E a t M u c h , L e a r n S l o w (& D o n' t A s k W h y)

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ベストとしてのふるまい
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
毎年恒例の、INTRO(→☆)の特別企画「2011年マイベストムービー」に参加いたしました(→☆)。

今回はなんだか参加人数が少ないところにもってきて、わたしひとりだけ場違い気味に長文を書いていて恥ずかしいです……。採りあげたのは以下の6本。一応、新作らしきもののなかから選びました。ぜひ、ご覧ください。

『親密さ(short version)』(濱口竜介監督)
『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(マルコ・ベロッキオ監督)
『ふゆの獣』(内田伸輝監督)
『ステイ・フレンズ』(ウィル・グラック監督)
『銀鉛画報会』(大西健児&馬渕徹監督)
『ボクシング・ジム』(フレデリック・ワイズマン監督)

−−−

また、ツイッターでおなじみの(って、ほかになんていえばいいのかわからん)さかいしょうじさんが立ち上げた“Best Movies”の専門サイト【bem】(ベム)(→☆)の2011年ベスト企画にも、調子に乗って参加しました。こちらは1月いっぱい受け付け、2月中旬結果発表とのこと。こっちは、INTROの6本とはヴァージョン違いで10本を挙げました。どちらも、それぞれの場にふさわしい(とわたしが判断した)ふるまいとしてのチョイスであり、それ以上でもそれ以下でもありません。本当のわたしなどというものはどこにも存在しません。
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ハチミツ乞食
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
元日から2日にかけてたまたま「聯合艦隊司令長官 山本五十六」と「サラの鍵」と「M★A★S★H」を見ていろんな国の戦争(映画)について思いをめぐらせ(てはいない、別に)、「M★A★S★H」の劇中でもほんの少しだけ使われていた(ことには今回初めて気付いた)「ハイ・リリー、ハイ・ロー」を見聴きしに「リリー」を見に行ったらたいそう褪色したプリントでがっかりし、といった具合に映画を見ることは(ときに)芋づるをたぐるような行為でもあるのだなあと新年そうそうしみじみしております。

さて、約20年ぶりに東急世田谷線に乗って、下高井戸シネマにスティーヴン・J・アンダーソン&ドン・ホール「くまのプーさん」を見に行きました。スピルバーグの「タンタン」にどうにもノリきれなかった身としては、このアニメーションのすがすがしいほどの反時代性(なのでしょう、きっと)は気持ちよかった! 

それにしても、もっさりとした日本語でしゃべる主人公の熊公の、おっさん顔+波打つ腹+愚鈍ぶりは衝撃的。ちなみに引用した画像(著作権乞食との不要なトラブルを避けるため、一部加工してありますが)は、わたしが映画で見たものの1,000,000倍くらい男前です。

さらに驚くべきはおそろしいほどの彼の貪欲さで、仮にあだ名をつけるとしたら「ハチミツ乞食」以外ありえまいと思いました。彼にとって、ハチミツ以上の重要性を持つものなど世界には存在せず、ハチミツ欲しさのあまり、彼の視界では仲間たちの姿もハチミツ壷に変貌し、彼らが住まっている絵本の単語もすべて「honey」に置き換えられていく。空想の中で、黄金色のハチミツの海に気持ちよさそうに溺れる姿には、好物を与えられた子供の無邪気さとはまったくの別次元のドラッギーな恍惚感があって、朝っぱらから、客の大部分は親子セットであるような劇場で、寝不足の頭でこんな映像を見ることははたして倫理的に正しい行為なのだろうかとクラクラしてしまう。

いま、「彼らが住まっている絵本」と書きましたが、これは別段比喩ではなくて、いや、画面上ではたしかに比喩なのですがそれを見ている客席からは、スクリーンに投影されてめくられた絵本の活字の中をハチミツ乞食とその仲間たちが動くのが見えて、彼らは活字に蹴つまづいたり、活字を積み上げて落とし穴から脱出したり、します。さらには、画面には登場しないナレーターが語る「地の文」にハチミツ乞食が応じたりと、語りのレヴェルとしてはなかなか大胆で、とはいえこれ見よがしな凝った映像はほとんどないものですから、なんとはなしの気持ちよさにひたっているうちに、1時間はあっというまに過ぎてしまう。

いちばん注意して見ていたのはハチミツ乞食の顔の成り立ちで、キツネ色にベタ塗りされた顔面に「丂」とも「ち」とも「ウ」ともつかない線がカギ状に引かれ、そこに申し訳程度に目がくっついているだけのものがどうして顔になるのか不思議で仕方がない。顔の右側のアングルから左側のアングルへ、左側のアングルから右側のアングルへ、移り変わる瞬間を見逃すまいと眼を凝らしていたのですが、いつのまにかひょいっと顔の向きが変わってしまうのでした。

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年頭の所感めいたものはわざわざ書くほどのことでもありませんが、とりあえず映画状況が激変することは間違いないと思うので、余裕がある限り状況ウォッチはおこなっていきたいですね。具体的には、おもに映画館に通うことによって。

あとは、わたしが書いたところでどうにかなるものでもないでしょうが、どなたかに企画をお願いしたいのは、マルレン・フツィエフの特集上映と、岩波映画の特集。前者は、監督が存命なうちに。後者は、関わった人物のその後も含めると、相当ヴァラエティと熱に富んだものになるはずなので。
 
みなさま今年もよろしくお願いします。
映画
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美学・政治・大喜利
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
A もう今年も終わりだね。なにかこう、1年を振り返ったりはしないのかい。

B たぶんキミがここで求めているのは映画に関する発言なんだろうと思うけど、公正さを期するために、一応、妹が交通事故に遭ったこととか、息子が小学校に入学したこととか、中古のマンションを購入した際の苦労とか、そういった、架空の人格としてのぼくの2011年度版の私生活についてもざっと触れておくべきなのかな。

A インターネット上にしか存在しない架空の人格がそこまで神妙になる必然性はないと思うよ。

B そんならいいや。まるで実在の人物のような、映画以外のことを考えているような複雑なパーソナリティをことさらかもしだしたところで無意味に事態を複雑化させるだけだから、映画のことだけ話すことにする。

A ツイッターやブログだと、年間ベスト作品の発表が始まっているけど、ああいったものについてはどう考えているのかい。

B 個別のリストについて言いたいこともあるけれど、全般的に指摘したいのは、どうして年内に集計/発表するのかなってことだね。大晦日も映画見たりするだろうにさ。あとは、商業的メディアやプロの批評家ならともかく、素人が新作のみで選んだりしているのを見るとときどき、窮屈な感じがするときがある。

A ふむ。

B 自分のことを言うと、今年も映画はよく分からなかったな。いいものが1割、見ても見なくても差し支えないものが8割、残りは見ないほうがよかったもの、って感じだったかな、例年どおり。もちろん、どんな映画でもたいていは、作られるにあたってそれ相応の人手と資金と時間と技術がつぎ込まれていることを考えたら、こんな発言はできないとは思うけど。

A 分からないっていうのはどういうことかい?

B 分からないっていうのは分からないってことだよ。だから何でもいいけど、2011年のベストテンとかに選ばれた映画のタイトル言ってみてよ。たいていぼくの感想は「よく分からなかった」だと思うよ。

A でも、そんなにいろいろ見たのかい。

B 新作のベストテンを選ぶなら、ほかのひとが挙げた作品について「それ見てません」となるべく言わずに済む状態になってるのが望ましいと思ってるのね、ぼくは。10本中8本くらい見たら、資格はあるかなってのがぼくの基準。今年はがんばって見たけど、いろいろ見落としてる。意図的にせよ、やむなくにせよ。だから10本中で言ったら、せいぜい5本くらい。毎月最低あと5本ずつは新作見てないとベストテン話に加われない。ついでに言うと、映画祭にもほとんど行ってないしね。

A 見てないものに言及できないのは当たり前だし、そんなことはみんな織り込み済みなんじゃないのかい。

B もちろん、そんなこと気にせずに好き勝手に発言すればいいんだとおもうよ。ただ、だったら正しさを主張したり、映画を代弁したりしないでほしいってだけの話で。これは別に誰のことも揶揄してないけどさ。ベストテンって、美学と政治と大喜利が混ざってるもんだと思うわけ。

A 混ざってるべきっていうことかい?

B 「べき」っていうか、もうどうしようもなく混ざってるもんだと。いや、混ざっててほしいっていう感じかな……よくわかんない。美学っていうのはおごそかなものだよね。自分の眼を信じるっていうか。政治も必要だよ。さほど注目されてない作品は多少えこ贔屓すればいい。リベートをもらったら上位にぶち込むしね。

A 大喜利っていうのは。

B そのまんまだよ。笑いをとろうとしてほしいってことだよ。Be yourself, be real.ってことだよ。

A それって美学と違うのかい。

B 違う違う。大喜利は世間に対する態度のこと。美学はオタクの論理。スクリーンは枠じゃなくて窓なんだと思うよ。

A じゃあそろそろキミのベストテンを聞かせてくれないかい。

B たぶん、新作に限定したものは、INTROに1月の半ばくらいに載るはず。ただし日本映画と外国映画3本ずつのリストになるとおもう。

A 少ないね。旧作はなにがよかったのかい。

B 午前十時の映画祭で見た、「E.T.」だよ。

A 2012年の抱負みたいなものはないのかい。

B 今年は無意識のうちに、さまざまな局面で裁いたり裁かれたりしたから、そういうところから全力で遠ざかりたいね。くだらないヒエラルキー、知のマチズモには関わらない。

A そんなことを言ったら、業界内での立場が危うくならないかい。

B ときどき誤解されるけど、ぼくは映画に関することをして収入を得たりはほぼしてないよ。試写状もごくたまにしかもらってないし、それどころかむしろ、一般試写のプレゼントにハガキ書いて応募してる。自腹を切って見てるから、そういう意味ではプロの観客だよ。

A どういうこと?

B 間接的に映画に投資してるってことだよ。

A しがらみのない意見を発することができるってことかい。

B ぼくの書くものがおもしろくないのはその、しがらみのないのが原因だと思ってる。金もらって、字数とか〆切とか内容とかを著しく制限されたほうが、頭を使うからね。そのささやかな実例を、年明けてから遠からぬうちにお見せできるとおもうんだけど。とにかく金は好きだよ。

A ところで写真は誰なんだい。

B 「ノルウェイの森」の水原希子だよ。2012年は、金をもらって映画や音楽に関する原稿を書いたり、かわいこちゃんにインタヴューしたりしたいよ。

A 訊いてないよ。
映画
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(no title)
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)



身体、顔

○リアル
・最初のところの牛とロボット 軽い(意図的?)
・人間のロボットダンスを当のロボットがまねる
・鏡を見つめて首をかしげるロボット→やってみたかっただけ?
・ジャックマンのWacth me! Wacth me!→話を聞いているような反応だが、そう見えるだけロボット
・ロボットに腕押し

・長谷川伸×北斗の拳→ストリートオブファイヤーとルイジ
・ペーパームーン

・カット割りすぎ リングサイドうつさなくてよいときもある




○MI/GP
・高層ビル 実際にあぶないことをしているわけではない
・肉体を担保にしたリアリティ
・砂嵐に追われての直立走り
「宇宙戦争」はどうだったか(要確認)
・不自然、走りづらい
・そもそも人間はどういうかっこうで走っているか(やや前傾?)
・キートン走り、(中村)錦ちゃん走りの系譜としてのトム走り

・クレイマー〜のDホフマン走り(要確認)
・アルメンドロスの本の写真
(DホフマンがDホフマンの顔してるやつ)




○keion
・あみだくじいんちき ヨーロッパ
・リューネンという都市
・顔の色と首の色のコントラスト→顔が浮いてる お面をつけているようにしか見えない
・おおげささの排除 
これが成り立つのは奇跡ではない なんでほかのはいちいちイヴェントをもってこないと作品に作れないのかを考える
・光あふれすぎ
・ファムファタルとしてのあずにゃん(処女/非処女論)

・西に飛んでる飛行機 画面では左→右方向
地図が読めない女
北が上でない地図でも平気

カムデン5時半 暗いか






○CUT
・トイレ内ロングショット物理的に無理 殴られる対象としての西島にフォーカス これでよい
・映画における肉体改造
祝福の嵐 顔 変形
・ムシェット見る ごろごろ DVDきのくにや
・冒頭距離感 レンズ?
・見るべき現代作家 誰
100本リスト 現役は10人くらい


to do

コーヒー
はんぺん
軽石
バジル

長澤まさみ
やぶさかでないい

いーべい
Cotton comes to Harlem~OST~BLAXPLOITATION~Galt MacDermot~Breaks/Samples~1970~EX+
http://www.ebay.com/itm/370568683652



「刃物で切られた」は虚偽=女子大生を書類送検―千葉県警

(時事通信社 - 12月19日 16:05)

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時事通信社

 千葉県柏市で今月7日、「男に刃物で切られた」と交番に駆け込んだ私立大3年の女子学生(20)について、県警柏署は19日、通報がうそだったとして、軽犯罪法違反容疑で書類送検した。女子学生は「元交際相手の気を引きたかった」と話しているという。

 柏署によると、女子学生が自宅前で被害に遭ったと言いながら駅前の交番に出向いて被害を届けたことや、腹部の数カ所の傷が平行で襲われた傷としては不自然だったため、詳しく事情を聴いていた。女子学生は15日になって「うそをつきました」と認めたという。 
映画
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男B→男A
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
ちょっと前にアテネ・フランセでグロリア・スワンソンの名前を聞いたときに思い出したことを書いておくことにする。それというのは「ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』」のことで、と書くと、カッコの位置がおかしいんじゃないかと思われるだろうけど、わたしが思い出したのは映画のほうではなくて、こうしてカッコにくくられた部分がタイトルであるところの、演劇作品のほう。

たぶんやはりこの時期だったと思うのだけど、夕方、S藤くんがぬうっと近づいてきて、いついつの夜はヒマか、と訊ねてきた。授業が終わった教室の中が薄暗く、かつ薄寒かったからというのが、一年のうちのこの時期だったろうと推測する理由で、とはいえ記憶だから確かではない。確かなのは、ヒマだと答えたわたしに、S藤くんが、じゃあそこで芝居するから来てくれ、と窓の外の学生ホールを指差して、赤い画用紙におそらくはプリントゴッコで印刷したチケットをくれたことだ。

S藤くんの気前のよさに舌を巻きながら当日、指定の場所に出向いたわたしは、そのチケットが当日清算券であることを知らされ、軽く呆然としながら、当日料金とビタ一文かわるところのない入場料1000円を払って、席に着いた。その当時のわたしの感覚では、それはチケットと呼ぶに値しない、単にいくらかの心理的強制力を伴ったチラシに過ぎない何物かだった。もっともいまでは、それは極めて(日本の?)演劇的な慣習である、くらいの知識はないでもない。

そんなこんなの最悪な第一印象で、底冷えのするホールで見た「ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』」は、当のS藤くんが最後まで出てこなかったのを除けば(彼の、「作・演出」というクレジットの意味が、そのときのわたしにはわかってなかった)、まったくもって楽しい時間の連続で、まず幕が開くと、舞台の真ん中に据えられたコタツに下半身だけが入ったふたりの男が、酒を呑みながら話をしている。たしか「家呑み」という言葉はその頃はまだ存在していなくて、とにかく男Aは男Bに、ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」がめちゃくちゃおもしろいぞと話し始める。

もしあなたが「サンセット大通り」を見たことがあるなら、この映画を生まれて初めて見ることがどんな体験か、そして、この映画を見たことがないひとにこの映画について伝えるにはどうしたらいいか、想像してみてほしい。わたしは劇中の男B同様、その映画をまだ見たことがない人間として、「ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』」を見た、そして、男Aが、ウィリアム・ホールデンとグロリア・スワンソンと、ときにエリッヒ・フォン・シュトロハイムとを自在に往還しながら、「サンセット大通り」を再生するのを見た。いちばん最初、舞台をプールに見立ててうつぶせの溺死体を演じた男Aは、もちろん最後に、スワンソンが憑依したようになった、いまでならどや顔と呼ばれるであろう表情で、数十人がバラバラに座っている客席の中へと降りてくる。

とはいえ男Aの記憶も細部ではさだかではない。男Bは身もだえせんほどに「サンセット大通り」を見たくなってしまっている。ふたりはどうにかしていますぐに「サンセット大通り」を見たい。ただし時間は深夜の1時近くであり、YouTubeはおろかツタヤもまだない。ポケベルもまだ鳴らなくなり出してない。それでどうするか。男Aは心当たりのある友人知人に手当たりしだい電話をかける。細長くアンテナののびた固定電話の子機は、いま目の前に出現したらダンベルのように見えるだろう(ただしそれは普通だった)。ある者はもう眠っている。ある者は、TVで録画したのを持っていたけれども消しちゃった、と言う(地上波のTVで白黒映画が放送されていた時代があった)。ある者は、武蔵小金井(ムサコ、と発音される)の長崎屋の裏のレンタル・ヴィデオ屋に置いてあるがもうこの時間は閉店しているはずだと言う(むろんVHSだ。もしかしたらベータかもしれない)。またある者は、国分寺の南口にでかいレンタル・ヴィデオ屋ができたからそこに行ってみろと言う(ただしAとBが、彼らの現在地からそこに行くのは億劫だ)。挙句の果てには、Aは藪をつついて蛇を出す。電話に出た相手が、おいA、そんなことよりお前、このあいだ貸した3000円早く返せよ、と詰め寄ってくるのだ。

夜中の3時ごろになり、「サンセット大通り」を見る前に疲れ果ててしまったAとBは、原因不明の多幸感とともに牛丼を食べに出かける。牛丼屋への移動は、舞台の真ん中で横を向いたふたりのその場での足踏みと、舞台奥に影絵のように流れながら映し出される幾何学模様とのコンビネーションで描写される(擬似的スクリーン・プロセス)。牛丼屋のカウンターに並んで座ったふたりが、サーヴされた時点ですでにもともと空だった丼に盛られた架空の牛丼で腹を満たし、「そんなのぜんぜんサンセットじゃないじゃんねえ!」「そんなのぜんぜんサンセットじゃないじゃんねえ!」とゲラゲラ笑いながら言い合う。ここに至って、こちらにもほろ苦い多幸感が伝染してくるのだけど、それについて理解してもらうのには、いままで費やした文字数の少なくとも5倍は必要だ(そこには90年代初頭の三多摩の空気感がみっちりと含まれなくてはならない)。だからわたしはここでは説明しない。

当時のわたしの感想は、まず、「サンセット大通り」が見たい、ということで、そのあとすぐ、しかし映画はうかつに近づいてはいけないおそろしいものであるようだ、と続く。ようやく数年後、「サンセット大通り」をTVの吹き替えで見たわたしは、男Aから受けた恐怖とほぼ同質のものをグロリア・スワンソンから受け取った。どうして日本にはこうした、映画史を題材にした映画が(少)ないのだろうと思い始めるのは、それからさらに数年の歳月を要した。男Aの写真は、90年代のある時点で一度、ぴあの演劇欄で見かけた気がする。もともとそれほど仲がいいわけでもなかったS藤くんとは、卒業とともに連絡が取れなくなった。いつのまにか男Bの立場から男Aの立場へと移行してしまったかもしれないわたしは、いまでも映画をおそれているけれども、ただし無闇におそれることはなくなった。わたしは、「ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』」ほど実効性と即効性のある映画批評には、まだほんの何度しか出会っていないと思っている。
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トムでない者トムに非ず
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
最近見た映画の中では、ジョン・キャメロン・ミッチェル「ラビット・ホール」がよかった。この映画には、なんらかの物理的・心理的理由で正対することができないひとたちが横並びになって話をする構図がいっぱい出てくる。というのはつまり、そういう風に撮っている、ということ。

たとえば、ニコール・キッドマンは、自分の息子を車ではねた少年と公園のベンチに並んで座って、話をする。キッドマンとアーロン・エッカートの夫婦は、もちろん面と向かって口論もするけれど、車の運転席と助手席に座って盛大に言い合ったりもする。運転中のドライヴァーが助手席の人物と、顔と顔とを正面から長時間突き合わせる行為は、場合によっては、とても危険。ややわだかまっているキッドマンとその妹は、隣り合った椅子に並んで、脚のマッサージを受ける(ネイル・サロンだったかも)。映画の最後、夫婦は、バーベキューの客の帰ったあとに庭で、ふたつ並んだ椅子に腰を下ろして、同じ方向を向いていているけれども見ているものが同じかどうかはわからない。ベッドに並んで入っているふたりが、別々の本を読むカットもあった。トリュフォーの「家庭」みたいなやつ。ただし、あの親密さとは正反対の、ひんやりした感覚。

こうした構図は、別にそれ自体が特殊なものなわけではない。ひとつひとつ思い出して書いてみたけれど、通常の切り返しも当然出てくる。そしてその割合がほかの映画と比べて極端に極端なのかどうかは、わからない。ここではスタイルはでしゃばっていない。たとえば、会話する人間同士が一切正対しないような映画だって原理的にはありうるわけだし、それでもって断絶とかを象徴したければ勝手にやってくれ、てなくらいのものなんだけど、いまのわたしには「ラビット・ホール」の穏健さ、物語に奉仕する慎み深さは心地よかった。たしか1箇所、露骨にイマジナリー・ラインを無視したつなぎがあって、少し驚いたけど(あれ、もしかしたら、それは別の映画だったかも……)、それがなかったら、横並び云々にも気付かなかったかもしれない。でも、見ている間それを明確に意識しなくてもいい、そういう映画。

といった状態で、同じ日の夕方、スピルバーグ「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」を2Dで見た。これはもう、わたしには端的にむなしい映画だった。まずあの、実写だかアニメだかはっきりせいと言いたくなる画面が生理的な拒否反応を呼び起こすし、さらには、タンタンがトム・ハンクス本人でないことによってわたしの思い込みは粉砕された。ガラス越しの質感、執拗な反射、超絶長回し、どれもこれも、「はいはい、すごいですね」「だから何」「それがどうした」とおもってしまうばかりで、そうとしかおもえない自分にも心底がっかりしたけれども、おもってしまったものは仕方ない。

わたしにとっていちばんの問題点は、たぶん「話がつまらない」ことで、この映画はたぶん意図的に、映画の時間をいっぱいいっぱいに使って展開するような構成をとっておらず、いわば大正時代の活劇のような、短期的な刺激の連続体的なつくりになっている。だから、15分おきに弁士が現れて、「はてさて好漢タンタン君危機一髪、命からがら逃げ出しましたがこの先どうなることやら、次週、『忠犬スノーウヰー八つ裂きの巻』をお楽しみに!」とかなんとかブレイクを入れたら、ちょうどよかった。そのときには場内に薄明かりがついて、ラムネとかせんべいとか盛大に売りまくれば一石二鳥だろう。

意図的にせよそうでないにせよ、話のつまらなさでもって相対的に映像を注視させるような映画は、いまあまり見たくないし、また、そうした映画を積極的に褒めるような批評とは、ある程度距離を置きたいと考えています(批評さんもわたしに近づいちゃこないだろうけど)。
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*公人は敬称略
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
11月25日金曜日、午後、有楽町の朝日ホール、上映に先立って客席の前に登場した監督自身が、日本語と英語であいさつし、意図を述べる。その性急で前のめりな口調、完全には聞き取れないほどの早口に、なるほどそうそう、藤原敏史の映画を見るというのはたしかにこういう体験だったなと思わず笑みが浮かんでしまうのだけど、そうした前置きののちに上映された映画「無人地帯」は、海岸近くにしぶとく立ち続ける1本の木から、寄り添うようにして傾いた2本の電柱に至る、ゆっくりとした(おそらく)ほぼ360度のパンで始まる。その途中はすべて津波で破壊しつくされて、ほぼ原形をとどめていない。家の残骸、自動車、その他もろもろが渾然一体となって散乱しているからもともとそこに生活があったのだろうとは想像できるけれど、どのくらい、どういう具合に家々が並んでいたのか、あるいはいなかったのかはわからない。そしてその時点では、いまカメラが通過した景色の中にいくつくらい人間の遺体があったのか、あるいはなかったのかにはわたしの考えは及ばなかった。

語弊を恐れずに言えば、「無人地帯」には、このファースト・ショットを含め、「美しい」映像がふんだんに含まれている。ことに後半、雨と霧に煙る里山の景色の、眼に突き刺さってくるような緑色。そして、いくつかの地域でおこなわれている地元のひとたちへのインタヴューはおだやかで慎み深く、たっぷりと時間をとって、主張や怒りや訴えではなく、人間の声と表情とを記録している。

それにもかかわらず、というか、と同時に、というべきか、これはまったく信じがたいほど騒々しい、と言って悪ければおしゃべりな、映画で、女優のアルシネ・カーンジャンによる英語のナレーションが全篇にちりばめられ、もちろんその美声に耳を奪われつつも、(わたしは)その内容を日本語字幕で読んで理解する必要があり、一方、福島のひとたちの日本語の語りには(映画祭での上映という特殊環境なので)英語字幕がついているから、聞き取れない部分をそれによって補完するだけではなく、聞き取れている言葉を確認するためにも、ついそれを読んでしまう。

単に物理的な面積だけならば、字幕が画面に占める割合はせいぜい5%とかそんなものだろうけど、少なくとも「無人地帯」の今回の上映がわたしに及ぼした作用を考えてみるならば、もちろんそれ相応の注意を払って映像を見たし、ナレーションを聞いたけれども、あーなんだか映画を見ている時間のあいだの意識はだいぶ字幕に占領されてしまっていたな、との印象。ときにたとえようもなく美しい景色の上に、まさに(それらの)映像の意味について、ときに強い調子で語る(英語の)言葉を重ね、さらにはそこに字幕を乗せるという、重層的な、(言ってしまえば)不自由さ。監督のブログによるとナレーションは英語版と仏語版が構想されているようだが、日本語版は構想されないのだろうか。いやもちろんたとえば、「日本では皇居がそうであるように原発は見えないものとして森の中に隠蔽されている」(大意)といった語りの(言うならば)ヒューモアが、日本語では実現しづらいかもしれないのはわかるのだけど。

ただしわたしは映画に対して、わたしのような素人(これは謙遜ではなく、単なる事実)が気がつくようなことは、当然プロフェッショナルな作り手は気がついている場合がほとんどである、との立場を基本的にとるから、気が付いている上で、何らかの不可抗力か、あるいは明確な意図によって、あえてそうしているのだろうと考える。「見ることは信じること」と何度も繰り返される言葉。わたしたちは、その言葉にしたがって映像を見たいと思っても、ほかならぬその言葉を、何度も、字幕で、読まされてしまう……。

映画の中盤で、ファースト・ショットがほぼ再現されたかのような長いカットがある。わたしはあの日、あの場であの映画を見ていた中で、映画的にも倫理的にも下から数えたほうが早いくらいに鈍感な人間だと思うけど(しかし隣に座っていた男も、上映中に携帯か何かを複数回光らせていた。たいがいにせい)、それでも、まったく同じものとしてふたつのカットを見ることはもちろんできなかったし、それにしても、鈍感さということでいうならば、瓦礫の下に遺体があるかもしれない(から、こうすべきだ/でない)ことについてはわたしは触れないけれども、ひとつだけ言うならば、もしこれが自分の故郷、あるいは愛着のある土地だったとして、その土地がこうした状態になり、立ち入りできなくなったとしたら、その映像を見たいか見たくないか、そのことは、この映画のあいだ、ずっと考えていた。やはり、見たいと思うだろう。そして、できることならば、美しい映像で。

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さて、映画「無人地帯」は、上に述べたとおりセンセーショナリズムから注意深く距離を置いた、節度のある作品だったけれど、監督である藤原敏史は(残念ながら)そうではなく、ツイッターや自らのブログにおいて、自身と対立する意見の持ち主を容赦なく論破、罵倒し続けている。藤原の発言には明らかにいくつかの事実誤認はあるが、それは自分でも分かっている上で論戦を有利に進めるためにあえてやっているのか、それともいわゆる「天然」で、無意識のうちにそういった発言をしているのか、わたしには結論はまだ出せていない。

(ただ、藤原のツイッターやブログでの激烈な発言を知らない人でも、「無人地帯」を見て、藤原のトークを聞けば、彼のやり方やパーソナリティがどういうものであるかは、いい面と悪い面含めて、わりとすぐ見て取れるように思うので、ふだんは口汚いのに作品だけおとなしく猫かぶってる/正義面してる、という批判はあまり当てはまらないのではないか)

その藤原ともっとも敵対しているように見えるうちのひとりが批評家の葛生賢で、このふたりは少し前にもなんだったかの理由でツイッター上で口汚くののしりあっていたし、フィルメックスでの「無人地帯」上映前後は、藤原は自作に好意的な感想のみをリツイートし、葛生はネガティヴ・キャンペーン的なリツイートをおこなっていた。もっとも実作者と批評家というこの件での立場を考えれば、藤原の行為は宣伝として当たり前と言える。葛生は、「無人地帯」を見ないで批判するという、基本的なルール違反を犯している。

もっとも、この「当の作品を見ないで批判/攻撃する」というのは昔から一般におこなわれてきたことだろうし、とくに今年は、蓮實重彦もやったりしたので市民権を得たといえるのかもしれないし、また、実際問題、過去の経験/記憶などから「どうせ××の作品だから見る必要はない」という言い方は、誰でもすることでもある。ただし批評家が堂々と公言するべきではないだろうし、見ずに攻撃するとしても、ある程度でとどめておくのが妥当なのではないか。もし今後葛生が「無人地帯」を見て、万が一脱帽せざるをえなかった場合、素直にシャッポを脱ぐことはできるのだろうか? ここまであしざまにののしってしまったら、葛生でなく誰であっても、難しいのではないかと感じる。もっと単純な話、批評家には実作者よりも冷静であってほしい。

両氏に申し上げたいのは、おふたりともちょっと大人気なくないですか、ということで、まあそのこと自体は個人の発言の範疇と言えなくもないけれど、わたしがいちばん問題だと感じているのは、このふたりの論争というか感情的ぶつかりあいが、「無人地帯」のみならず、映画をめぐる自由な発言を抑圧してしまう可能性があること。可能性というか、実際、少なくともツイッター上の一部では、そういうふうに機能している。映画について言葉を発する立場にあるひとたちが、そういう態度を取ることは残念に思うし、もし、自分は抑圧などしていない、勝手に抑圧されていると感じている人間がいるだけだ、ともしおっしゃるのであれば、その倫理的鈍感さを、わたしはわたしの鈍感さにかけて、非難します。

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ところで藤原と葛生は、偶然にもふたりとも実作者であり批評家でもある。そこでわたしは、このふたりが正面からぶつかったらおもしろいのではないかと思い、ツイッターで、藤原の「無人地帯」と葛生の任意の作品の同時上映、プラスふたりのトーク、のイヴェントがあったら面白いのではないか、と書いた。

それに対して藤原は、「あまりにも楽勝でこっちの圧勝で終わってしまうので、葛生君がかわいそうだと思う。」と、葛生は、「下らん。」「野次馬は引っ込んでて下さい。」と答えてきた。

藤原の発言の正当性は判断できないし(だからこそ提案したのだ)、また、何らかの理由で著しく上映が少ない葛生の映像作品を見る機会が設けられることは、決してくだらなくないとわたしは信じるのだけど。そして、ホモソーシャルな言説世界(「無菌地帯」?)以外の、好き勝手に発言する観客を野次馬だというならば、わたしは胸を張って野次馬であり続けるし、逆に、野次馬が存在しない映画世界が存在しうると信じている批評家がいることに、心から驚愕する。
映画
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つたの家合衆国
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
気がつくと毎年1回くらいのペースで開催されている気がする(って、すごいこと!)フレデリック・ワイズマンの特集上映、開催されるたびに1本ずつ(人間が映画を同時に見られるのは最大1本までだから1本見終わったらまた次の1本を見る、という意味ではなく、1回の特集のたびに1本かせいぜい2本しか見ていないという意味)見たり、ある年にはまったく見なかったりして、だからせいぜい彼の映画は10年くらいかけて5本かそこいらを見ただけで、とどのつまりそのペースの鈍さは、わたしが単なる何者かへの義務感、あるいは強迫観念、もしくは見栄、でなければ話題づくりだけを目的としてワイズマンと向き合っていたことを示していると思うのだけど、今年は、ああ今年もまたワイズマンか、と苦虫を噛み潰したような表情でまずは「ボクシング・ジム」を見に行ったらば、見終わって出てくるときにはすっかり晴れ晴れした顔になってしまって、別の日には「病院」と「法と秩序」を見、それでもまだ続いている会期のうちにあと1、2本は見るつもりでもいて、となると、いままでこつこつ見てきたのと同じだけの量を今年だけで見てしまうであろうことになる。そして当然それはもういつのまにか自発的な作業になっている。

今年の最初が「ボクシング・ジム」でよかった。そもそもワイズマンを見ること自体3年ぶりとかだったもので、この映画のあまりのフットワークの軽さには、あれっ、そもそもワイズマンってこんなんだったっけ、という少なからぬ驚きがあった。後半、ふたりの選手がひとつのリング上で、ひとりずつそれぞれの運動としてのシャドウ・ボクシングをおこなうシーンをはじめとして、かぎりなく舞踏映画に接近している瞬間がそこかしこにちりばめられていて、心が躍る。リズム&ブルーズならぬ、リズム&ボックスの略としてのR&B映画。

この映画について、南波克行がブログで、「このジムのオーナー、リチャード・ロード氏の振る舞いが、まるで合衆国への入国審査官のように思えてくる。/さまざまな人が、出入りするここは、まるでアメリカ合衆国の縮図なのだ。」と書いている(→☆)。たしかにここには老若男女が集まってきていて、それも意外だった。はて、日本では、こうした、年齢も性別も国籍も関係なくひとびとをひきつける習いごと的な場はあるだろうか、と書いてみて、直感的に思いついたのは、パチンコ。

さて、「病院」と「法と秩序」はあまりダンサブルな映画ではなかったけれど、「病院」に出てくる、公園でもらった薬物を摂取したらラリってしまい、全身をくねらせながらライオン風呂のように嘔吐する青年の動きは、なかなかグルーヴィではあった。わたしがなにかを引用するとき引用元をいちいち示すことをほとんどしないのは、わたしが書くものはすでに誰でも知っている事実の並べ替えばかりだからですが、この、ライオン風呂のように嘔吐する、という形容は、あまり知られていないと思うので注記しておくと、わたしのオリジナルではなく、昔の職場で一緒だった杉山さんという人のフレーズ(彼がどこかから引っぱってきたのでなければ)。

とまあ、嘔吐の話はどうでもよい。「病院」で印象的なのは、病院に来るのは必ずしも病人と確定した病人ばかりではなく、そして(あの)病院は彼ら/彼女らをも無造作に受け入れようとしている。あるいは、ワイズマンが(あの)病院と病人(とその他のひとたち)をそう描こうとしている。もしくは、わたしがそう見ようとしている。明らかに病気でなさそうなひとを入院(あるいは「滞院」?)させようと、同僚らしき相手に電話をかける看護婦。

「法と秩序」では、迷子のちいさな子供を署に連れて行って保護する警官が出てくる。彼はさらに、署内の自販機のレヴァーをがっこんと操作してお菓子(チョコ・バー?)を買って、彼女に与える。そして署員の幾人かが力を合わせて、彼女を保護する柵を用意しているようでもある。別の場面では、同性愛の青年の処遇をめぐって、福祉関係の役人(?)と電話で激しくやりあうところも見られる。

これらの、いくつかの映画を超えて共通する「ひとまずの受け入れ体制」を見ていたら、成瀬巳喜男の「流れる」で山田五十鈴が田中絹代に向けてけだるそうに発するセリフ、「とりあえず、いてみたらあ〜?」を思い出した。もちろん、(ワイズマンの描く)アメリカ合衆国とて、そうそう誰でも彼でも迎え入れてくれるわけではないだろうし、健康保険のことひとつとってみても、とてもあすこには暮らせそうにないと思わざるをえないのだけど、それでも、とりあえず、いてみさせてくれそうな気にさせる場所としての磁力は、強烈に感じられる。

となると、午前十時の映画祭で見たマイケル・リッチー「がんばれ!ベアーズ」(めちゃくちゃおもしろい)も、布袋寅泰『ギタリズム』のジャケットのようなポーズで全身で存分に浴びて、吸収してきつつ、ところどころで、ワイズマンの未撮影/未発表作品「少年野球」を思い出してしまった。ワイズマンに対して、余計なことを考えさせやがって、と怒るべきだろうか、新しい気付きをもたらしてくれたことを感謝すべきだろうか。

最後に。偶然にも、昨日見たある新作映画にも、「流れる」の塀越しの出前の受け渡しを連想させる場面があった。とだけ書いて、タイトルは具体的に挙げない。それはまあ、そうする理由があるってこと。
映画
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こんなブログを読んでないひとのために。
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
☆樫原辰郎+角田亮「iPhoneで誰でも映画ができる本」(キネマ旬報社!)(→Amazon)

たぶん、タイトルどおりの本。この本に対して、「いや、そんなことはだいたい知ってるよ」だとか、「これからもっと詳しい本が出るはず」といった批判やヤッカミがあることは当然想像できるわけですが、そういうひとはこれを読む必要はない。たぶん、そういうひとたちに向けられた本ではないから。

そういう意味では、今年出たいくつかの本、たとえば、大和田俊之「アメリカ音楽史」(講談社選書メチエ) (→Amazon)だとか、(これは未読ですが)長谷川町蔵+大和田俊之「文化系のためのヒップホップ入門」(アルテスパブリッシング)(→Amazon)だとかに共通するものを多く持っていると言えるかもしれなくて、現にいま、目を閉じると、どこかの地方都市の高校で、音楽好きのAくんとiPhoneの映像アプリで遊び始めたばかりのBくんが、これらの本を貸し借り、回し読みしている光景が瞼の裏側に鮮明に浮かびます。

映画を撮りたいひとのための入門書はいままでもたくさん存在してきたのだろうと思いますが、1冊読んだだけでまったくの未経験者がシナリオ執筆〜撮影〜編集〜公開までまかなえてしまう本は、世界でも珍しいのではないでしょうか。記述は徹底して具体的。精神論や、もってまわった観念論は一切ありません。ただひとつだけ難点を挙げるならば、B5サイズなので、撮影しに街に出るときに持って行くと、ちょっとだけ荷物になることかな。というか、この本自体をiPhoneのアプリにしてしまえばいいのでは?

読んでいてうならされたところをいくつかうろ覚えのまま抜き出してみると、「鳥がいたらとりあえず撮っとけ(用意しようと思うと大変だから)」「パンをするときにはしっかりしたものに腰を乗せてそれを支点に体を回転させよ」「編集していてつながりが悪いとおもったら音楽をつけろ」「買い出しは監督が自分で行け」などなどで、これだけでも、この本の死角のなさがうかがえるとおもいます。

その死角のなさは、著者のふたりが映像制作において長年にわたって経験/克服してきたのであろう条件面でのさまざまな苦労を想像させますが(違ったらスミマセン)、彼らは、技術のすさまじい進歩によってムダになったかもしれない自分たちの年月を怨むでもなく、流行に乗って一発あてようという山っ気にムラムラしているわけでもなく(多少はあるでしょうけど)、新しいガジェットによって、まだ見たことのない映像が生まれる場に立ち会うことの喜びに胸を弾ませているかのようです。本書に、「スーパー8」のポスターの前でiPhoneを持って微笑む青年の写真が載っていますが、それは、iPhoneによって若返った著者(=かつての8ミリ少年)たちの姿でもあることでしょう。

この本のオフィシャルサポートページ(→☆)では、掲載コラムで紹介されている古今東西の映画をYouTubeで確認することもできますし、著者たちにじかに疑問点をぶつけることもできます。となるとあとは、実際に著者たちの指導のもとで映画を撮るワークショップ的なものが開催されるべきでありましょう。おそらく、5人くらい集まったら開いてくれそうなので、直接連絡してみてはいかがでしょうか。
書物
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恋愛(映画)対位法
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
山形、とただ書いた場合、わたしのこのブログでは原則として山形国際ドキュメンタリー映画祭のことを指すことになっていて、ほとんど福島をフクシマとして記号化するのにも似たその態度はどうかと思うもののいまはその話は置いておくと、そのヤマガタに乗り込む前日、仙台のチネ・ラヴィータのレイト・ショウで見たウィル・グラック「ステイ・フレンズ」がいまのところの2011年のベスト映画になるはずだけど、ほかにもいいのがあったはずだから断定はできないと思い、新宿武蔵野館でもう一回見てきた。

冒頭、猛スピードの切り返しと、その速度についていけないフリをしてズレながら追いかけていく会話の音との連携とに軽くだまされつつ、目はジャスティン・ティンバレイクの背後に見える、ホットケーキの特盛りみたいな形のキャピトル・レコーズのビルに惹きつけられていて、となると当然、ミラ・クニスの遠くの背後の尖ったビルもなにかニューヨークらしさを端的にあらわす建物なのだろうけど、なにしろ暗いうえに、ワン・カットの持続時間が極めて短く、だもんで暗くて尖っていることしか判別できない。

NYとLAとの対比/往還の映画といってまずもって(わたしに)思い出されるのは「アニー・ホール」で、しかしいくらなんでもウディ・アレンを引き合いに出すのは芸がないなと躊躇していたら(なにしろ、21世紀だし)、ミラ・クニスの部屋の壁にはキャプラの「或る夜の出来事」のポスターが貼ってあり、いやいやいくらなんでもそんな女はいないだろう(なにしろ、21世紀だし)、と思ってしまうものの、しかし彼女は映画の冒頭からデートで「プリティ・ウーマン」を見に行くような趣味の持ち主だし、母親からは、「あんたはtrue love kind of girlだとずっと思ってた」と揶揄されてもいるし、iPadに聖書アプリを入れているようなタイプなのだし、にもかかわらず、なにしろ21世紀だから、彼女とジャスティン・ティンバレイクの間にはジェリコの壁はないし、それどころか、ゴム製の壁もあったかどうかあやしい。少なくともそういった描写はなかった気がする(ピルを服用しているのかもしれない)。

しかしこの映画のミラとJTは、一見そう見えたとしても、実在するような人間を映画のキャラクターとして加工したものというよりは、ある種の方程式に代入された数字みたいなものであって、そして、避妊しているかどうかはそもそも取り扱われていない問題だから、考慮に入れる必要はないだろう。人物Aと人物Bを都市Nにおいてどう出会わせるか、そこで起こりうる展開X、Y、Z、接触してくる母M、同僚C、これらを複雑に組み合わせて最大限の効果をあげるために、複数の脚本家がマイクロソフト・エクセル等の最新のソフトウェア類を駆使して計算をおこなったことは明らかで、そして隙間という隙間には、実家から送られてくる宅急便のように、適宜アダプトされた手持ちの小ネタがぎっしり詰まっている。

完璧とは言わない。しかし、およそ1本の映画が、それに期待されている範囲においてこれ以上のサーヴィスを提供することは難しいと思う。そういう意味で、2011年、もっとも磐石な映画。

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さて、大根仁「モテキ」も見て、その時点ではそれなりに面白く、いくらか疑問はありつつも、なるほどヒットも納得、と上から目線でうなずいたりしていたのだけど、そのあとに「ステイ・フレンズ」を見てしまうと、いくらなんでも分が悪く、一気に印象がかすんでしまう。

もちろん当然たまたま偶然なのには違いないとはいえ、どちらも、圧倒的な情報量で観客を若干の不安におとしいれるオープニング、安定/失速の中盤、そして公共の場でのダンス、と、共通点は多いから、両方ともご覧になった方は、わたしが「ステイ・フレンズ」を持ち上げるために「モテキ」をけなしているわけではないことはご理解いただけると思う。

「(500)日のサマー」と「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の2本立てをやった早稲田松竹が、おそらくたぶんこの2本もまとめて上映してくれるはずなので、そこですべてがはっきりすることだけど、「ステイ・フレンズ」と「モテキ」は似て非なるもので、つまり前者はいろんな方面に気が回りすぎていてその分かわいげがなく、後者は詰めが甘くてそこがいとおしい。言い替えれば、前者はあらゆる方向からよく検討されていくつものハンコが捺されて作者の顔がよく見えなくなった(というか、捺されたハンコによってAAのように顔が浮かび上がった)末の産物であり、後者は、川村元気なり大根仁なり久保ミツロウなりの手が動かされた痕跡そのものである。前者をドライと呼ぶならば後者は必然的にウェットということになるだろう。とどのつまりは前者はアメリカ映画で後者は日本映画ということで、同じ土俵に乗ったならば後者は前者に勝つことはできないしくみになっているけれど、映画において、勝利する方法はひとつではない。そのことは、それ自体ではケチのつけようがない「モテキ」のダンスと、いまおかしんじ「おんなの河童」のクライマックスのしょぼい群舞のどちらが幸福かを思い出してみればすぐわかる。

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どう逆立ちしてもある種のアメリカ映画にはかないっこないな、ということは、午前十時の映画祭でスピルバーグ「E.T.」を初めて見て、あらためて感じた心地よいあきらめ。うっかりしていると話の面白さにだけかまけてしまいそうになるけれど、いまさらながらスピルバーグの「映像派」ぶりに脱帽し、そして「スーパーエイト」はよくできたオマージュだったんだなとようやく気付く。

そして、「E.T.」で執拗に多用されていた逆光の余韻にひたっているところ、以下の映像の存在を知る。
☆YouTube - Pete Seeger and Occupy Wall Street Sing 'We Shall Overcome' at Columbus Circle (10/21/11)

10月21日のニューヨーク、コロンバス・サークル。日によってはずいぶんと冷え込みもするだろう秋の夜、92歳のピート・シーガーがウォール街占拠の一員に加わって「ウィ・シャル・オーヴァーカム」を歌っているのにはやはり感動せざるをえないし、そして、噴水を照らす灯りと、群衆の焚くフラッシュ、ほぼそれだけで(報道陣っぽいライトもちらっと見えるけれども)この映像が撮られていることに、動揺に近いものを覚える。ここで明滅しているのは20世紀そのもので、わたしは、目をこらす。
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