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台北で映画を見た2016
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
今年で第10回目を迎えた、台灣國際紀録片影展=TIDF(→☆)に行って来ました。従来は偶数年の秋(=山形国際ドキュメンタリー映画祭がない年)開催だったのが、2014年、これからは毎年開催するよとアナウンスされて、おお、それだと奇数年は山形とモロにバッティングするな、でもそれはそれで楽しみだな、と思っていたら、2015年は一回お休み。開催時期を変えて、2016年からは毎年5月に開かれることになったみたい。

前回2014年秋の訪問時に自分が書いたもの(→☆)を読んでみると、前回と今回の違いもいくつかあることに気付きました。たとえば、

・野外上映がない。
・平日日中の割引料金がない。
・府中15と国家電影中心での上映がなくなり、会場が新光影城と光點華山にほぼ集約。
・これは映画祭とは関係ないけど、新光影城に(少なくとも2011年春以降)ずっとあった、映画「ノルウェイの森」の宣伝ディスプレイがなくなっている。

……あたりがぱっと目につくところ。ここだけ見ると、縮小、あるいは衰退したのかとも思えますが、わたしの見た限り、プログラム、集客、各種企画とも充実しているようでした。8プログラム見た中で、印象に残ったものを。

◎王我「沒有電影的電影節」(2015)

2014年8月、北京獨立影像展が中止になったニュースは、こちらのブログ(→☆)などでなんとなく聞き知っていましたが、これはその顛末の記録で、英語タイトルは「A Filmless Festival」。たかだか、という言い方は失礼ですが、それでも、たかだかひとつの小さな映画祭に対してときに陰湿に、そしてあからさまに圧力をかけ、妨害し、中止させる国家権力の恐ろしさ。地元の住民のふりをしてイチャモンをつけ、事務局の敷地に塀を乗り越えて入り込んではパソコンやらアーカイヴ資料やらを根こそぎ持ち去る。

ただし、不謹慎な言い方をするならば、理不尽な強敵が出てくるわけだから、映画としては面白くないはずがない。よくできたモキュメンタリーのような、と混乱した形容をしたくなる盗み撮りの切実さ。警察に連れて行かれた関係者を励ますべく、署の建物の前に集まってキャンドルを捧げ持つひとたちの顔、顔、顔。

それにしても、中国の官憲の出鱈目さ(両方の意味での)、とんでもないな。北京市内では映画祭を開かないようにと念書を書かせるとか、感覚が完全に時代劇の「所払い」だよ。思わず笑ってしまったのは、もちろん彼らはネット関係も監視していて運営側の書き込みを片っ端から削除していくんだけど、その手際があまりにもよくて、映画祭中止の書き込みまで消してしまうもんで、中止になったことが知れ渡らずにどんどんひとが集まってしまうという。官僚の官僚的な仕事に関する古今東西のギャグの中でも、かなり出来のいい部類なんじゃないだろうか。

なにかが起きる予感は充分にあったにせよ、おそらくこの映画は最初から作ろうとして準備されたものではなく、いざ事が起きて映画祭関係者や周辺のひとたちが撮った映像素材をつないでできたものなんだろうけど、できあがったものだけを見ると、というか、それ以外の見方なんてできないわけで、「編集」の「映画」の効果と危うさがここまでむき出しになることもそうそうないだろうな、と複雑な興奮を覚える。心なしか、上映後の拍手がほかの作品のときよりも大きかったような。

◎Sergei Loznitsa「The Event」(2015)

中文タイトルは「蘇聯1991」。国家非常事態委員会によるクーデター未遂がソ連で進行していた1991年夏の、レニングラードの記録。当時撮影されて眠っていた映像をもとに作られた、いわば新作みたいなもんで、映っている出来事や人々はたしかに25年前のものなのに、不思議と現代の映画という感じがする。「沒有電影的電影節」とは正反対の、よく準備されたような端正なモノクロ映像がそう感じさせるのか(人々が、道をふさぐように止められていた長い車を押して倒す、ロー・ポジションの見事な構図)。あるいは編集の賜物か。

事に際して、街頭で見知らぬ相手と言葉を交わし、バカでかい広場に三々五々集まり、しまいにはそこをぎっしりと埋め尽くす市民たち。人々に向けて、レニングラード市長は「一滴の血が流れればそれは大海になる」と自重を求める。教会から来た聖職者は「ロシアはほかの国々のビッグ・ブラザーにではなく、ラヴィング・シスターになろう」と訴える。あるおばあさんは、自分の姉だったかの思い出を語り、遺された詩を朗読する。曰く「わたしたちの行く道は困難なものだ。しかし後ろを見れば墓場、まわりには十字架ばかり、進むのが困難だからと言ってそちらに戻るのか? ……ニェット! ニェット! ニェット!」

そうした中、バルト三国のどこかで流血の惨事が起きたとのニュースが飛び込んでくる。そのことが壇上から知らされると、群集がみな、高くピース・サインをかかげる。ここは圧巻というほかない。なにかあると広場に集まる文化、そして、集まった市民に対して、こういうふうに語りかける言葉を持った市長や政治家。そうしたものをわたしたちはまだ手に入れていない。というか、好意的に言えば、いままさに手に入れつつある。だから自分たちとも地続きの映画なのだと思い、静かに昂ぶりつつ、見た。ピース。

◎竸Ь組「遠東化纖罷工事件」(1989)

竸Ь組は台湾のインディペンデント系のニュース制作集団。今回のTIDFでは彼らの大々的な特集が組まれ、同じ題材について、彼らのまとめたニュースと、政府寄りのTV局の番組とをカップリングして上映、比較検証するようなプログラムもあった。

これはタイトルのとおり、ある工場でのストの記録。リーダー格と思われる男性が、団交でテンション高く経営者側に食って掛かり、その後もやたらと目立っていて、つまりはこういうことが楽しくて仕方がない感じのひとで、見ていてついついにやにやしてしまう。警察は楯で容赦なく殴りつける。応援に来てとばっちりをくって流血した農協のおじさん曰く「流血はむしろ名誉だ」。

TIDFでは映画館での正規の上映以外に、台北市内のいくつかのカフェで、無料、あるいはワン・オーダーのみで参加できる上映をおこなっていて、これはそのひとつで鑑賞。いつも行列ができているらしい阜杭豆漿(自分たちが行ったときはまったく並んでなくてすぐ2階まで行けましたが)の、交差点の斜め向かいにあるカフェ、慕哲咖啡の地下のイヴェント・スペース。上映前、主催者のあいさつがあって、自分は中国語がまったくできないので早く始まらないかなと思いながら待っていたところ、客後方席でマイクが回されていて、主催者とやりとりしている。

上映前に質疑応答? と思って見ていると、どうやら全員がなにかひとことずつ言わされているみたいだ。昔、朝霞だか志木だかの公民館に大島渚の「絞死刑」の自主上映を見に行って、上映後のディスカッションには参加せずにそそくさと逃亡した記憶が蘇るぜ。そういえば司会の男はなんとなく「日本の夜と霧」のときの戸浦六宏っぽい雰囲気だ……とか考えてるうちにマイクが回ってきてしまったので、英語で失礼します、とかもぞもぞ前置きして、日本から来ました、ドキュメンタリーが好きです、とか凡庸極まりないあいさつをしてマイクを隣にパスした。次回までに、我是日本人、くらいは発音できるようになっときたい。

◎Patricio Guzman「Chile, Obstinate Memory」(1997)

タイトルは映画祭の表記に従う。スペイン語にしたいところだけど、画面に出てくるタイトルはフランス語で書かれていた。邦題は「その後の仁義なきチリの闘い」。いまわたしが決めた。

世界各地で大評判をとったものの故国チリではいまだに上映されていない大作「チリの闘い」を携えて、グスマンが故郷に帰ってくる。かつてアジェンデのもとで働いていたひとたちや、若い学生たちにこの映画を見せながら、記憶を掘り起こし、揺り動かし、圧縮し、まぜっかえす。証言者たちはみな、ピノチェト時代に「消失」した家族や近親者の人数を語る。

人民連合のテーマ曲「ベンセレーモス」を演奏しながらサンチァゴの街を行くマーチング・バンド。この曲が街頭に流れるのはアジェンデ時代以来、20数年ぶりだという。人々はさまざまな反応を見せる。拍手する女。なんでいまさらといった顔の男。眼光鋭いオヤジが力強くピース・サインを出す。そしてもう一度、眼光鋭いオヤジが力強くピース・サインを出すショット。ピース。そこから、「チリの闘い」の同曲の流れる場面へとスムースに移行する。

「チリの闘い」を見た学生たち。女子高生?たちのディスカッションでは、クーデターを歴史の既成事実としてとらえているがゆえの発言も目立つ。20代から30代にかけてのグループは、呆然と涙を流しながら見ている。うちひとりは、クーデター当時は小学生で、学校に行かなくてよくなったのでベッドの中で喜んでいた、と顔をぐしゃぐしゃにしてしゃくりあげながら告白する。

「チリの闘い」を見ると、チリ国民は地球上でもっとも美しいひとたちだ、と思わざるを得ないけれども、忘れがたいいくつかの顔に、ここで再会できる。

−−−

ところで、TIDFの会場のひとつである新光影城の入っている建物のことを、どなたかが「中野ブロードウェイみたい」と書いてらしたのにはなるほど言い得て妙、と思いましたが、西門町自体は原宿がだだっ広くなったような街です。で、ここには映画館もぽつぽつあって、そのうちのいくつかは、平日でも最終上映は午前3時とか4時とか、宵っ張りなのか早起きなのかわからない状態で営業してます。それはさておくとして、やはり西門町の映画館である真善美戯院で、ちょうどまた別の映画祭がおこなわれていました。

城市遊牧影展(アーバン・ノマド・フィルム・フェスティヴァル)(→☆)というのがそれで、そんなの誰も知らないと思いますが、もう15回くらい続いている由緒正しい映画祭なんだそうです。プログラムはアート、サブカル寄り。こちらで見たドキュメンタリー2本も、めちゃくちゃ面白かった。

◎John Pirozzi「Don't Think I've Forgotten: Cambodia's Lost Rock & Roll」(2014)

フランスからの独立後の最初の十数年、カンボジアのすばらしかった時代。「東南アジアの真珠」と呼ばれた美しい都市、プノンペンには、東洋と西洋が交差した独自の音楽文化が花開いており、エレキ、ラテン、歌謡曲、サイケ、ハードロック、ソウル、日本にあった程度のものは全部ここにもあった。

アフロ・キューバンな音、中でもチャチャチャに強く影響されたダンス・バンド。ロックンロールは最初フランス経由で、のちにアメリカから、入ってきた。シャドウズを動きまで模したようなエレキ・バンド。サンタナ「オイェ・コモ・バ」のクメール語カヴァー。ヴェトナム戦争の影響でもたらされたソウルやファンク。70年代になると、きっちりしたピッチで歌っていたそれまでの歌手とは違って、リラックスした雰囲気で「君のともだち」をクメール語と英語のちゃんぽんで歌うようなひとも現れる。「わたしたちの時代の音楽が出てきたと思った」とのコメント。魔女か! スーパー・レディか!

内戦の激化とともに、夜間外出禁止令が発令されると、ナイト・クラブの営業時間は午後から夜早い時間へとシフト。外に出ると危ないとなれば、娘たちは家の中で音楽をかけて踊る。シハヌークは「音楽は国の魂だ」と言った。

クメール・ルージュ時代の話は避けては通れない。証言者の全員、みな必ず、身近に複数の犠牲者がいる。お前は都会では何をしていたのだと問われ、歌手だと知れると命がないから、バナナ売りでした、とウソをついて生き延びた女。

タイトルは「忘れたなんて思うなよ!」といったプロテスト的な意味なのかと思ったら、歌謡曲(ラヴ・ソング)の一節からとられたようだ。見る機会はなかなかないと思うので、興味のあるひとはサントラ盤だけでもどうぞ。いまアマゾンの商品ページを見たら、ひとつだけついているレヴューのなかにさらっと「参加アーチストのほとんどが1975−79年に没しており」とあって、その意味にぞっとする。ピース。

◎Shan Nicholson「Rubble Kings」(2015)

1960〜70年代のニューヨーク、ブロンクスのストリート・ギャングのドキュメンタリー。オープニングからして最高で、全身刺青だらけの人間みたいなグラフィティだらけの地下鉄、駅の改札を軽々と飛び越える無賃乗車の男たち、そして「当時のブロンクスのおもな収入は犯罪によるものだった」との証言。続いて「1979年、ウォルター・ヒル『ウォリアーズ』のブロンクスの描写が衝撃を与えたが、その7年前、現実ははるかにひどかった」との字幕。わくわくせざるをえない。

ゲットー・ブラザーズのカラテ・チャーリーが、60年代と70年代の雰囲気の違いを端的に表現する。曰く「"I have a dream"? No, you don't.」。ピース・サインはいまではぶっ立てた中指になった、とも。当時のブロンクス、大家が店子の立ち退きと保険金の詐取を目的として、自分の建物に放火することがおこなわれていたとか。

ブロンクスの各地や、ニューヨークのその他の地区で、ストリートごとに乱立したギャングたち。ティームそれぞれ毛色が違う。ターバンズはヴェトナム戦争の退役軍人たちによる集団で、銃火器で武装。ゲットー・ブラザーズはブロンクスだけで2500人のメンバーがいて、ほかにも支部があった。そのうちティーム内でバンドが結成され、レコードもリリースしたとか。と言われてみると、そういえばそれ、持ってたような(結局、確認してない)。

トラブルが発生するとドラムで連絡をとるので、至るところからドラムの音がしていたと。ティーム同士の対立が頂点に達したころ、多くのティームが一堂に会しての和平集会が開かれた。それがきっかけで路上でのパーティが日常化し、そこからヒップホップ文化が発生したことを紹介して〆る。ピース。ちなみに音楽はわりとずっとラテン・ファンクっぽいのが流れててかっこいい。

余談ながら、大人になってカサヴェテス「グロリア」を見たとき、あ、ここに映ってる景色ってまさに自分が子供のころに持っていたニューヨークのイメージだわ、と思ったんだけど、いま調べたらあの荒れ果てた街はサウス・ブロンクスって設定だった。

わたしがニューヨークに初めて行ったのは子供時代からずいぶんたった2008年のことで、ブロンクスには足を踏み入れなかったものの、それでもだいぶ緊張しながら歩いていたはずだ。また行ってみたいけど、この映画見たらなんとなく躊躇してしまう。

逆に台北では完全にリラックスしきっていることに気付いた。普段はほとんど毎日のように原因不明の倦怠感に全身を包まれながら寝起きして仕事に行ってるのが、ここではまるでだるくないし、映画を見ていてもまったく眠くならない。

−−−

こうして振り返ると、わりとずっと拳を握りしめて社会問題を考えていたみたいですがもちろんそんなことはなく、旅の前半は澎湖島に行ってレンタルした原付を時速60キロくらいでぶっ飛ばしたり(JAFに免許証持っていくと台湾で運転できる書類を作ってくれます)、台北では愉快なおともだちのみなさんと合流してものすごい勢いでうまいもん食べあさったり、疲れを取るマッサージを受けたり、都心部から30分くらいで行ける山の温泉を訪ねたり、玄関に置くぶぅくんの置物を買ったり、してました。台湾はいいぞ。

TIDFの100ページ超のプログラム冊子(中文・英文併記。無料でもらえるやつ。パンフとは別)を何冊かもらってきましたので、興味のある方がいらっしゃいましたら差し上げます。ご連絡くださいませ。

○写真、上から
・澎湖島、馬公市の映画館、中興電影城。
・中興電影城のチケット売り場と売店。4スクリーンあって、それぞれ金、銀、財、寶という名前。
・澎湖島から橋を渡って行ける島、西嶼郷のいちばん端っこ近く。部活のあんちゃんたちが走っているのかと思ったら、近くの灯台に併設されている施設の軍人さんだった。
・台北、新光影城。
・「遠東化纖罷工事件」の上映があった、慕哲咖啡。
・2015年の夏の台風で斜めになったポスト。足元のプレートには経緯が記されており、傾いたままの状態で使われ続けている。
映画
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