これを偶然の一致と呼ぶべきか、たぶんそうかもしれないしそうではないのかもしれないのだが、90年代後半にわたしがDJを始めたころに連載が始まったのが近田春夫の「考えるヒット」で、毎週、鼻息を荒く週刊文春を立ち読みしながら、批評行為としてのDJを確立させるためにはどうすればいいかなんてことばかり考えていた。
(いいかげんこの、もってまわっていて中身のない文体はやめにしたいのだが、なぜかこのブログの呪縛があって、いざ書き出すと、こういうふうにしか書けないのだ。さらにやっかいなことに、わたしはしゃべり言葉を書き言葉に寄り添わせるという意味での言文一致主義者だから、つまり今のところ、しゃべっている言葉もこういうふうになってしまうわけなのだ)
楽しんで読みつつ思ったのは、これ読んでもなんとも感じない音楽批評はもうダメだな、ということで、それから10年近くたつのに、近田の後継者は出現せず、それで分かったのは、なんのことはない、ポピュラー音楽のまともな批評なんて誰も必要としていないんだ、ということだった。
(似たようなこととして、保坂和志以降もあいもかわらずどうしようもない小説が大量生産されてマジョリティを占有し続けている現象があるけれども、それについて書くのはもう飽きたので書かない)
しかし誰にも必要とされていないからといって出現していけないわけはないのであって、ついに現れた後継者が菊地成孔だと聞くと、誰もが期待と落胆の入り混じった口調で「やっぱり……」とつぶやきもするだろう。そしてあなたが期待していようが落胆していようが、彼の「
CDは株券ではない」(ぴあ)は、やはり芸と呼ぶに値する文章であって、しかもその芸は、彼の音楽家としての才能に疑念を抱かせるに充分なほど見事なものだ。たいていの人間は足が2本しかないせいで、履けるわらじは一足に限られているのに。
(ここで、古い仁侠映画で使われる「わらじを脱ぐ」というフレーズを比喩に使ってなにか気の利いたことがいえそうな予感がしたものの、思い出してしまったのは、深作欣二の何かの映画での、仲間を密告したヤクザが、風呂場で、文字通り「足を洗っている」シーンだった。ついでにいえば、子どものころ、遊んで帰ってきて、足が汚れていると濡れ雑巾でぬぐったりしたものだったが、あれを今、誰かにやってもらうと気持ちいいかもしれない)
と、まあ、これくらいの分量を書いておけば、一回分の日記としては申し分ないだろうから、あとは、「CDは株券ではない」から印象的なフレーズをいくつかご紹介して、本日は失礼することにしよう。
鬼束ちひろについて。これを書いたせいで、脅迫メールが多数届いたらしい。
歌を歌う、特に女性が、自意識を覚醒者、絶対者、降臨者、霊能者、後なんでもいいけど、そういう風に感じて疑わないことがどれほど罰当たりで危険なことか、ほとんどの人が知らないのではないか?
バンプ・オブ・チキンについて。
<青春>という強烈な病理を、あらゆる角度から臨床的に所見してゆくもの。それがロックなのだと僕は考えます。
対談で登場した近田春夫氏の発言。どきっとさせられる。
みんなさ、音楽が好きってことより、応援したり非難したりするのが好きなんじゃないの。
で、最後に、オレンジ・レンジについて書いた回の中にちろっとまぎれこんでいたこのひとこと。完全に賛同したうえで、爆笑する。
沖縄以外の人間が沖縄にアダプトするのは何でも大嫌い