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存在しない
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
日曜日の「映画のポケット」、無事終了しました。悪天候の中お越しくださったみなさん、ゲストの浜野さん、資料提供にご協力くださったみぎめさん、どうもありがとうございました。

例によって時間がのびてしまい、長時間窮屈な姿勢をみなさまに強いてしまったことは申し訳なく思っています。司会としては、浜野さんの話を適宜交通整理したり誘導尋問したりしたほうがよかったのだろうけど、おそらくあまり語られる機会もないだろう生の話題の数々に割って入るのはしのびなく、そのまま聞いていました。

実は「映画のポケット」の構想のひとつとして、「資料」なしで、純然たるトークだけの回をやってみたいという気持ちが前からあります。資料を駆使して映像を映像として分析することの重要性を否定すべきではないとも強く思うのですが、同時に、分析から離れたところで、「じゃああんたはそれを見てどう思ったの?」というところが知りたかったりもする。たぶん「映画のポケット」は、今後も、その両極端の間を、振り子のように揺れることでしょう。

今月は1回お休みで、次回開催は8月下旬です。詳細はまた決まり次第、ありのまま順次お知らせしていきます。

−−−

ところで、今月公開の映画「アマルフィ 女神の報酬」のクレジットに「脚本」が存在しないことが(ごく一部で?)話題になっている様子。現物(試写)は見ていないので公式サイトに行ってみると、スタッフのプロフィール欄にたしかに脚本家についての言及がない。Wikipediaの該当項目には、原作者の真保裕一の名前が脚本家としてもクレジットされている。それは正しくないだろう。

写真は「CREDIT」(クリックで拡大)。もちろんもっと下に続いているけれど、音楽と撮影の扱いの小ささも気になるところ。

この事実は少なくとも広く知られるべきだとは思うし、腹を立てるべき立場のひとたちがいるのも分かる。何の関係もないわたしは、珍現象として面白がっていればよさそうだとはいえ、正直、別に面白くもない。昨年くらいからか、金曜日の夕刊にずらりと並ぶ新作映画の広告に、監督の名前の記載がないことが増えてきていて、そっちのほうが気になる。

単に独立した「作品」としてだけ映画を見ることはもはや不誠実なのでしょうね。自分の知っている(気がする)のとは別のプロセスで映画が作られている。いや、昔からそうだったのかもしれない。
映画
comments(4)
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突然すいません、通りすがりました。
アマルフィの脚本、企画が公表された当初「映画の脚本に参加することに面白さを感じた」という真保さんのコメントを読んだ記憶があるので、てっきり脚本も真保さんなんだろうと思っていたら(彼は脚本家の経歴も確かあったはず)、いつの間にか「原作」という扱いになっており「脚本」の触れ込みがフェードアウトしていたので、おかしいなあと思ってはいました。

発売された「原作」なるものには、作者のコメントとして「映画は違ったストーリーになったけれど、最初に書いたアイディアが捨てがたく、こちらを小説としては採用した」とあり、しかもあの映画のPは脚本に口を出すことで有名で、某興収日本一の映画もPが最初に「●●ブリッジを封鎖」という絵づらを考え付き公言してしまったので、脚本家が四苦八苦してストーリーを作ったという話を読んだことがありますから(三題噺じゃないんだからさあ…と思いますが)、ひょっとすると今回もそういったようなことがあり、「脚本家」とクレジットするには色々な人によって改筆されすぎた…という背景があるのやもしれません、私見ですが。
通りすがり : 2009/07/01 4:14 PM
どうもありがとうございます。
漏れてくる情報を総合すると、最初は原作者が単独あるいは共同で脚本を書いていたのは間違いないと思われます。ご推察のとおり、途中から複数人による直し(プロデューサーの意向を反映する形での)が相当に入ったのでしょうね。そのこと自体は別に珍しくありませんが、最終的に名無し(=誰も責任をとる気がない)というのはすさまじすぎます。

シナリオ作家協会がどういう反応をするのか、野次馬的に楽しみにしています。東宝=フジテレビ組にあまり大きく出られるとも思えませんが。
鈴木並木 : 2009/07/01 10:50 PM
お返事わざわざありがとうございます。
やはり私見の通りなんでしょうか。

主演は織田、舞台はイタリアというオーダーが最初にあったようだという話は耳にしており、「原作」を読むとその縛りが難しかったんだろうなというのはひしひしと感じられたのですが、それに更に入った「直し」はどういったものだったのでしょうか…。
作品をより深く意味あるものにする為に入った直しならよいのですが、脚本クレジットなしという荒業を考えるに(おっしゃる通り、驚くべきことですね)、製作者や役者のイメージにとって都合のよいだけの直しだったのではないかとも思えます。日本映画の行く末を憂うばかりです。
通りすがり : 2009/07/02 12:33 AM
わたしもこの件の具体的な詳細について情報を持っているわけではないので、完全に推測の話になりますが……。

直しが入るにあたって、途中で関わったひとが自発的におりたりあるいはおろされたりすることも珍しくない話でしょうが、いずれにしても、最終的にまとめる作業は誰かがしているはずで、なんらかの理由でクレジットできない(されたくない)のでしょうかね。そういうときは架空の人名をでっちあげて名義上の脚本担当とするのが普通なはず。原作者がゴネたとかなのかとも思いますが、それなら原作者の名前を外してくれと要求するでしょうし、そもそもゴネているようでもないし、要するによく分からない。

知り合いの業界関係者の推測では、プロデューサーがフジの子飼いのシナリオライターたちにやらせて名前はクレジットしないようにしているのでは? とのことですが。
鈴木並木 : 2009/07/02 1:39 AM









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