、それとなく対峙したり、それを警戒したりそれを退治したり、しているらしい。って、これであってる?

自分で書いたこのアウトラインを眺めると、なんじゃこりゃ、あらすじを聞いたらこれって自分が鼻で笑って打ち捨てる類の「ファンタジー」映画じゃん、って思うし、あっなるほど、お盆に見るのにぴったりの映画、とも思う。大人になったら大人ならではの夏休みの過ごし方ってぇのがあって、うっかり危うい境界線を越えてしまってもかまわないんだったら、それはそれで案外悪くない。どこかからどこかに行くのを図示するためというよりは、ただそういう場所を歩いているのをわたしたちに見せたいがために、登場人物たちは森と宅地の接しているあたりを歩き、坂を上る。

夏の水辺で事故が起こりやすいのは新聞やテレヴィの報道からもあきらかで、この映画でも、男も女もなんらかの形で水の事故を経験しているようだ。以前川に落ちただが落ちかかっただかした女は、一緒に川に落ちただか落ちかかっただかした友達に電話をかける。こっちがこっちで電話の先があっちなのか、あるいはその逆で、あっちがこっちでわたしたちに見えているこっちが実は向こうから見たらあっちなのか。バンドマンが、彼をおいてトゥアーを続行しているらしいマネージャーと電話で話すときには、わざわざ苦労して川の向こう岸まで渡っている。ということは、いまいるこちら側は?? 夏でもパーカーを着ていたような気がする只石博紀がラップをしながら姿を消すのはやはり川原の草の中へだ。ただし逃げおおせることができず、「シン・ゴジラ」もびっくりの形態的変化をとげて捕獲され、それでも悪態をつき続ける様子は、単純に、楽しい。

決定的な越境は、電車に乗って男と女が長宗我部陽子に会いに行く途中に起こった気がしていて、車窓には凶暴な色味の景色が広がり、どうも日本ではないところも通ったように見えたんだけど、でもたどり着いたのは普通の家。いやでも、その晩おなじ敷地に泊まった気がする男と女は、しかし窓越しに、数十〜数百立方メートルの空気によってへだてられた状態でしか会話することができない。

書いてたらなんかさびしくなってきた。やっぱ、みんな死んでんのかな。でも自分には、ここにいるひとたちの顔も姿かたちも動作もセリフのやり取りも、みんな、これ以上ない生の肯定に見えたんだよね。ってことはあれか! 死んでるのはこっちの俺たちじゃなくて、あっち側にいる、やつらのほうなんじゃないのか?

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「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」は08月19日(金)まで、ケイズ・シネマでレイト公開中。本作で撮影を務めた渡邉寿岳の監督作品「かつて明日が」が上映されるわたし主催のイヴェント「初台並木座 Vol.1」(→☆)は08月16日(火)開催です。ただいま予約受付中。残席僅少です。

映画
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