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労働者階級の英雄
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
読み終わるや否や、押し付けるみたいにひとに貸してしまっていま手元にない状態で、なおかつそれからまた少し時間がたってしまっているのだけど、それでも、忘れないうちに、佐藤忠男「長谷川伸論」(→Amazon)のことを書いておこう。

いつも思うことだけど、とにかく佐藤忠男の文章のわかりやすさは尋常ではない。いままでいろいろなところで目にしたものを思い出してみるに、読んでいて文意が取れなかったことはただの一度たりともなかったはず。気の利いた(がゆえにときどきわかりづらい)比喩とか、修辞的効果を高める複雑な構文とか、持って回った言い回しとか、思わせぶり、皮肉、当てこすり、そういったものは一切ない。もしくは、読んでいてそれらの存在に気付かされることはない。佐藤忠男は恥ずかしいほどに愚直なのか、それとも異常なまでに自己を律して言葉の過剰包装を避けているのか。

佐藤の著作のすべてに眼を通すことは到底できないけれども、彼とて間違いを書いたり、うすぼんやりとした文章を野に放ったり、的はずれな意見を垂れ流してしまったり、することはあるだろう。それでも根本においてわたしは佐藤に圧倒的な尊敬と信頼を寄せているし、一度など初詣の際の絵馬に「安田謙一先生や佐藤忠男先生のような文章が書けるようになりますように」と書きもしたし、それでも神様はお忙しいらしく、それとも賽銭をケチったせいなのか、わたしの願いはまだ聞き入れられていない。

ともかくそんなわたしはこの本を、佐藤忠男に対するいつもの安心感と、長谷川伸に向けての若干の興味とから読み始めた。まずあとがきを見ると、自分の批評家としての力量はほぼすべてここに打ち込まれているはずだ、といったような一文があり、この手の大言壮語、ハッタリからもっとも縁遠いはずの佐藤がそこまで言うからにはよくよくのことだろうと身が引き締まる。

そして読み進めるうちに、これがとんでもない本であることがだんだんわかってくる。はたして佐藤は、広範な知識と平易な語り口を総動員して、長谷川伸本人の生い立ちから初期の西部劇が日本に与えた影響へと、司法制度の内包する諸問題から日本の道徳観念の変遷へと、教育問題から労働者の生活へと、次々に論を進める。その途中、折に触れて、耐えきれぬように佐藤忠男自身が噴出する! 実際この本は、佐藤が自分自身を長谷川伸に重ね合わせんとする、ほとんど妄執に近い異様な情熱の産物といっていい。

たとえば下記のような文章は、およそわたしたちが映画評論家という肩書きから期待/予想するものからは程遠いし、そして、なるほどこれはいかにも佐藤忠男にしか書けない一節だろうとも思う。

「労働者出身の文筆家というのは、現在の社会では稀少価値である。長谷川伸の時代にはもっとそうであったに違いない。私は、こういうことが稀少価値でなくなる社会を、あるべき社会として望むが、現状はそうである。それが稀少価値であるということは、その書くことの内容も大きく左右する。労働者出身の文筆家は、知識層出身の文筆家とおなじようなことを書いているかぎり、容易に認められはしないのである。しかし、労働者としての経験にもとづいたことを書くと、その稀少価値のために大いに注目されるのである。」

「われわれはいつの日か、封建社会の親分子分の葛藤を扱ったドラマを見て、これはまったく自分と関係のない話だ、と思える日を迎えることがあることがあるであろう(ママ)。その日というのは、われわれが、勤め先の会社や役所において、課長や部長や社長や長官を選挙で選ぶようになったときのことであろう。上役の命令さえあれば無自覚になんでもやるというのでなく、いちいちそれを、自分の良心に照らし合わせるという自由と自覚を得た日であろう。」

もっとも、この本がはじめて世に出た37年前ならともかく、2012年現在、佐藤忠男が労働者階級出身であることをあげつらったりあるいは特別扱いするひともそうそういないとおもうけどどうなんだろう。そしてわたしにとって気になるのは、佐藤忠男がおそらく第一次産業と第二次産業のみを労働者階級と認識していて、それと対比するものとして第三次産業を想像しているのではないか、ということ。誰かが言ってたように、ワン・ビンの「無言歌」を見に行って息を呑むわたしたち第三次産業従事者だって、一介の労働者に過ぎないのですよ!

ところでまた別の誰かが、「ロイドの福の神」について、貧民を小馬鹿にしていて笑えない、と言っていた。たしかにあの映画の中でのロイドは、貧民街の労働者の人格をとくに認めていないように見える。そしてスター俳優であるロイドは、日雇い労働者かもしれないエキストラの数百倍の賃金を得ているだろう。しかし待ってほしい。あの映画でロイドがやっていることは、自らの肉体を資本にした労働なんじゃないか? わたしにとってはそれだけで充分。

ここまでの文章はぜんぜん長谷川伸の話になってないから、長谷川伸のことを名前くらいしかしらないかもしれないあなたはきっと、この本を読もうという気にはならないかもしれない。わたしだって長谷川伸の書いたものは「ある市井の徒」を読んだだけで、ただしこれは、自分のことを普通の人間だと勘違いしている異常人の自伝であり、とてもおもしろかった。ちなみにわたしの分類だと、山口瞳も「自分のことを普通の人間だと勘違いしている異常人」フォルダに入る。そしておそらく、佐藤忠男も。

よしんば長谷川伸をよく知らないとしても、山下耕作「関の弥太ッぺ」や加藤泰「瞼の母」「沓掛時次郎 遊侠一匹」を見たことがあるのならば、いや、見たことがある奴を見たことがあるのならば、この本を読んで損はない。長谷川伸の名前に心当たりがないというのなら、「東京公園」の榮倉奈々を思い出してほしい。それでもまだ長谷川伸について知ることになにがしかの時間を割くことに半信半疑であるとか、日本映画には興味がないとか駄々をこねるのならば、長谷川伸的世界は海をこえており、その残響はウォルター・ヒル「ストリート・オブ・ファイヤー」や、ショーン・レヴィ「リアル・スティール」にも聞きとることができると言おう。もっとも最近の事例だと、ニコラス・ウィンディング・レフン「ドライヴ」のエンド・クレジットに、「Inspired by Shin Hasegawa」と書かれているのが見えた。ただしそれはわたしの目の錯覚かもしれない。
書物
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こんなブログを読んでないひとのために。
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
☆樫原辰郎+角田亮「iPhoneで誰でも映画ができる本」(キネマ旬報社!)(→Amazon)

たぶん、タイトルどおりの本。この本に対して、「いや、そんなことはだいたい知ってるよ」だとか、「これからもっと詳しい本が出るはず」といった批判やヤッカミがあることは当然想像できるわけですが、そういうひとはこれを読む必要はない。たぶん、そういうひとたちに向けられた本ではないから。

そういう意味では、今年出たいくつかの本、たとえば、大和田俊之「アメリカ音楽史」(講談社選書メチエ) (→Amazon)だとか、(これは未読ですが)長谷川町蔵+大和田俊之「文化系のためのヒップホップ入門」(アルテスパブリッシング)(→Amazon)だとかに共通するものを多く持っていると言えるかもしれなくて、現にいま、目を閉じると、どこかの地方都市の高校で、音楽好きのAくんとiPhoneの映像アプリで遊び始めたばかりのBくんが、これらの本を貸し借り、回し読みしている光景が瞼の裏側に鮮明に浮かびます。

映画を撮りたいひとのための入門書はいままでもたくさん存在してきたのだろうと思いますが、1冊読んだだけでまったくの未経験者がシナリオ執筆〜撮影〜編集〜公開までまかなえてしまう本は、世界でも珍しいのではないでしょうか。記述は徹底して具体的。精神論や、もってまわった観念論は一切ありません。ただひとつだけ難点を挙げるならば、B5サイズなので、撮影しに街に出るときに持って行くと、ちょっとだけ荷物になることかな。というか、この本自体をiPhoneのアプリにしてしまえばいいのでは?

読んでいてうならされたところをいくつかうろ覚えのまま抜き出してみると、「鳥がいたらとりあえず撮っとけ(用意しようと思うと大変だから)」「パンをするときにはしっかりしたものに腰を乗せてそれを支点に体を回転させよ」「編集していてつながりが悪いとおもったら音楽をつけろ」「買い出しは監督が自分で行け」などなどで、これだけでも、この本の死角のなさがうかがえるとおもいます。

その死角のなさは、著者のふたりが映像制作において長年にわたって経験/克服してきたのであろう条件面でのさまざまな苦労を想像させますが(違ったらスミマセン)、彼らは、技術のすさまじい進歩によってムダになったかもしれない自分たちの年月を怨むでもなく、流行に乗って一発あてようという山っ気にムラムラしているわけでもなく(多少はあるでしょうけど)、新しいガジェットによって、まだ見たことのない映像が生まれる場に立ち会うことの喜びに胸を弾ませているかのようです。本書に、「スーパー8」のポスターの前でiPhoneを持って微笑む青年の写真が載っていますが、それは、iPhoneによって若返った著者(=かつての8ミリ少年)たちの姿でもあることでしょう。

この本のオフィシャルサポートページ(→☆)では、掲載コラムで紹介されている古今東西の映画をYouTubeで確認することもできますし、著者たちにじかに疑問点をぶつけることもできます。となるとあとは、実際に著者たちの指導のもとで映画を撮るワークショップ的なものが開催されるべきでありましょう。おそらく、5人くらい集まったら開いてくれそうなので、直接連絡してみてはいかがでしょうか。
書物
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凝縮された人生
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
今月のはじめごろから、シネマヴェーラ渋谷で加藤泰の特集が始まっている。最初は、未見のもので、都合がつく日にやっているのだけ見るくらいでいいかなと思っていたところ、しょっぱなに「瞼の母」と「みな殺しの霊歌」を再見してしまい、こりゃやっぱり只事じゃないぞと思いなおし、都合をやりくりして未見のものは極力拾い、以前見たものも再見し、つまらないものもありつつもおおむね惚れ惚れしながら画面に釘付けになり、かつ、同じ監督の特集に通うときならではの「奴さん、また同じことやってる」という安心感に酔い、で、あげくのはてに、東京にはこれだけ映画館があるんだから、ひとつくらいは加藤泰だけを常にじゅんぐりじゅんぐり上映し続ける映画館があってもいいのではないか(*)、と思っているところです。<イマココ

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加藤泰とは関係なく、最近読んだ本。

☆四方田犬彦・編「思想読本9 アジア映画」(作品社)(→Amazon

第1部は四方田による序文。第2部は四方田+とちぎあきら+門間貴志+石坂健治による座談会。第3部は東は韓国、中国から西は北アフリカに至る各国の合計101人の映画作家の紹介。第4部はアジア映画を知るためのブックガイド。という構成。

たぶん2003年の出版なので、情報としての新鮮さはもちろんそれなりなんですが、とにかく何かを概観したいという欲求に突き動かされて生きている人間にとっては、たいへんおもしろい読み物でした(人生も5年くらいのダイジェスト版でいい)。

第3部では、ほとんどの作家は1ページ(800字か1000字くらい?)で紹介されてしまっていて、みなそれなりにその国で確固たる地位を占めているひとたちであろうに、その無理やりな感じがかえって懐かしく、気持ちよかった。いまもあるのかどうか知りませんが、昔は洋楽のCDとか買うとライナーノーツがついてきて、いまから思うと正しくない情報が載っていて、「80年代以降はかつての輝きを失い、失速した。」とか一言で人生まとめられちゃってたりして、読んでるこっちも若いもんでそうか、失速したのか、なんて鵜呑みにしてたわけ。その鵜呑み感をひさびさに思い出しました。この101人のうち多くは、今後わたしが作品を見る機会にめぐりあわないだろうひとたちだろうけど、そうしたひとたちのことをこうしてまとめて読んでおくのはいいことだし、たぶん何かの拍子にふと、この本の一節が頭に浮かんだりすることはかなりの確率であると思う。

こうした字数での紹介において、しばしば使われるのが見立てというかたとえで、この本でも、「イランの大島渚であり若松孝二」とか「タイの衣笠貞之助」とか「インドのジョージ・キューカー」とか、そういった表現がそこかしこに出てきて、嬉しくなる。こういう言い方を、劣った/未開の/第三世界の映画作家を西欧的な基準にあてはめる言説だ、などと批判的に見ることも可能でしょうけど、わたしなどはその想像力の飛躍に、もう単純にわくわくしてしまうし、その興奮を学術的に分析しても仕方ない気がしました。

実際問題、いま入手できる情報量は膨大で、じゃあアジア映画の人名録も電話帳みたいのもできるだろってなるだろうけど、そんな、人間の処理できるレヴェルを超えている本が出たって読めないし、それ以前に持ち運べない。現在出回っている情報って、おおまかにわけてコンプリート系かセレクトショップ系がほとんどだから、こうしたややオールドスクールなガイドブックのスタイルは好もしい。何系かと言われると、概観/教養系なのかな。流行らないやつね。


*「陰獣」は上映しなくてよろしい。
書物
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ハウ・トゥー本
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
最近読んで、よかった本をいくつか。

*佐藤忠男「12歳からの映画ガイド―生き抜く力を学ぶ!必見50本+150」(小学館)(→Amazon)

タイトルどおりの本。今月末の映画のポケット(→☆)のネタ探しに役立てようとの意図もあって購入。佐藤忠男は、(問題点も込みで)わたしがもっとも敬愛する映画評論家のひとりで、この本でも、たかだか子供相手にいつもどおり本気になっています。必見50はさすがに容易に入手可能なものが多そうだけど、参考作品の選定が容赦なくて、羽仁進の「ブワナ・トシの歌」(ずっと見たいと思っていていまだにはたせずにいる)なんかを平気で紹介している。

身の周りのことから友情、学校、性、労働、環境問題、人種差別、と話は果てしなく広がっていって、なんだか、映画さえきちんと見ていれば世の中のことは全部わかってしまうのではないか? との力強い錯覚に陥ります。このひとならではの、幅広く歪んだ視点に貫かれていて心地よいです。わたしには。

*フォート・キシモト「東京オリンピック 1964」(新潮社)(→Amazon)

とんぼの本って初めて買ったかも。写真と、当時書かれた文章(新聞、雑誌の記事、公式文書など)だけで構成されているという触れ込みですが、もちろんキャプションはついていて、それが本文に引きずられたかのような昭和な味になっているのが好ましいところ。

山口瞳、北杜夫、三島由紀夫、安岡章太郎、武田泰淳、曽野綾子、などなど、豪華なメンツの参加したアンソロジーとして読んでも楽しい。総動員されるのは報道関係者や土建業者だけではないのだな。まさに国家事業。

*柴田元幸、高橋源一郎「柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方」(河出書房新社)(→Amazon

この顔合わせでこのお題、はい、だいたい想像通りの内容です。なんですが、なおかつ、目からウロコの連続。ひとによっては貼り付けた付箋でふくれあがったり、引いた線で真っ赤になったりすると思う。

最初のほうでコードの話が出てきて、それはcodeのことなんだけどいつの間にかchordの意味も入ってきているように読める。おんなじような趣旨というかコードという単語の使われ方がされている文章を以前にも読んだ気がするけど誰の何だったっけ。

わたし自身はもうほとんど小説を読まなく(正確には、読めなく)なっているのだけど、(一応)現代に生きていて言葉を使っている人間として、得るところはあまりにも多かったです。たぶん水村美苗のなんだとかより重要なのでは。ぱっと見では失敗作かと思われる、数年前の草思社系のハウ・トゥー本みたいな装丁も、だから逆説的に、とても正しい。

なぜなら、現代の小説の問題点(のひとつ)は、それが小説の本の装丁をして小説本のコーナーに売られていることだと思うからです。

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是枝裕和「空気人形」を見ました。映画は常に総合点しかつけられないものであり、つまりパーツに分解して部分点を与える作業はそもそもナンセンスである、と重々承知の上で申し上げるならば、撮影と美術の充実と比べて、あきれるほどに幼稚な思想が充満していました。

見た直後はだいぶげんなりしていて、ここにあるのは記号のお面なのだから人間である必要はない、とか、行き過ぎた作家主義の弊害、とか、カッコつきの「現代性」「文学性」が積極的に害をなしている、とかいろいろ考えていたのですが、24時間以上たったいまではだいぶ落ち着いてきました。豊潤なヴィジュアルと貧弱な言葉とがせめぎあって、総合すればややプラスだな、といったあたりに決着しています。

しかしこれは皮肉でもなんでもなくて素朴な疑問ですけど、そんなにみなさん、自分が取り替え可能な存在なのではないか、と気に病んでおられるのでしょうか? 各人が容易に取り替え可能な存在でなかったら、資本主義は回転していきませんでしょう?

吉田健一は以下のように言っています。「現代」ですらないですよ、「近代」であることにご留意ください。

近代的であるということは、不安を表現しているとか、複雑であるとかいうことではなくて、不安や複雑の中で育った人間に、それが大したものではないことを教えてくれることなのではないだろうか。

この映画での是枝は圧倒的に、「釣り」なのかと思うくらいに、古いし、頭が悪い、と思います。カジュアルなよそおいと見せかけて実はおしつけがましい、といったあたりは強く「現代」を感じさせました。

あと、ああいう、ふだん詩なんて気にしてないクセにとってつけたように引用する「天声人語」的なやり方は、すでに荒川洋治によって批判されていますよ。

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最後にまろやかな話題で〆ますならば、夏ごろから、歯が気になっています。みなさんの家の近所にも歯医者さんのお店があると思いますが、その多くが、歯をモティーフにしたキャラクターを看板やガラスにあしらっています。歯に手足が生えて元気に飛び跳ねていたり(口の中を見る鏡を持っていたりする)、あるいはにっこり微笑んでみたり。しかし、かわいいな、と心から思えるものにはほとんどお目にかかれない。所詮は歯、ということなのでしょう。

身の周りにこれぞ!と思われる歯があったら、ぜひ写真を撮って見せてください。
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都会で読者になるのは大変だ
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
いろんな本を読んでるあんたらもどうせこれは読んでないだろうけどさあ! と、別段自分が偉くなったわけでもないのにいきなり高飛車に書き出してしまっているのは、安田謙一の奇書「ピントがボケる音」(国書刊行会)をようやく買って、再読し始めているから。

実際問題、これを読んでもなお音楽だの映画だのについてぐだぐだとしょーもない日記を書き続けている奴の気が知れないんですが(わたしです)、それにしてもこの本、読んでいるひとはとっくに読んでいるし知らないひとは一生知らないままという、まあいまどき本なんて、そんなもんかもしれませんけど! と、急に逆ギレしてみたりしても話は進まない。

たとえば本書の序文を書いているのは岸野雄一だと耳打ちすれば、最近まで岸野のキの字も知らなかった鈴木英夫ファンも居住まいを正すかもしれないし、安田が昔「ポップス渦巻島」なるラジオ番組をやっていたと書けば、石井輝男ファンもこぞって渦を巻くかもしれないし、バーコードバトラーについてのコラムをデレク・ハートフィールドの未刊行短篇発見のニュースから始めるやりくちは、あるいはダリル・ガーランド「骨くず」の愛読者にも充分にアピールするかもしれない。

わたしはといえば、この本を読みながら、ちょうど一昨日買ったばかりのシアトルのガレージ・バンド、リヴァリュエイターズ(その名も「再評価屋さんたち」だ)のCDを聴きながらコーヒーを飲みながらライナーを読んでいたら、メンバーのうちふたりがシアトルから100kmくらい離れた辺鄙な(たぶん)島、スウォール・アイランド(渦巻島!)出身だと知ってひどく衝撃を受けたものだ。

そんなホラ話はともかく、本書には、わたしがピンチョンの「ヴァインランド」に捧げた、「この本を読まずにロックがどうのだの60年代はこうのだの言う評論家は信用しない」との賛辞をもう一度使い回して捧げたい。

のだけど、ちょい待ち。ピンチョンが600ページかかって煮込んだ大衆文化の闇鍋を、やれといわれればしぶしぶ600字で要約できてしまうのが安田謙一なのであり、膨大な知識の中から取捨選択する目の確かさもさることながら、ウェブで読むコラムの大半が圧倒的に物足りないのは、なるほど、紙媒体には不可避的につきものの字数制限がないからだ、ということにも(いまさらながら)気付かせてくれる。必読。

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明日19時から、下北沢気流舎にて「映画のポケット」です。真魚八重子さんをゲストにお迎えして、わたしと真魚さんの映画遍歴について話します。こぞってお越しください。
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そういう本
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
エッセイ集のようでもあるその本の後半何分の一かは著者の日記になっていて、著者が日々買い続ける大量のレコードについて記されているので、わたしは朝晩の電車でそれを読みながら、気になった部分に、何種類か折り込まれていた新刊案内を次々にはさみ、夜、帰ってきては、それらのレコードの値段をイーベイで確認し、翌日はまた同じ手順をとりながら、読み進める。そういう本。

著者は元ミュージシァン、現在は作曲家/編曲家で、少しくらいは知られているかもしれないその名前を挙げてしまうと、読みたがるひとよりも読まなくていいやと思ってしまうひとが多そうな、そんな本。

この著者のこの種の著作は約11年ぶり2冊目で、もしこうした本を毎年1冊出してくれるのだったら、彼の作る音楽はなくてもいい。つまり著者は男である。そういう本。

とはいえこの本は、ある専門職に従事する人間の目が世界をどう見るか、についての本であり、つまり、宮大工の回想録や、侍従が記録する皇居の中の様子や、ハワード・ホークスの描く猛獣狩りや、トリュフォーが話してくれる映画作りの過程や、古老の語る村の伝説や、マキノ雅弘のホラ話や、大泥棒のなんだかんだなんかと同じくらいエキサイティング。そんな本。

前作の書評が週刊朝日に載ったときのことを覚えている。評者は坪内祐三。その時点では単著はまだなかったので、わたしにとって彼は週刊朝日の書評欄のシブいひと、というだけの認識。ちなみに同時期の同誌の同欄には、高橋源一郎や斎藤美奈子や荒川洋治がいたはずで、どうでもいいが、最近出た斎藤美奈子の新刊は、持ってみるとブロック塀に使うブロックくらいの手ごたえがある、そんな本。

1冊目を出したあと、著者は「こういう本を出すと原稿依頼がどんどん来るようになりますよ」とひとに言われたが、実際はそれほどでもなかったそうだ。それからいままでの11年間の最初の何年間か、わたしは1冊目が文庫になるのを待ち続けたが、結局、文庫に入ることはなかった。だから、この本をわたしからプレゼントされそこねたひとが、日本に幾人かはいるはずである。そういう本。

それからわたしは坪内祐三と荒川洋治の愛読者になり、高橋源一郎は現存する中では日本一の小説家になり、わたしは斎藤美奈子の「妊娠小説」の映画化の企画を引っさげて某映画会社への就職を試みて、失敗した。ほかにもいくつかの物事に失敗しているはずである。そういう本。

この11年間、著者はバンドを解散し、離婚してから再婚し、やりたくない仕事をアルバイトと称してせっせとやって体をこわして入院し、つまらないものはつまらないとはっきり書くようになった。それを歳をとったと言ってもいいし、What are you doing the rest of your life?と言ってもいい。そういう本。

ふだんならば気になる箇所があると気軽にページの端を折るところ、この本に限って新刊案内の類をはさむなどとまどろっこしいことをしたのは、珍しく新本で買ったから。読み終えるのが惜しい、というのはつまり、何もはさむところがなくなってしまうことへの惜しさ。そんな本。

出版されてから1か月たったが、1冊目同様、まったく話題になっていない。買ってもしつまらなかった場合は鈴木のところに直接持ってくれば即座に全額返金されることも、あまり知られていない。そんな本。

著者の名前は小西康陽、本のタイトルは「ぼくは散歩と雑学が好きだった。 小西康陽のコラム1993-2008」。版元は朝日新聞社、定価は2415円。
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無防備になるための準備
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
ヨドガー対ハスミン、ヤマダ組第一回戦とも言うべき、「映画千夜一夜」(中公文庫)を読む。

淀川長治、蓮實重彦、山田宏一の3人による座談会という体裁になっていて、一応はそれで正しいのだけど、蓮實と山田は淀川先生を両側で支えているだけで、しかもこのご老人、支えられていながら蓮實のことをニセ男爵だのインテリ趣味だのと言いたい放題、山田にいたっては「山の手のピアノ弾いてるお嬢ちゃん」扱い。「薔薇族の少女趣味」とも形容されていたな。これ、ちょっとすごい。

内容としては非常に高度なのだけど、つまりはバカ話。なにしろあの蓮實が、誰それは脱いだとか脱がないとか、「デボラ・カーって馬鹿みたいな顔じゃないですか」とか、無防備発言を連発しているのだ。それらを引き出した淀川先生の人徳は最大限にたたえられてしかるべきだろう。

もう完全に失われてしまった数十年前の映画を、あたかも昨日見てきたかのように再生する淀川の語り口はやはり驚嘆に値する。原著が出てから15年以上たち、淀川先生なしで世界は動き続けているわけだけど、発刊時に蓮實、山田とも未見で、淀川先生にさんざっぱらバカにされたウィリアム・ワイラーの「孔雀夫人」も、今ではDVDで見ることができる。それにわたしたちは、フィルムがとんでもない場所で見つかることがあるのを知っている。希望を持っていけないことはない。

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読みながら、楽しみながら、これは自分にはもったいない本だなあ、とため息をついていた。なにしろ、当然見ているべきなのに見たことのない映画、名前すら知らない映画、今後死ぬまで見る機会のなさそうな映画、といったあれこれのオンパレードなので。

と同時に、自分の中の無防備になりたい欲求がむくむくと顔をもたげてくるのも感じる。それはたとえば、わたしがいかに佐久間良子の顔にエロさを感じるか、などについて。まあしかし、こんな話はどうでもいいですね。

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ところで、映画の本だからそれでいいのかもしれないが、この分厚い文庫本の2冊組に、音楽のことはほとんど出てこない。せいぜい3,4か所だろうか。以前から、蓮實の映画本に音楽とか、サブカルチャー全般に対する言及がほとんどないことが気になってはいたのだけど。

「映画千夜一夜」では、ヴィスコンティのためにまるまるひとつの章が割かれている。いまこれを書いているわたしはもちろん、読んでいるあなたも、たぶん貴族とは縁もゆかりもない人間だと思うけれど、ヴィスコンティの世界観をサブカル的に(≒ネタとして)受容できる層は潜在的にはかなり広がっているのだと思う。

以前ときどき、映画をより楽しむためにはゲイ(的感性を身につけた人間)になる必要があるのではないか、と思っていたことを、この本を読んでまた思い出した。と書いても、とくに淀川先生に失礼には当たらないはずだ。
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わたしは本を読んでいておもしろそうな箇所があるとページの端っこを折るような人間です。
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
前回の日記で紹介した、鈴木惣一朗「モンドくん日記」(アスペクト)を読み終える。

いつも、音楽についてなにかを書くときに考えている理想。その音楽を作った音楽家が読んで、「そうそう、そういうことがいいたかったんだよ」と喜んでくれるような文章。あるいは、作った本人が気づきもしなかったようなことを掘り当てるような文章。そういうものが書けたらいいなと思っていた。

現役音楽家である著者の書く文章は、運よく、上記の2点を兼ね備えている。当たり前だけど、音楽家がみな音楽に詳しいわけではないし、音楽についていい文章を書けるとも限らない。とはいえ、音楽家自身が音楽について書けるのであれば、それがたぶんいちばんいいし、つまり、世の中に鈴木惣一朗のようなひとがあと何人かいたら、ぼくは何も書かない。

ひさしぶりに背筋が伸びた。生半可な気持ちでの発言や、他人に感心されることを第一の目的にした文章や、生煮えの表現はいらない。少なくとも音楽に対しては、このひとに見られても恥ずかしくない態度をとり続けたい、そう思った。

まあ、気が変わることは大いにありうるけれど、とりあえず、そういう気持ちにさせられた。おそろしい本。もちろん、その前に、とてもいい本だ。

−−−

例によって、気になるフレーズがあるたびにページの端を折っておいたので、おせっかいでいくつかご紹介しよう。

作られた音楽は雄弁に、それを作った音楽家のすべてを語る。すべての状態を無惨にも見せつける。その音楽を聴くだけで、その音楽家の人格のすべてを判断していい。

ハリー細野との対話。

鈴木「僕は、1990年代、1980年代、1970年代、1960年代の夢は捨てることができても、1950年代のアメリカの夢には、今でも強いリアリティを感じているの。人工的に作られたハワイに、夢のリアリティを感じる」。
ハリー「それは、それを信じようとする当時の人々が本気で、その夢を信じ、願い、祈ったからだよ。鈴木くんはそのリアリティに反応してるんだよ」。


細野を介して出会った、小西康陽とのこと。ふたりは細野主宰のレーベル、ノンスタンダードから、同じ日にデビューしたのだとか。80年代。ピチカート・ファイヴの解散に際して書かれた長い一文は、安直な言い方をするならば、ひどく感動的だ。その中から。

小西くんは明らかにポスト・モダン派で、ぼくは明らかにモダニズム派だった。見解は真っ二つに分かれた。「音楽で新しいことなんてもうできない。編集するのみだ」。ウォーホール的な、これが小西くんの見解。「もちろんそうだろう。でも、新しいことができると、願う気持ちは大事だろう」。ディズニー的な、それがぼくの見解だった。

録っては消し、風邪をひき、打ち合わせをし、試行錯誤し、音楽を聴き、食事をし、酒を飲む。ほんとうにひさしぶりに、ミュージシャンの生活に憧れた。グルーピーと寝たりはしていないようだけど。

いろいろな未知の音楽を知ることができるのも、単純に嬉しい。さっそくジョン・スチュアート&バフィ・フォード『シグナルズ・スルー・ザ・グラス』をオーダー。ディズニー映画「ジャングルブック」の音楽はヴァン・ダイク・パークスがかかわっているのだとか。見なくては。

−−−

で、次は、長谷川如是閑「倫敦! 倫敦?」 (岩波文庫)にとりかかるところで、それにしても、読み始める直前の本というのは、どうしてまぁ、やたらとおもしろそうに感じてしまうのだろう。まったく不思議でならない。
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実作か? 批評か?
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
これを偶然の一致と呼ぶべきか、たぶんそうかもしれないしそうではないのかもしれないのだが、90年代後半にわたしがDJを始めたころに連載が始まったのが近田春夫の「考えるヒット」で、毎週、鼻息を荒く週刊文春を立ち読みしながら、批評行為としてのDJを確立させるためにはどうすればいいかなんてことばかり考えていた。

(いいかげんこの、もってまわっていて中身のない文体はやめにしたいのだが、なぜかこのブログの呪縛があって、いざ書き出すと、こういうふうにしか書けないのだ。さらにやっかいなことに、わたしはしゃべり言葉を書き言葉に寄り添わせるという意味での言文一致主義者だから、つまり今のところ、しゃべっている言葉もこういうふうになってしまうわけなのだ)

楽しんで読みつつ思ったのは、これ読んでもなんとも感じない音楽批評はもうダメだな、ということで、それから10年近くたつのに、近田の後継者は出現せず、それで分かったのは、なんのことはない、ポピュラー音楽のまともな批評なんて誰も必要としていないんだ、ということだった。

(似たようなこととして、保坂和志以降もあいもかわらずどうしようもない小説が大量生産されてマジョリティを占有し続けている現象があるけれども、それについて書くのはもう飽きたので書かない)

しかし誰にも必要とされていないからといって出現していけないわけはないのであって、ついに現れた後継者が菊地成孔だと聞くと、誰もが期待と落胆の入り混じった口調で「やっぱり……」とつぶやきもするだろう。そしてあなたが期待していようが落胆していようが、彼の「CDは株券ではない」(ぴあ)は、やはり芸と呼ぶに値する文章であって、しかもその芸は、彼の音楽家としての才能に疑念を抱かせるに充分なほど見事なものだ。たいていの人間は足が2本しかないせいで、履けるわらじは一足に限られているのに。

(ここで、古い仁侠映画で使われる「わらじを脱ぐ」というフレーズを比喩に使ってなにか気の利いたことがいえそうな予感がしたものの、思い出してしまったのは、深作欣二の何かの映画での、仲間を密告したヤクザが、風呂場で、文字通り「足を洗っている」シーンだった。ついでにいえば、子どものころ、遊んで帰ってきて、足が汚れていると濡れ雑巾でぬぐったりしたものだったが、あれを今、誰かにやってもらうと気持ちいいかもしれない)

と、まあ、これくらいの分量を書いておけば、一回分の日記としては申し分ないだろうから、あとは、「CDは株券ではない」から印象的なフレーズをいくつかご紹介して、本日は失礼することにしよう。

鬼束ちひろについて。これを書いたせいで、脅迫メールが多数届いたらしい。

歌を歌う、特に女性が、自意識を覚醒者、絶対者、降臨者、霊能者、後なんでもいいけど、そういう風に感じて疑わないことがどれほど罰当たりで危険なことか、ほとんどの人が知らないのではないか?

バンプ・オブ・チキンについて。

<青春>という強烈な病理を、あらゆる角度から臨床的に所見してゆくもの。それがロックなのだと僕は考えます。

対談で登場した近田春夫氏の発言。どきっとさせられる。

みんなさ、音楽が好きってことより、応援したり非難したりするのが好きなんじゃないの。

で、最後に、オレンジ・レンジについて書いた回の中にちろっとまぎれこんでいたこのひとこと。完全に賛同したうえで、爆笑する。

沖縄以外の人間が沖縄にアダプトするのは何でも大嫌い
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菊地成孔+大谷能生「東京大学のアルバート・アイラー」(メディア総合研究所)
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
その創造性において世に衝撃を与えた芸術作品のことをたとえて、よく、「ほにゃららの歴史を書き換えた」などという比喩が使われる。これは、30年後には、「ミュージシャンとしても知られる平成期の奇才文筆家」として認識されていそうな菊地などが、本業の(?)サックスではなく、文章で、文字通りジャズの歴史を書き換えてしまった1冊。

本人たちはジャズの偽史をでっちあげると息巻いているものの、いえいいえ、これ(こそ)が正史なんであって、カンのいいひと、きちんと耳で音楽を聴けるひとなら、ここに書かれていることの大半に、とっくに感づいているはず。賎業、いや違った、専業の評論家の仕事はどうしても時評中心になりがちだから、こうした、むりやりに芯を通すような本は、実作者であるふたりにしか書けない。読んでいるとなかなか興奮するものの、ジャズ論壇からは無視されるに違いない。

90年代が始まってからこっち、もう15年もたっちゃったわけで、フリーソウル的な発想で歴史が解体されたっていうのは、誰でも好きなように歴史をでっちあげていいってことでもある。それはなかなかに切ない事態ではあるのだけど、そのぶん、可能性もある。つまり、この「東アル」みたいな本は、ありがたがって神棚に飾っておいても仕方ない、ってこと。いろんなとこに持ち出して、使いまわして、ぼろぼろにして、そのうえで、各人の立場でまた書き換えていかなくてはね。

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