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混乱を抱きしめる
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

戦争が始まって終わったことによって初めてつくることができた映画。そうした類の日本映画に10年近くとりつかれていた。しかしふと気がつくといつのまにか、さすがにもう「そういうの」はいいか、という気持ちになっていて、とはいえ興味は失われたわけではなくていろんな方向に拡散ないしは横滑りしているだけとも言える。台北の街を歩きながら、あるいはヘルムート・コイトナーの映画を見ながら、もしくはスペイン語の勉強をしながら、そして原田直次郎の絵を見ながら、さらには渋谷系のレコードを聴きながら、いつもなんとなく、いまとはまったく違った形で存在しえたかもしれない日本語(の映画)の版図について思いをめぐらせている。そしてそんなときしばしば、自分ほどの愛国者はそうそういないのじゃないだろうかと考えたりもする。

戦争が終わらなくてはつくることができなかった映画があるように、戦争をしながらでなくてはつくれない類の映画がある。とはいってもひとまず今回は現代アメリカ映画の隆盛についての話ではなくて、たとえば対米戦中のマキノ正博の特異で、それでいて充実したいくつかの仕事のこととか。もっとも、「ハナ子さん」などですら、見て混乱した気持ちを「国策映画だからよくない!」みたいに無理矢理ひとことでまとめずにはいられないひとがいる。そういう発想って、それこそ有事の際にはすぐに、「国策映画だからよくない?」→「国策映画だからよくなくない?」→「国策映画だからこそよい!」とひっくりかえり続けてとんでもない方向に向かっていくかもしれない危うい心性だと思うんだけどね。どうして混乱したら混乱したままでいられないんだろう。混乱を抱きしめていたらいいのに。

瀬尾光世「桃太郎 海の神兵」デジタル修復版を、ユーロスペースで見る。桃太郎が家来の動物たちと一緒に鬼が島に鬼を征伐しに行くおなじみの話をもとに松竹が製作し、1945年4月に公開した長篇アニメ。時局柄、鬼が島にいる「鬼」は西洋人であり、桃太郎率いる日本軍は落下傘でその島へ降下して攻め入る。堂々とした物腰で無条件降伏を迫る桃太郎、それに対する「鬼」たちの弱腰。封切時の観客たちはおそらく、シンガポールでの山下=パーシヴァル会見を想起し(て喝采し)ただろう。

……こうした説明、あるいは筋書きで「プロパガンダだ」と拒否反応を起こすひとがいるのはわからないでもないけれど、そんなこと言ったら現代映画はほぼすべて、フツィエフ言うところの金による検閲を受けているんじゃないのー(検閲を受けることすらできない不自由も含めて)、とだけ書いておく。

金だけあればいいってもんじゃないのは当然として、まさか大戦末期の日本(映画)に、これだけの金と手間ヒマをかける余裕(ではないかもしれない。根性、気力、使命感……)があるとは思っていなかった、というのが見終えたあとにまず浮かんだ感想。いや違うな、それは頭でまとめた感想であって、画面に触れたダイレクトな喜びがなによりも先に来る。

田舎道での別れ際、仲間たちに手を振りながら、風に飛ばされそうになる帽子をふと手で押さえるしぐさ。そよそよと揺れるスカーフ。画面の手前と奥を自在に行き来する動物たち。崖の上の立ち木に縛り付けたロープを命綱にして谷川へと飛び込んでいく場面のダイナミックなカメラワーク。自らが所属する航空隊の飛行機の動きを、自分のからだを回転、背転させて再現する猿。

まあとにかく絵が動く動く。そんなの当たり前だろうと思うかもしれないが、いかに効率的に絵を動かすか≒いかに動かさずに動いているように見せるか、に注力して作られたアニメを見慣れた目には、画面にあるものがいちいち無意味に蠕動していることがたまらない喜びになる。リュミエール兄弟の映画で食事をさせられている赤ん坊の背景の木々の枝、葉を思い出す。いや、あの映画の主役は本当は絶え間なく風に吹かれてそよいでいる枝葉のほうであって、赤ん坊なぞは単に画面上で占めている面積が多少大きいというだけの、映画にとっては枝葉末節にすぎなかったのだ。

「桃太郎 海の神兵」を見ると、単なる画面上のものの運動が、しばしばそこから突き抜けて、なにかこう、尊さのようなものをすら帯びてしまうことがたしかにあるのだと何度も何度も確信する。たとえば、先に触れた、弱腰な「鬼」=西洋人たちの描写。軟体動物のようにからだを伸び縮みさせながら、だらだらと脂汗を流し、くねくねと身をよじらせながら、もごもごと返答する。もちろんそれは、泰然自若たる桃太郎との対比で、卑俗さを際立たせるためにそう描かれているわけなのだが、その動きは、この映画がつくられた経緯も、盛られている思想内容も軽々と飛び越えて、ある豊かさを獲得している。そのような見方をする自由くらいは、死守したい。

ところで「桃太郎 海の神兵」は全篇YouTubeなどで見ることもできるのだが、今回上映されたデジタル修復版(4Kスキャン、2K修復)は、映像も音声もほとんどストレスを感じることのない、掛け値なしにすばらしいものだった。そんなことはまずないのは承知の上であえて言うならば、すべての旧作日本映画がこの画質で見られるようになったら、なにかが確実に変わるだろう。ブレもボケもなく、ゴミも取り除かれ、チラつきも修正されている。たかが画質、されど画質。いままで自分が画質をナメていたことに気付かされた。

終映後、修復を担当したイマジカのひとふたりによるトークがあり、そのうちひとりが、自分のやった仕事をごく自然に自画自賛していた。もちろんこのヴァージョンについていえば、まったくイヤミに聞こえない。素直に納得できた。2016年度の旧作日本映画ベスト・ワン。

映画
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