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DV男は反省しない
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)


今週は月・火・水・木と4連チャンで新文芸坐に行き、そのあいまを縫ってユーロスペースに行ったり早稲田松竹に行ったりシネパトスに行ったり仕事に行ったりご丁寧に発熱までしていました。あまりに鶴田浩二の顔を長時間見ていたものだから、今度どこかで見かけたら知り合いかと勘違いして声をかけてしまうかもしれません。

それにしても木曜日に見たフェリーニの「81/2」の空疎さには恐れ入りました。金と時間と手間隙をかけて、こってりと幼稚な観念を塗りたくっているものとしか思えなかった。今週は大島渚の「新宿泥棒日記」も見まして、このふたつを比べてみたくなったのは単に見た日にちが近いからという以外にはなにもないのですけど、フェリーニにはほとんどなかったマジカルな瞬間が、ここでの大島渚にはしばしば噴出していたと思います。予算は10分の1くらいでしょうけど。ひとことでいえば「81/2」は燃費が悪い。

「81/2」では劇中、巨大な発射台(心理学の幼稚な絵解き……)を見た登場人物のひとりが「仰々しいあばら家」と指摘していて、また、押しかけてきた記者のひとりは「自分の人生に他人が興味を持つと思っているのか?」というようなことを言います。20歳過ぎのころに読んだ大江健三郎の中に、「えらくなったからといって誰か他人が自分のために死んでくれると思ったら大間違いだ」とかいった一節があってわたしはひどく感銘を受け、また、数年前には、漫画家の中田雅喜が「悩んでいる場面には絵にならない」と喝破したのにも目からウロコが落ちたものでした。たぶんフェリーニが見せた自己批判的なセリフは単なるポーズでしょうが、悩んでいるところを絵にするやり方を示したところは認めてもいいかなと。

ところで、有楽町のガード下の騒々しい飲み屋の、フェリーニ的と無理やり言えば言えなくもない喧騒の中で話し合った結果、「しんぼる」は松本人志の「81/2」なのではないか? となりました。もちろん、「しんぼる」を見ていない者同士の意見にすぎません。

わたしが「81/2」を好きでないと言うのは、内容の幼稚さと画面の魅力のなさで、たとえばラストの手をつないでぐるぐるにしたって、さまざまな音楽が入り乱れるジョナサン・デミ「レイチェルの結婚」(ロ、ロ、ロビン・ヒッチコック!)の結婚パーティの幸福感には遠く及ばないのではないか? もっとも、相当いいとは思う「レイチェルの結婚」にしても満点をつける気にならないのは、ドラッグ問題から話が出発しているからで、最初に衝撃的なトピックでガツンと客をぶん殴ってそれからなだめたりさすったりして徐々にご機嫌をとっていくのでは、それではDV男とおんなじじゃんか、と思ってしまうから。

ここで話をそらすと、これでもって溝口とフェリーニはわたしのなかで、もう10年くらいは見る必要のない監督リスト、に入った。それにしても、たとえば音楽だったら、ピーター・バラカンが「ゼペリンはぜんぜん好きじゃないんですよね」と言ってもそれはそれで意見として認められるし、鈴木カツがジャズのことにまったく触れずにアコースティック・スウィングの原稿を書いたとしても見識ある第一人者の地位は揺るがない。それと比べると“正しい”映画ファン、あるいは映画ファンとしての正しさ、は1種類しか存在しないみたいで、溝口とフェリーニが嫌いなのは個人の資質や趣味ではなくて未熟さゆえとみなされてしまう。こんなおそろしい世界、入ってくるひとが年々減ってくるのは当たり前だと思うよ。

ところでDVで思い出したけど、ワイズマン。このひとはなにを撮っても問題意識がなくて、そこがよい。今回は比較的初期の「エッセネ派」(平日の昼間っからほぼ満員)と「霊長類」を見ただけなので近年の作品ももっと確認しないとはっきりとしたことは言えないけれど、カット割りは完全に劇映画と同じ手法を使っていますね。「霊長類」でふたりの研究員がなにかを運びながら建物の外に出て行くのを背中の側から撮るショット。そこに、出てくる彼らを前方から待ちかまえたショットが続く。あれ、こんなことしてたんだ。

さらに、観察・記録の手法をひとりがひとりに説明するふうをよそおって、実は観客に聞かせる演出もされていたし、それで驚いてはいけない、誰もいないように見える部屋で、霊長類の進化の過程についてえんえんと研究員が解説をするシーンすらあった。あれ、こんなベタなことしてたんだ。

「霊長類」の説明のための説明がいかにも説明という感じで耳を素通りしていったのに対して、「新宿泥棒日記」での性科学者、高橋鐵の話には思わず聞き入ってしまう。それはたぶんそれが、ドキュメンタリーでも劇映画でもない、本人が本人を演じる映画でしか聞けない言葉だったから。わたしはこの高橋鐵に、森谷司郎「日本沈没」に出てきた竹内均のことを思い出した。あの竹内博士は、地球物理学の専門家として、映画の中でプレートテクトニクスの話かなんかをしていたのだったと思うけど、俳優でない人間が突然劇映画に登場してきた異物感もさることながら、専門家が専門の話をするときならではのグルーヴと熱がきちんとあって、あの平板な大作のなかでほとんど唯一、ワクワクさせられる瞬間だったと思う。もちろん以前いちど見たっきりで、今後再見する予定も希望もないからうろ覚えです。

そんなこんなの1週間、結局いちばん好きだったのは待田京介でした。ちょっと前から薄ぼんやりと気付いていたとはいえ、このひとの存在の重要性を認識するのがあまりにも遅かったな、と猛省しております。

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写真は最寄り駅から家に帰るまでの間にある中華料理屋が店の前で売っている折り詰め。写真左をまず見かけて、アバウトさに失笑した数日後、写真右に遭遇しました。
映画
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