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2018年の映画など
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

2018年に見た映画のなかで、よかったもの。並びは見た順。

ポール・キング「パディントン2」(2017/英語)
草野なつか「王国(あるいはその家について)」(2017−2018/日本語/150分版)
ラウル・ペック「私はあなたのニグロではない」(2016/英語)
ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」(2017/英語)
ブラッド・バード「インクレディブル・ファミリー」(2018/英語)
三宅唱「きみの鳥はうたえる」(2018/日本語)
チャン・ジュナン「1987、ある闘いの真実」(2017/朝鮮語)
英勉「3D彼女 リアルガール」(2018/日本語)
ジョン・M・チュウ「クレイジー・リッチ!」(2018/英語など)
川口勉「彼らの原発」(2017/日本語)

☆スペシャル・メンション
ベストODS:花組 東京宝塚劇場公演『ポーの一族』千秋楽 ライブ中継@TOHOシネマズ新宿(3/25)
主演男優賞:ドウェイン・ジョンソン(「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」「ランペイジ 巨獣大乱闘」「スカイスクレイパー」)
ベスト・トーク:映画『三里塚のイカロス』DVD発売記念イベント「永続敗戦レジームと新左翼運動」@紀伊國屋書店新宿本店9階イベントスペース(出演:白井聡×代島治彦、8/2)
ベスト特集:戦後映画史を生きる 柳澤寿男監督特集@シネマヴェーラ渋谷

☆ほんとはこっち
エドワード・ヤン「一一」@香港・百老匯電影中心
只石博紀「季節の記憶(仮)」@新宿・ケイズシネマ
アラン・ベルリナー「The Sweetest Sound」@渋谷・ラストワルツ「渋谷並木座 Vol.2」

グッド10が新作だけになったのはたまたまです。日本語映画の2018年は、少なくとも21世紀に入ってからいちばん充実していた年のひとつだったと思うので、自分の属している場所以外にも目配りできる超人的な誰かに、きちんと振り返っておいてほしい。たとえば揶揄されがちな少女マンガ原作ものひとつとっても、5年前といまとではぜんぜん状況が違うはずで、となると、ここ10年くらいの動きを概観する必要があるわけだから、まあたいへんな作業ですよね。

個人的には、2018年のほとんどを無職として過ごすことになり、時間はあったもののお金はなく、あげくのはてには電車賃ももったいないという気持ちになったりもして、その結果、自分が楽しめなさそうな予感のするものは積極的に見送るという、とうの昔にできているべきだった習慣がようやく身につきました。しかしイーストウッドは何人かにそそのかされてうっかり見てしまったので、2019年以降は見ないことにする。

それとは別に、見たい気はするけど見逃してしまったものもそこそこあって、そうしたなかで、やっぱり見ておけばよかったなと思っているのは「心と体と」「サーチ」「ア・ゴースト・ストーリー」くらいかな。後者の2本はこれからどこかで拾えるだろうけど。

「ほんとはこっち」枠の3本について。

エドワード・ヤンの「ヤンヤン 夏の想い出」はたぶん3回目か4回目で、やはり彼の映画ではこれがいちばん好き。初めて訪れた香港、日曜の21時からこの3時間弱の映画を見て、外に出てみると、年に1回か2回あるかないかの、特別な経験だったんだなとわかった。どうやら自分は、母語以外ではエモくなれないというか、オンリー日本語キャン・ブレイク・ユア・ハート的な思いを無意識のうちに持っていたようなんだけど、呉念真とイッセー尾形の英語での対話を聞いていたら、それがくつがえされた。ここでふたりが英語で話すのは、たとえばハリウッド映画でアフリカの土人までもが英語で話すのとはぜんぜん別の必然性に基づいているわけよ! とか考えながら、旺角の宿まで歩いた。ビルの外壁工事の足場は、2018年になってもまだ竹で組まれてた。

「季節の記憶(仮)」については、すでにさんざん話したり書いたりした気がする。たった1週間のあいだ、1日1回、合計7回だけとはいえ、映画館の設備で上映された意義というか迫力というか破壊力は、これまたやはり、体験してみないと絶対にわからないこと。

「The Sweetest Sound」は自分で字幕を付けて上映(たぶんジャパン・プレミア)したので、少なく見積もってもトータル10回くらいは通しで見た計算になるはず。めちゃくちゃ勉強になった。普段、わたしも含めた映画ファンって、自分がわかるところだけ、生半可な知識でもって、戸田奈津子の字幕を笑いものにしたりしますが、1本の映画のすべての言葉を理解するって普通に大仕事だよ。小津とかの伝説でフィルムを1コマ切っただの切らないだとかの話があって、もちろんその境地に近づけるはずもないんですが、それでも、1秒の無限の長さだとか、字幕1文字2文字をめぐる攻防だとかを体で覚えられたのは財産になりました。それはもちろんこの映画が、そうしたシヴィアな時間(=編集)の感覚を持った作品だから、というのも大きい。結局のところ自分にとって、映画とは編集(=時間をどう操作するか)なんですよ。ほんとはこれが2018年のベスト。

「季節の記憶(仮)」と「The Sweetest Sound」の上映活動をめぐっては、宣伝の重要性についてもなにかと考えさせられました。たいして面白くもないひとたちや作品が、宣伝によってさも大層なもののような印象を与えるのに成功しているのを見るのは、負け惜しみではあるんだけど、正直言って腹立たしかった。2019年はなるべく、実力以上に評価されたいし、身のまわりの面白いひとたちを盛り立てていきたい。ただ有名人とつるみたいだけのつまらないひとたちは、反省しながら虚空へと消滅していっていただきたい。

普通に読める日本語の雑誌「トラベシア」は、今年も発行される予定。ただしいままでとは若干顔ぶれが異なってくるはずです。

本年がみなさまとわたしにとって、楽しいこといっぱいの、よい年になりますように。

映画
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トーキョー・ワーキング・クラス・アンサンブル
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
不意の出費がわりと頻繁に、それでいて毎回確実に不意を突いて出現するその不意打ち具合と比べると、臨時収入なんてのは字面以外ではほとんど見かけない希少事象で、そもそも実在するのかすら疑わしい。あまりにもレアであるがゆえに、わたしはたぶん、21世紀になってから自分の身に降りかかってきた臨時収入をすべて思い出せる。悲しい気がするときなどは、それらのいくつかを反芻もする。

東銀座、明治通りの交差点を渡りきったところの路上であわてて拾った1000円札2枚。渋谷の嵯峨谷の自販機の釣り銭口から回収した、まだ店内にいるであろう誰かが取り忘れたお釣り、そしてその金で食べた蕎麦の、味(がしない)。大阪、1万円札で地下鉄の切符を買ったら、お釣りコーナーから出てきた1000円札9枚とは別に、入れたばかりの1万円札が挿入口からそのまま戻ってきた、通称「南森町の奇跡」。ある夏の夜には、コンヴィニのコピー機の下に落ちていた120円によって、当初買うつもりだった安アイスがハーゲンダッツに格上げされた。ところでハーゲンダッツの、どことなくオランダかデンマークあたりらしさを持つ名前の正確な由来を知らないひとは、知った瞬間にたいてい一度は驚いて、いまわたしがこうしているように、誰かに伝えたくなるはずだ。

つらつら書いてみて、そんなバカなことがあるものか、と一笑に付したくなるのが臨時収入の性質で、逆に不意の出費は、笑い飛ばすのも難しいし、そもそも思い出したくもない。直面したくない事実に直面しないためには最大限の努力はいとわないつもりでいるものの、己の不始末によって自分がいま現在、かなりのマイナスをかかえてしまっているのはたしかだ。幸い、返済期限は区切られていないから、日々少しずつ貯蓄すれば、いつかその額に達するはずではある。

とはいえせっかくだから、この困難に力強く立ち向かい、大胆に乗り越えてみよう。こまめな節約、単発のアルバイト、不要な残業、などなどで、どのくらいの期間で負債額をまかなえるだろうか。普段の収支とは独立した形の架空の出納帳をひとつ立ち上げ、そこに貯金をして、目標額に近付いていきたい。

−−−

☆某月某日
思い立つや否や、職場でひとり、急な欠勤。夜勤の人間が来るまでのあいだ、誰かが居残らなくてはならない。普段ならこうした打診はほぼことわっているところ、今日ばかりは、怪しまれない程度のふたつ返事で引き受ける。顔で泣いて心で笑って。地味で着実な滑り出し。

・残業代 +3200円
・映画に行けなくなった分 +1100円
・気が大きくなって予定外に食べた牛丼 −390円

☆某月某日
昔すこしだけやっていたバイト先に、数年ぶりに電話してみる。詳細を書くのにはさしさわりがありすぎるのだけど、昔と同じように社長が直接出た。物体Aをなに食わぬ顔で地点Bに届けるだけなら、5000円。届けた先の地点Bで物体Aを物体A'(見た目はほぼ同じだが、体積が10倍くらいある)と交換し、地点Dに届けるまでやるほうが、割がいい。しかし地点Bでの交換は必ずしもスムースに進むわけでもなくて、そうなると半日近くつぶれるし、その不可抗力的な不始末が原因で社長の機嫌が悪くなり、正当な賃金(そもそも正当な類のものではないが)を値切られたりする。面倒なので堅実に5000円だけ稼ぐ。社長が、これもやるわ、と500円のクオカードを手裏剣のように投げてよこした。帰り際、コンヴィニで使おうとしたら、残高140円くらいしかなかった。

・バイト代 +5000円(クオカードはカウントせず)

☆某月某日
新宿で駅員を怒鳴り付けていると、加藤くんに声をかけられる。ひさしぶりなのでマクドナルドで近況を交換。いい歳して、往年のバイト仲間とバンドを始めるそうだ、おめでとう。しかし名前が決まらないのだとか。「バイトってあの松屋でしょ? 五反田の。カトー&ジ・MGズとかでいいんじゃない。いや、ケイトーのほうがいいかな。ケイトー&彼のオーケストラとか」と提案すると、それじゃまるで毛唐みたいじゃないか、もうちょっとほかにないのかと、顔を真っ赤にマニエらせながら鬼のように身を乗り出してくる。

「ほーなぁ、いい大人がトンカチ叩いて働いたあとの楽しみにって集まるんだから、うーん、トーキョー・ワーキング・クラス・アンサンブルは」「それ、いただきます」。後日、加藤くんからLINEが来た。ご尊父にバンド名を教えたら、「労音のコンサートに出てきそうな名前だなあ」と言ってたそうだ。

・命名料 +220円(コーヒーと三角チョコパイをおごっていただきました)

☆某月某日
基本歩かない都市の一隅を例外的に歩いていたら、誰かから金を借りてFXでふやして返すのはどうだろうと思いついた。万が一ふやせなかった場合は、紙幣を水にひたしてふやかして返そう。そうして駅まで来ると、Uちゃんがチラシ配りをしていた。てっきりまだ美容師をしている前提で立ち話。しかし、いつの間にか右手にあったチラシを見ると、Uちゃんはお好み焼き屋に転職していたらしかった。今度食べに行くよーだなんて誰でも言いそうなあいさつをしながら、掌を上にした形で左手を前に突き出し、さっき頭に浮かんだアイディアを伝えると、憐れむようにしてそこに5000円を乗せてくれた。さっそく家に帰ってはみたものの、5000円はふやすこともふやかすこともできず、あっというまに溶けてしまう。

いくらなんでも気がとがめる。ドライフルーツ類の輸入が軌道に乗って羽振りがまあまあいいらしいNを拝み倒して8000円借りて、次の日、Uちゃんのお好み焼き屋に食べに行って3000円だけ返した。気まぐれで2000円分スクラッチの宝くじを買ったら、ありゃま、19000円当たった。

その中から6000円をNに返しに行ったら、律義さを褒められてミックス・ナッツの小袋をくれた。やたらとしょっぱくてのどが渇くそれを食べながら池袋から歩いていると、新文芸坐の帰りの上田に会ったので今日は自分がおごるからと大口叩いて飲みに誘った。最終的には3600円不足。

ここはオレの馴染みの店だからと上田が言うので、渡りに船、と足りない分は後日払いにしてもらったものの、どうもそもそもの会計が水割りというか水増しというか、水で割れば不可逆的に透明に近付いていくはずなのに、なぜかどんどん不透明になっていく感じでもあった。店を出ると靴の裏というか底の部分に1000円札が1枚、罪ほろぼしのように貼り付いている。酩酊して完全に金銭感覚が狂っていたのだろう、その免罪符でもってタクシーに乗って帰ろうと明治通りに向かって異常な低速で進んでいると、途中で文鳥に会った。

文鳥は馴れ馴れしくこっちの肩に全体重を乗っけてきながら、ポーカーがしたい、と言う。まさかこんな小さな鳥が相手では負けるはずもなかろう、せいぜいしこたま巻き上げてやれ、と急にシラフに近い状態にまで戻り、明治通りを渡って右手でタクシーを呼び止めながら左手で文鳥を上着のポケットに押し込み、ゴールデン街のゲイの五郎ちゃんの店に行って朝までポーカーをした。結局5000円負けてしまった。

翌日、Aに会ったとき、貸していた6000円、少しだけでも返してくれまいかと言うだけ言ってみたところ、思いのほか3200円戻ってきた。

・収支の計算が難しいが、いくらかマイナスになっている気がする。

☆某月某日
意外と貯金できない。手近で手っ取り早く稼げないものか。やや誇張して言えば、一定時間その場から離れずおとなしく座っていればとりあえず食うに困らぬ金がもらえるいまの環境がいちばん架空であり、荒唐無稽ですらある。これ以上は高望みというものか。

現時点ではなんとなく各自の得意分野を分担している家事労働を少し多めに引き受けて、妻から賃金をもらえばいいんじゃないかと思いついたが、さすがにおこがましい。そういえば井上ひさしは夫婦間での口論のたびに、勝ち負けに応じて何万円だか何千万円だかの架空のやり取りをしていたはずだ。いま妻にトータル6億円貸している、みたいな一文に爆笑した記憶がある。

・妻の部屋の引き出しで500円玉を拾う +500円

☆某月某日
学生のころに住んでいた街のショッピングモールのフードコートで、半日、アンケート調査のアルバイト。

駅の近くに、戦後の闇市がそのまま延命治療をほどこされたような一画があった。近くの工場の女子労働者、都心から戻ってきた仕事帰りのサラリーマン、地元の商店主らが分け隔てなく安酒を飲み、無内容、非生産的な会話を交わす。住んでいた当時はそこを通り抜けるのも嫌で、ブナはおろかぺんぺん草すら生えてないくせに、なんだよ「ぶなろ〜ど」って、と名前にすら毒づいていたものだったけど、いまならいろいろ合点がいく。はたして昭和92年のぶなろ〜どは、四半世紀前とさほど変わらぬ姿で同じ場所にあった。労働者の群れに埋没して、ホッピーを1杯だけ飲んで帰る。

・バイト代 +6000円
・酔っ払ってひと駅寝過ごす −133円

☆某月某日
ケン・ローチ「わたしは、ダニエル・ブレイク」見る。このひとのものに限らず赤っぽい映画はよく見るんだけど、その手の作品にありがちな、働くことのすばらしさ! 勤労の喜び! みたいな思想には、心の底からは賛同できない。

だからここだと、主人公の隣人であるスニーカーのブローカーに自然と目が行ってしまう。ケン・ローチはあのキャラクターについて、どう思っているのだろう。なんとなく、怠け者は彼の救済の対象に入っていないのじゃないかな。それは山田洋次や佐藤忠男先生についても同じだ。いまお読みのこの号に、当然いるべきこのおふたりが寄稿していないのを不思議に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう理由での気おくれから、依頼しそびれてしまったのです。

ところでこの映画の舞台であるニューキャッスル・アポン・タインといえば……と、同地を代表するフォーク・ロック・バンド、リンディスファーンの『フォグ・オン・ザ・タイン』をひさびさに棚から引っ張り出す。「ミート・ミー・オン・ザ・コーナー」がケン・ローチの映画に使われていてもおかしくなさそうな曲だと発見できたのはよかったものの、このアルバム、まったく同じエディションをダブって持っていたのに気付いてしまう。落胆する間もなく、うち1枚を部屋の隅っこ、同じような境遇のダブり盤の山に積み重ね、次の瞬間、山ごと持ち上げて業務スーパーのエコバッグの中に放り込む。そのまま最寄りのディスクユニオンに持っていって、売り払った。

・買い取り金額 +1120円(悲しくなるので、売った枚数はひみつ)

☆某月某日
なんやかんやで貯金が目標額に達した。妻の口座に15万円を振り込む。

・振込手数料 −216円(直接渡そうとしたところ、拒否されたため)

*「トラベシア」Vol.2に掲載(2017年6月)
雑記
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仁義の誕生
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
まだかろうじて新婚と呼ばれる夫婦であればおそらく世界中どこでもそうであるように、この家でも、配偶者以外との性交渉はどの程度まで認められるべきかについての話題が食卓に登場することがある。とはいえ、そうそう頻繁にそんな話をするはずもない。せいぜい2日に1回くらいのものだ。

もし許されない理由があるとしたら、結局のところ、仁義に反するからだとしか言いようがないだろう。この家では、夫がそのような事態を引き起こしてしまった場合、固い板の上に置かれた指に向かって刃物を下げおろすことはしなくてもよい。そのかわり、夫が妻に15万円を現金で払いさえすれば、すべて水に流される決まりになっている。しかしほんとのところなにが起きるのか、あるいは起きないのかは、その段になってみないとわからない。

いずれにしてもそのとき、妻の顔は、比喩的な意味でつぶされることになるだろう。もともと、物理的には比較的平たく、たいしてつぶしようもない形状であるからこそ、せめて真ん中でフルヘッヘンドしている部分くらいはつぶさないよう、よく気をつけないといけない。とはいえ肝心のその部分があまりフルヘッヘンドしていないのが妻の積年の悩みであって、だから妻と話をするとき、夫はいつも、親指と人差し指でもって妻のそれをつまむ。そしてまず手前に向けて引っ張り、次に垂直に下げおろす。しかるのちに手を離し、またつまんでは引っ張り、下げおろす。この繰り返しの動作によって、仁義は日々、確認され続ける。

−−−

ここから先は本当の話。仁義と聞いて考えるのはある種のロック・バンドのこと。曲ごとにピンポイントで適材適所、ゲストを招くよりも、気心の知れた仲間と音を鳴らすことを優先する集団。それが夫の考えるロック・バンドの定義だ。そうやって出てくる音が最高であれば申し分ないし、最高の何歩か手前だったとしても、さしあたりよしとしようじゃないか。たとえばNRBQ。ラモーンズ。エレファントカシマシ。スピッツ。ローリング・ストーンズ……は少し違うか。

しかし最近いちばん仁義を感じさせてくれたのは、前述のバンド連中ではない。では誰か。カール・ロスマンだ。それ誰だ。ストローブ=ユイレの映画「階級関係」の主人公である。どうして“&”ではなく“=”なのかは後述するとして(ふたりの階級=関係?)、女中を妊娠させて故郷を追われたカールくん、船の中からして、たしか他人の傘かなんかを心配して自分の荷物の見張りがおろそかになっているし、アメリカで働き出してからも、折に触れてやたらと不思議な義侠心を見せている。単なる親切の段階を超えた、弱い立場の移民同士のシンパシー。労働者たちの連帯。武器なき民の闘争。

昔は「アメリカ」と呼ばれていて、いまは「失踪者」というタイトルになっているカフカの原作は、だいぶ以前に何度か読んだだけなので記憶はあいまいだ。こんな人情ものだったっけ? たしかにロード・ノヴェル=股旅ものではあるだろうけど。むしろ原作は長谷川伸ですよと言われたほうが腑に落ちる。

夫=妻の今後のよりよい結婚生活のためにも、説明不可能な仁義の謎をいくらかでも解き明かしたい。もしかしたらカフカが長谷川伸を読んでいたってことはないものか。調べてみる。カフカの生まれは1883年7月、長谷川伸は明治17年3月。現代日本風に言えば、ふたりは同学年にあたる。ここで勝手に合点がいって、なにかを証明したつもりになって調べるのをやめてしまう粘りのなさが悪い癖だ。しかし言いたいことだけを言いっぱなしにするために、わざわざ私財をなげうってつくったのがこの冊子なのだから、これ以上フォローするつもりはない。逆に、独学でいろいろ本を読むタイプの勉強家だったらしい長谷川が、老眼鏡をかけて股火鉢でカフカを読んでいる図を想像してみる(難しい)。

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結婚前から妻が夫にしばしば言う台詞が「○○(←家庭内でのみ使われる夫の呼ばれかた)は自分のことをおびやかさないような女が好きなんだもんね」であった。それに対して夫は、拗ねたように黙ってみたり、「そんなの当たり前じゃん!」と逆ギレしてみたり、無言で腹パンチを喰らわしてみたり、いつも困窮している妻のサイフにいっそこっそり2000円くらい足してみたりする。そうした夫の反応を総合して振り返ると、自分自身のことながら「かわいい」以外の形容をすることはきわめて難しい。

しかし、己のかわいさやけなげさにうっとりしているだけでは、夫として能がない。同じ台詞を繰り返すばかりの妻の芸の乏しさも糾弾されるべきとはいえ、その言葉を発するたびに、妻の顔は、比喩的に、少しずつしかし確実に、つぶれつつあるのではないだろうか。ふたりには今一度、仁義が必要だ。

夫から妻に対するリクエスト、あるいはいちゃもんは、基本的にはあまりない。ときおり一緒に出かけて、アース・ミュージック&エコロジー系統の店の前を通りかかるたびに、バカのひとつ覚えで「こういう服は着ないのか」と訊くくらいである。そう訊いたときの、夫をバカにしきったような妻の顔が好きなのだ。顔だけではない。「古い!」と口に出して言いさえする。妻本人はといえば、隙あらばZARAなどに立ち寄りたがるのだが、あれは顔の彫りの深い西洋人向けの服なので、顔の真ん中がかろうじて薄ぼんやりとフルヘッヘンドしているだけの妻は、薄ぼんやりとした色や形の服をふんわりと着ていればよいと思うのだ。

兄貴分と姉貴分に立会人の血判をもらった紙で杯を折り、酒を酌み交わして、ふたりは夫婦になった。それから2年がたって、兄貴分は下総国は柏の在に、姉貴分は相模の藤沢郷へ、それぞれ処払いになって江戸を去って行った。もっとも、休みの日になれば電車に乗っていつでも会いには行ける。

紙っ切れ1枚でなにかが変わるのかと妻になる前の妻は訊いた。ほんとのところなにかが変わるのか、あるいは変わらないのかは、その段になってみないとわからない。わたしはこう答えた。紙に書かれた文字やパソコンの画面上の文章や液晶画面の音や光が原因で、一喜一憂したり、わけもなく興奮したり怒り狂ったり落ち込んだり、友達ができたかと思えば絶縁したり、お客様同士のトラブルの原因となったり、そういうのが現代人の振る舞いってもんだ。もっと信じてもいいんじゃないのか。俺をじゃなくて、言葉を。口からでまかせを言うときの夫の顔は、たぶん生き生きとしているはずだ。

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ザ・コレクターズのライヴに通っていたのはもう20年くらい前の話だから、なにか言う資格はもうあんまりない。それでもドラムス阿部耕作の脱退には驚いた。本人のコメントの中の「私のバンドに対する情熱、創造性、技術の不足等々、足並みが揃わないこと、心が揃わないことが原因だったのではないでしょうか。」の一文に、さすがにしんみりとした気分になる。25年も一緒にいて、いまさら熟年離婚みたいなことを言わなくてはならないってのはどんな状況なのか。検索していたらベース小里誠の行状についての各種のタレコミも出てきた。事実かどうか知らないが、これこそ知らなくてよい情報の最たるものだった。

どんなロック・バンドだって岩のごとく磐石ってわけにはいかない。ましてや紙の仁義を交わしただけの男と女においておや。などと考えながら、妻の顔の真ん中のフルヘッヘンドをまず手前に向けて引っ張り、次に垂直に下げおろす。手を離し、またつまんでは引っ張り、下げおろす。

*「トラベシア」Vol.1に掲載(2016年8月)
雑記
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反射する
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

A ひさしぶり。

B そうでもないでしょう。ていうか、その格好は何。「その格好」ってのを説明すると、下半身はパンツすら着用しておらず、上半身には極小サイズの赤いTシャツを無理やりかぶっているもんだからBMI40超えの腹の肉の上にそれがまくれあがっている状態で、そんな破廉恥な身なりで濱口竜介特集のユリイカを読んでいるという。

A くまのプーさんの格好をして、「プーと大人になった僕」を思い出しながら、濱口竜介について考えているところだよ。

B なんで? 関係なくない?

A え? ていうか、逆に、本当に関係ないと思った? しょっちゅう「鬱だ死のう」って言ってるロバ、ダウナー系のドラッグをキメてるような覇気のなさでやたらと哲学的なセリフを繰り返すクマ。そのまま「親密さ」の世界に混在しててもおかしくないほどのおかしくなさじゃない? 途中からずっと、プーのセリフを佐藤亮の口調に脳内吹き替えしながら見てたんだけどね。「なにもしないことが最高のなにかにつながる」だとか。クリストファー・ロビンの「ぼくはもう“なにもしない”ができなくなった」とか。

B そういえば、列車の窓から見えるものを全部口にして言葉に変換していくゲームなんてのもやってたね。

A そゆこと。

B ユリイカにはそんなようなことも書いてあるのかな。

A もちろん、ユリイカはユリイカだから、そういうことは書いてないよ。ぼくやきみが、読む前に想像したような書き手たちによる、彼(女)らの最良の、あるいはそれなりの、仕事が載っているだけだよ。

B でも読んだら、あらためて「寝ても覚めても」を見直したくなったりするんじゃないの。

A 不思議なことにまったくそうはならないんだな。それはそれとして、またしばらくしたら見直すとは思うけど。それよりか、こういうんじゃない想定外の濱口本が存在すべきだろう、と、やや力強く感じたのさ。あ、そういえばユリイカ読んで、なるほどあれはそういうことだったか、と気付いた箇所があったな。仲本工事が唐田えりかを駅まで送って行って、バカなことをしたな、男はほかの男のちんちんが入った女を絶対に許さないんだぞ、みたいに言うでしょう。

B そんなこと言ってた?!

A 言ってたと思うよ。たぶんわざとノイズがかぶさって、聞き取りづらくなってたけど。でも実は、朝子と麦は、セックスはしてなかったんだと思うよ。

B あの略奪の場面から、たぶん翌朝の堤防の場面までの一夜のあいだにってこと?

A それだけじゃなくて、大阪時代の、付き合ってた頃も。

B いやーそれはないでしょう。たしかにハマリュー作品で濡れ場が見られるのはまだ先になるだろうけど、それにしても。名前呼ばれてぽーっとなってただけってこと?

A シネフィルならもちろんここで、蓮實重彦が「男はつらいよ」シリーズのさくらと博について、このふたりがセックスして満男を産んだとはとても思えない、みたいに言ってたことを想起してほしいんだけど、それだけじゃない。ユリイカの冨塚くんの論考を読むと、東出昌大の演じるふたつのキャラクターである麦と亮平のうち、麦は境界線を乗り越えない男、亮平は乗り越える男、みたいに書かれてたよね。

B 冨塚くんの下の名前が亮平なのは偶然なのかな。

A あれは、麦は越境してない、つまり貫通も姦通もしてないって意味だとぼくは受け取ったんだ。

B なるほど、それですべての辻褄が合うね。で、こういうんじゃない濱口本って、たとえばどんなの。

A たとえば鷲谷花が、カンフー映画を引き合いに出してあの気まずい場面のことを書いてたのは、いかにもあのひとならでの視点って感じがするよね(→☆)。あと、andre1977さん。このひとは誉めるにしても貶すにしても、一度なにかに引っかかるとずーっと引っかかってる。粘りがあるというかさ(→☆)。そういうひとたちが書いた濱口本があったらいいな。

B どっちも、トラベシアのひと、じゃん。

A いや、トラベシアに書いてるひとではあるけど、「トラベシアのひと」は、ぼくひとりだけだよ。トラベシア派、みたいのも、ないよ。……ついでだから言っておくと、すでに活躍されてる鷲谷さんはともかく、andre1977みたいなひとの文才、というのが言い過ぎであれば独自のグルーヴ、に誰も注目しないって、プロの編集者ってなにやってるのかね、と思うんだけど。いつも新しい才能を探してます、みたいのは建前でさ、すでに実績のあるひととか、それこそ自分の「派」に容易に取り込めるひとしか、登用されてないじゃん。

B 義憤に駆られているのかな。

A 義憤に駆られているよ。今後、自分のことはわりとどうでもよいので、頼まれもしないのに誰かのことを売り込んだりするよ。待ってろよ。

B わかったよ。

A それでハマリューの話に戻ると、「寝ても覚めても」は自分にとってはそれほど好きじゃないほうのハマリュー作品、との評価に落ち着くかもなんだけど、それとは別に不思議な作用をぼくに作用させてきててさ。見る映画見る映画、これをハマリューが撮ったらどうなるだろう、って思うようになった。

B 「プー」以外にもあるの。

A いろいろあるよ。たとえば「スカイスクレイパー」とか。

B ロック様の?

A 遅ればせながらドウェイン・ジョンソンのよさに今年は打ちのめされてるとこなんだけど。ロック様の立ってそこにいるだけでよいよさ、悪く言えば木偶の坊感、東出昌大に通じるものがあるなあって思ってしまうともうそこで、アクションを封印したドウェイン・ジョンソンが、ハマリューの撮るアメリカ資本のロマコメに出たらどんな演技をするだろうとか、そんなことばかり頭に浮かんでくるわけよ。

B ほかにはどんなの。

A あとは「累−かさね−」かな。

B なんて読むの。

A 「かさね」だよ。この映画は最初のほうの、土屋太鳳と芳根京子が出会う小劇場の場面がほんとひどくて、どんなキャラクターであろうと初対面の相手にその口のききかたはないだろう、って思うんだけど。ない、っていうのは別にそいつの人生を心配して言ってるとかじゃなくて、こんなセリフじゃ、こんな会話では、いくらなんでも見ているこっちが映画に入っていけない、って理由で言うわけだけど。

B ハマリューが言ってた、役者に恥ずかしい思いをさせないのが脚本の仕事とかそういうこと?

A そう、それ。いくら原作がマンガだからって、これでは演じるほうもしんどいだろうなと思う。

B そのへん、たとえば増村保造とかどう思ってたんだろうね。あれこそ、しょっぱなから非現実的なセリフとテンションの高さでもって役者と観客に負荷をかけて、映画をドライヴさせていくわけでしょ。

A この書き方だととくにこの場で結論を出す必要はないから、その問いは問いとして問いのままにしておいて、「累」の話に戻るね。

B うん、いいよ。

A ふたりの主人公のうち土屋太鳳は、顔はいいけど演技がいまいちで伸び悩んでる女優。芳根京子は天才的演技力を持ってるけど顔に大きな傷があって人前には出られない。このふたりがある道具を使って顔を入れ替えながら、お互いのアイデンティティを侵食してく話なんだ。

B 面白そうだね。ポスターだとつまんなそうだったのに。

A うん。天才小説家であることを奇嬌な言動と周囲の反応でしかあらわせなかった「響−HIBIKI−」と違って、「累」のクライマックスでは、土屋太鳳が本当に目を見張るような演技とダンスを見せるからね。そこに至るまでに、土屋が芳根の演技力を利用しているような部分もあれば、逆に芳根が土屋の外見を借りてというか土屋の皮の中に入り込んでいるような部分もあって、そういうのを経たこのクライマックスは、もはやふたりが融合した第3の人格としてしか見れなくなっちゃう。そこに至る途中でも、ふたりの顔が……とは単純に言い切れないな、画面上でのふたりの存在がごっちゃになっちゃって、あれ、いま見てるのはどっちのキャラクターなんだっけ? というのがとっさにわからなくなる瞬間がある。ふたりの顔は似てないのにね。

B ああ、きみが言ってた「二人二役」って、そういうことか。土屋太鳳も芳根京子も、中身が自分、っていうかもともとの外見に対応した人物であるときと、相手と顔を入れ替えている時間とがあって……ってことはあれ? 二人四役ってこと?

A いや、そんなに多くはなくない?

B ああそうか。

A でもって、そういう話なもんだから、劇中劇として「かもめ」と「サロメ」がふんだんに使われていて、しかも黒沢清ばりのドスン落下もあるし、「恐怖分子」みたいに壁一面が写真になってるところもある。これはハマリューにもぜひ見てほしいよね。というか続篇はハマリューに撮ってほしいよね。

B これ、監督誰だっけ。

A 佐藤祐市。前作が「脳内ポイズンベリー」で、来月は「ういらぶ。」が公開されるよ。

B 「キサラギ」のひとかあ。見たのが昔過ぎて覚えてないや。「シムソンズ」……加藤ローサってかわいかったよね。

A そうそう。ぜんぜん関係ないけど、遠藤さんっているじゃん。

B あの、いつも映画見てる、バンドやってたひと。

A うん。遠藤さんがとっとりくんに、最近話題の新作邦画何本かについて、「わたし好きそう?」って訊いたんだって。そしたらとっとりくんが、好きじゃなさそう、って答えたんだって。たぶん「寝ても覚めても」と「きみの鳥はうたえる」のことなんだろうけど、それこそ遠藤さんには「累」を見てほしいんだよね。増村が撮った「Wの悲劇」みたいな映画ですよ、ってだまくらかしたら見てくれるかな。

B 怒られるよ。

A 「3D彼女 リアルガール」の話もしていい?

B 相変わらずそういうやつばっか見てるんだね。監督は誰。

A 英勉。

B 中国人?

A 日本人だよ。はなぶさ・つとむ。

B あー「トリガール!」。あれつまんなかったなぁ。ただ土屋太鳳がかわいいだけで。「あさひなぐ」も見逃しちゃった。

A うん。「トリガール!」についてはそのとおりで、だから監督も土屋太鳳も発奮して、それでこその「累」であり「3D彼女 リアルガール」なんだろうな、と思ってる。

B そんなによかったの。

A 2次元にしか興味がなかった主人公を演じる佐野勇斗が、角度によっては松村拓海に似てるんだよね。こいつのキャラが批評的なオタクでさ、やたら早口なの。いやいやいくらなんでも戯画化しすぎじゃね? と思ったけど、考えてみたらnoirseさんもそういう、氾濫する情報の速度に必死で追いつこうとするような口数の多さだよなあと思った。すなわちリアルっていうか。彼とアニメの話で猛烈に意気投合する後輩の女子役の上白石萌歌もいい感じに地味でやっぱり早口だし、そうだ、佐野勇斗の周りには彼が好きな架空のアニメ「魔法少女 えぞみち」のキャラがときどき登場してくるんだけど、そのえぞみちの芝居がほんとに表現力豊かで。自分が声優の名前を覚えても仕方ないんだけど、なんてひとなのかなと思ってクレジット気をつけて見てたら……

B じゃじゃーん。

A 神田沙也加なんだよ!

B かんだ……? SAYAKA! 「エヴァー・シンス」の?

A いや、それ知らないけど。佐野勇斗にはアニメ好きの友だちがいてさ、常時猫耳をつけてるゆうたろう。そいつとか上白石萌歌とか、佐野の彼女の中条あやみ様とか、みんなで山小屋みたいなところに行くわけよ。そこで、中条以外はほぼ全員がいるシチュエーションで、ある重大な話がされる。ここ見てたら、場がそのまままるごと撮られている感じっていうか、「寝ても覚めても」の例の4人が最初に会う場面とは別に似てないんだけど、いま、少女漫画原作の映画、すごい多いじゃん。そうした映画が量産される中からそのうちブレイクスルーがあるだろうとなんとなく予感しつつも、だからっていちいち全部見るわけにもいかないってのが普通の態度だから、10本に1本くらい適当に見に行くくらいの感じで、でもなんかその、コッテージの場面を見ながら、「もしかしたら日本映画はすごい鉱脈を掘り当てつつあるのかもしれない」って、このままの言葉づかいで思って、静かに興奮したんだよね。中条あやみ様目当てで見に行ってよかったよ。

B 結局そういうことかよ。

A 中条様はともかく、いまの若い役者さんたち、男も女もおおむねみんな上手だし、見ていて楽しい。日本映画の未来には希望しかないね。

B 芝居とかわからないって、前、言ってなかったっけ。

A いまでもまあ、わかんないっちゃわかんないんだけど、自分にとって見ていて気持ちいいかっていうのはあるのと、あと、ずっと就活してたじゃん。

B ああ。

A いままでの経歴をなんども言わされるのよ。面接ではもちろんだし、あるいは派遣会社に登録する際にも。それこそエチュード的に、どういうふうに言うのが正解なのかわからないまま、繰り返すことになる。あ、ここから先は映画の話は出てこないよ。

B いいよ。

A ひとつ落ちると、うまくいかなかったのはなにかが悪かったんだろうと思って、次の機会では多少は意識的に微調整してみたりするんだよね。それで気付いたのが、こりゃあ簡単に紋切り型の演技になっちゃうよな、と。あるときはリラックスした雰囲気を出してみたり、はきはきした態度をとってみたりって。あとは、英語の面接だと、しゃべることに意識がフォーカスされるからか、逆にリラックスしてしゃべれるんだよね、妙なもんだけど。それこそ、相手のアクセントとか口調を「反射」してしゃべるしね。たぶん、子供がそうするみたいに。相手が自分の言ったことを聞いて、それに対してなにか言う。自分もそれに返す。また相手が返してくる。そのことの予想外の気持ちよさっていうかな。

B けっこう長いこと就活してたよね?

A まるまる半年。150件近く応募して、面接に行ったのが15社。途中から派遣でも探し始めて、登録した派遣会社が10社くらい。

B どこがよかった?

A 最終的にアデコで紹介された会社に拾ってもらった。アデコは営業力が強いのか、たくさん紹介してくれたよ。あと、赤坂見附のキャリアデザインITパートナーズってところは、登録に行っただけで交通費としてアマゾンのギフト券1000円分くれたからおすすめ。

B なんかいろいろ変わった仕事にも応募してたらしいじゃん。

A うん。田旗さんに教えてもらった、ピンク映画のプロデューサーとか。面接はたのしかったな。もし入れたら、草野さんにレズ映画撮ってもらおうとか考えてた。捕らぬ狸の、だったね。あと、大企業のウェブ社内報の編集とライティングの求人。これだったらできるだろうし、もしかしたら適職ですらあるんじゃないかって確信もあったけど、落ちた。

B 残念だね。

A それがさ、応募するとき、編集とかライティングの実績を証明するものを出せって言われるの。ウェブに書いたもののURLを適当に送ったけど、もし採用されたとして、こいつはこういう活動をしてるのかって上司とか同僚が最初から知ってるとしたら、ちょっとイヤだな。

B ま、落ちたんだしその心配は不要。

A 無職期間の最末期、阿久津さんの本を読んでた(→☆)。読書日記っていうか半分以上、労働文学じゃんって思いながら切ない気分で読んでた。自分はフリーランスとかお店やるとかは絶対無理だから、尊敬する。村松さんも独立して1年たったんだね。思えば村松さんの独立と、ぼくと宮崎さんの退職がだいたい同じ時期だったんだよな。

B 先月はバイトもしてたんでしょ。

A してたよ。当座の金にも事欠くありさまだったから。日雇いの会社に登録して、軽作業に行ったり、低温倉庫でコートを着たまま、鼻水たらしながら、業務スーパーに運ばれていく食品の配送の準備をしたり。閉店後のスーパーで朝まで棚卸とか。いきなり働き出して無職から週5になるのはしんどいから、そのまえに週に2〜3日働くのは、慣らし運転みたいなもんでちょうどよかったかも。

B これで暮らせるなーとか言ってなかった?

A もろもろ計算したら、月に30〜35日くらい働けばまあまあ余裕ができることがわかったよ。基本的にその日、その場で言われて覚えられる程度のことしかやらされないし、もし怒られてもその日限りで、次はその現場に行かなければいいわけだから、気楽だよね。

B きみはほんとうに労働に対する覇気とか向上心みたいなものがなくていいよなぁ。

A もちろん、ぼくなりに学びはあるし、仕事しながらいろいろ思索もしてたよ。人間の想像力って案外貧困で、知らないものは知らないままだから、スーパーで品物見て、へぇこんなのがあるんだ、って感心したり。

B たとえばどんな。

A 川越の轟屋って会社が出してる、鶏削り節。まだ買ってないから味はわからないけど、鰹節みたいに、乾燥した鶏肉を削ったふりかけみたいなやつ。めっちゃうまそうだな、就職して初任給が出たら買おう、と決意した。

B 思索とか決意とか、いちいちおおげさ過ぎやしないか。

A あとは、採血と採尿だけされて1万円もらえるボロいバイトとか、AIの学習用に日本語の音声を提供するための、民話を5分くらい朗読するバイトとかね。そうそうこれも、抑揚はつけなくていいからなるべくフラットに読んでくれ、って言われる。でもそれが意外と難しくて、キツネとかタヌキの声色が、つい出ちゃう。その演技がまた、しょせんはその場で渡されたものを読むだけだから、紋切り型以上のものに到達できるわけもない、って具合。

B 5分じゃしんどいわ。

A 大学の1年と2年のときにやってたのが、同じような日雇いのバイトでさ。土日とか長期休みになると事務所に行って、そこで仕事を斡旋されて働いてきてって感じの。同じところでずっと同じ人間と働くのは耐えられないだろうなってなんか、そんなことを思って、そういう働き方をしてた。いまは、暮らして遊ぶ金のためだったら多少はなんだってするつもりがあるよ。

B 25年ぶりに日雇い生活をしてみて、どう。

A 腰が痛かった。25年前の話をすると、毎日違う現場に行くとはいっても、派遣されてる元は一緒だから、何度も顔を合わせるひとってのはいるのよ。別にたいして話もしないとはいえ、「ああ、このあいだも」みたいなあいさつくらいはする。大学3年になって、新宿駅でそのころの顔見知りとばったり会ってさ。ぼくはもうあのバイトは辞めちゃいましたけどまだやってるんですか、なんて訊いたの。そしたら、俺もやめたよ、今度バーを始める、って言うから、へえーすごいですね、とか適当にあいづち打ってた1週間後には、そのバーに週2回、手伝いに行くようになっていたのさ。国分寺の南口。ピーター・キャットがあったのはこの近くだよなんて話も聞いた。ぼくは学芸大だから国分寺の北口はよくうろうろしてたけど、南口はあんまり行ったことがなくて、新鮮だったな。国分寺崖線、大岡昇平の「武蔵野夫人」に出てくる「はけ」ね。ああいうのを見て歩いたりもしてた。

B 初めて聞いた。

A うん……ぼくの武蔵野時代とバーテンのことは、いまよりももっと年老いたら、忘れる前に話しておきたいとは思ってる。楽しい話ばかりじゃないけどね。いずれまた。

映画
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神様のシャッフル
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

A ひさしぶり。

B なにが。

A この、どこでもない空間における会話だよ。

B ああ。

A それはそうと、来て早々で悪いけど、ちょっとこれ聴いてみて。カーティス・メイフィールドの「イン・ユア・アームズ・アゲイン(シェイク・イット)」。(→☆

B いやーこれいいね。抑制されたエモーション……ボキャ天でいえば「シブ知」かな。

A たとえが古いよ! じゃあ今度はこっち。(→☆

B これ、同じじゃない? ほんの少し違う?

うん、最初のやつ、これを仮にZbI4cZzt7sQと呼ぶことにする。2番目のはvHohgaLDVX4ね。2度目のブラスが入ったすぐあとの、2分31秒あたりを聴き比べると、ZbI4cZzt7sQに入っている音が、vHohgaLDVX4には入ってない。

B も一回、聴かせてもらっていい? ……あ、ほんとだ。Windowsで、手前に画面が開いているのに、順番を無視して奥の画面を先に閉じようとして怒られるときの警告音みたいな。ポン、っていう音。

A これ、1976年の『ギヴ、ゲット、テイク&ハヴ』の曲だから、そもそも録音当時には存在していなかった音なんだけど、CDにするときに間違って混ざっちゃったのかな。

B あったよね、レベッカのLPに心霊の声が入ってる、みたいな。

A いつの話だよ! あと、それとはちょっと違うけど、坂本慎太郎の『できれば愛を』のタイトル曲の間奏のマリンバのフレーズが、iPhoneの着信音みたいに聞こえるって、誰か書いてた、あれ、安田謙一だったっけ。

B いま、っていうのは2018年9月7日のことだけど、アマゾン見たら、このアルバムの通常盤、50%オフになってるんだな。お買い得。……なんか、話が要領を得ないけど、ここからどういうふうに話題が展開されるのかな?

A あのアルバムが出たときはたしかにあれがiPhoneの着信音みたいに聞こえたんだけど、このあいだ聴き直してみたらそうは聞こえなかったんだよ。

B うん?

A ていうのは、濱口竜介の「寝ても覚めても」の、曲名あるのかないのか知らないけど、最初に流れる「麦のテーマ」、あれ、iPhoneの着信音っぽくない?

B 似てるっちゃあ、似てるかも。

A 最初の川べりのところで流れて、次に、すぐあと、国立国際美術館からエスカレーターで麦と朝子が外に出ていくところでも流れるでしょう。その、2度目のとき、すでに直前に耳にしていたのにもかかわらず、あ、客席の誰かがiPhoneの電源切り忘れたな、と、素で思ったからね。

B まだ話が要領を得ない。

A 中之島の国立国際美術館に行ったことはたぶん一度だけだけど、あの長いエスカレーターは忘れようがないっていうか、その連想で言うとぼくはいまでも、竹橋の東京国立近代美術館のあの、高さの違うフロアとフロアを斜めにつないでいた、空中を渡る階段とその機能を、懐かしく思い出すことがあるんだけどさ。

B どんな階段も、その機能は、たいていは高さの違うふたつのフロアを斜めにつなぐことだよ。ハマリューの新作について、言いたいのはそんなことなの?

A 今回のは「よくわからないほうのハマリュー」だったから、2回見たので、一応、感想はいくつかあるよ。高さの違うふたつ以上のものの頻出とか。東京に来てからの朝子がほんとに表情に乏しいなとか。東出君には荷が重すぎるというのは別にしても、麦と亮平は別の役者がやったほうがいいんじゃないか、とか。似てないものを似てると言い張ってなんとなくその気にさせるのが、映画なわけでしょう。

B 東野英治郎が石原裕次郎の父親役やってたりね。どういうDNAだよ。

A しかも、麦と亮平が、たいして似てなくて、もちろん、東出君が二役だってもともと知ってるから、あれだけど。それよりも、震災後の上野駅近くのロング・ショットで、呼び止められて立ち止まる東出君を早足で追い越して遠くに行ってしまった派手なマフラーの男が、その次の階段のところで、幽霊のようにまた現れるのが、限りなく編集ミスに近いというか、ドッペルゲンガーの主題に呼応してるっていうか。

B 似てないものを似てると言い張るってのは、「SUNNY 強い気持ち・強い愛」のことでしょ。広瀬すずが長じて篠原涼子になるもんかなあ。

A いや、それはいいんだよ。広瀬すずより篠原涼子のほうがかわいく見える瞬間があるって、すごくない? 余命短い板谷由夏が病室でダイナソーのTシャツ着てる謎設定にも、ぐっと来たし。あ、ダイナソーってダイナソーJr.ね。

B 知ってるよ! こんなツイートしてるひとがいたよね。「彼女のコギャル時代役の山本舞香は安室ちゃんやTRFをカラオケで歌ってオザケンで踊ってるけど、みんなに隠れてグランジやオルタナも聴いてたんだと納得させた。」(→☆

A カン・ヒョンチョルのオリジナルのほう、「サニー 永遠の仲間たち」もちょうど韓国文化院でやってたから見直したところなのさ。あそこ、旧作の上映だとガラ空きだけど、普通に見られる新しめのやつだと、混むね。大根仁のリメイクのほうがよかった部分も多少はあるし、そのままやってる箇所も多かったけど、なんでここを変えちゃうかなあ、みたいなストレスも少なくなかった。

B たとえば。

A たとえば、主人公が最初に母校を訪ねる場面。オリジナルだと、生徒たちに混じって歩いているところでカメラがぐるっとあたりを見渡してまた元の位置に戻ると、転校してきた日の自分が立ってるというのをワンカットで見せてるよね。大根仁はこれについてとくになにも思ってないのか、そこをコギャルのダンスにしちゃってる。昔ときどき見てたCinemaScapeってサイトで、「日本脱出」につけられていた、「★1 ギャーギャーうるさい。」っていうコメントを思い出した。(→☆

B CinemaScape、あったね、懐かしいね。それこそあれって、1990年代の半ば、コギャルが盛んだった時代のサイトじゃない?

A あーこらこら、歴史を改変しないように。あともうひとつ、職員室に入っていくのを機に、高校時代から現代に戻るでしょう。オリジナルだと、一緒のタイミングで職員室に入ってきた生徒の持ってるノートPCから、Windowsの終了音が聞こえる。そこで、聴覚的にも現代に引き戻されるわけだけど。いまだったら、現実に連れ戻される音として、iPhoneの着信音がいちばん適任なのになって思った。

B なんだったか、あの着信音をそういうふうに使ってたアメリカ映画、あった気がする。思い出せないけど。

A ともかく、「SUNNY 強い気持ち・強い愛」単体でどうこうと言いたいわけじゃなくてさ。「SUNNY」も「寝ても覚めても」も、お互い存在を気にもしてないだろうに、ほんとにたまたま、どちらも震災映画であり、そしてお好み焼き映画なんだよ。「SUNNY」のほうがお好み焼きがお好み焼きである必然性は強いし、さらにはこれは韓国版にはない、大根仁のオリジナルのアイディア。

B そんなこと言ったら、「コード・ブルー」もそうじゃなかった?

A なんかあったっけ。

B 「寝ても覚めても」の麦と亮平が鉢合わせする場面で、朝子が言う「なんでいまなん?」っていうセリフを聞いた瞬間、「コード・ブルー」で血まみれの花嫁が戻って来たときに浅利陽介が漏らす「なんでいま……」を思い出すでしょう、シネフィルなら、普通。

A それは忘れてたけど、「コード・ブルー」見たら、やっぱりちょっと濱口監督のこと、考えたよ。ぼくはTVシリーズ見てないから、最初のうちはガッキーかわいいなとだけ思って見てたんだけど、このひとたち、あいだは空いてるにせよ、実際の年月で10年間、この人間関係をやってるわけで、演出が無色透明であるとか、そういうのを抜きにしても、時間の積み重ねから有無を言わさず沁み出てくるもの、あるよ。ハマリューもなにか思うところ、あるんじゃないかな。見てないと思うけど。

B ガッキーかわいいしね。

A 馬場ふみかもかわいかったよ。まあそれはそれとして、「ハッピーアワー」で一瞬近づいたかもしれない月9のディレクターの座に、「寝ても覚めても」で遠ざかっちゃたのは残念だな。自分が日本映画の神様だったら、企画と監督をシャッフルしてみたい。「コード・ブルー」「SUNNY」「寝ても覚めても」を、ハマリューと大根仁と西浦正記があみだくじかなんかで、誰がどれを監督するか、決めるのさ。

B 西浦正記って誰。

A 「コード・ブルー」の監督。

B 「検察側の罪人」と原田眞人も、シャッフル企画に追加しようよ。

A いいね! ああそうそう、「検察側の罪人」と「コード・ブルー」見たらさ、なんだかんだで原田眞人、シネフィルがあれこれ言いたくなるような要素があるよなあって思った。

B とてもありえないと評判の、吉高由里子とニノの、事後の姿勢のこと?

A 吉高由里子かわいいよね。あの姿勢は、「ライ麦畑で出会ったら」でも出てきてた気がするから、まあいいんじゃない。うろ覚えだけど。まあそれはそれとして、リアリティ・ラインみたいなものって、あるわけじゃん、なんにしても。「検察側の罪人」はところどころおかしな部分あるにせよ、なんとなく全体としては、うん?まあいいか、みたいなあたりに無理くり押し込めることに成功している。「コード・ブルー」は、すでに時間による蓄積があるから、監督がその場でどうこうしなくても、このキャラならこういうときはこう動くよね、っていうのが、もうあのティーム内に、できてる。そのことが映画自体の広がりに枠をはめてしまう可能性も、もちろんあるけど……。

B もしかして「センセイ君主」の話、しようとしてる?

A いや、あれも面白かったけど、そうじゃなくて、城定秀夫の「恋の豚」の話。あ、待てよ、それこそ神様のシャッフルによって、城定秀夫が少女漫画原作ものを撮るような世界が実現したら楽しいだろうな。で、「恋の豚」、主演の百合華が文字通りブタなのにかわいくて、こんなにブタかわな女優を見たのはレニー・ゼルウィガー以来だと思って感動しちゃったんだけどね。で、その百合華の家になんとなく居ついてしまう守屋文雄、いかにも風来坊みたいなのに、実は金持ちの家の娘と結婚して一戸建てに住んでるっていう設定で、見ながら、「そーんなわけあるかい!」ってツッコミを入れたくなると同時に、これはこれでアリだ、とも思ってしまうよね。誰が言ってたか忘れたけど、ピンク映画にはときどき、ピンク映画の中でのみ存在を許容される男性キャラクターがいる、って。吉岡睦雄が演じてたりするようなね。ありえなさをチャラにしてしまうっていうか。

B 佐々木浩久が、「寝ても覚めても」をピンクでやれるんじゃないかって言ってたらしいじゃん。主人公がぶっとんだキャラで、女友達もふたりいるしって。

A 「恋の豚」見て思ったのは、シネマヴェーラでやってた特集のタイトル「愛の力学 “彼と彼女と彼” あるいは “彼女と彼と彼女”」のことなんだよね。考えてみたら、「寝ても覚めても」もそうだな。

B 「きみの鳥はうたえる」もじゃない?

A そうだよ、そうなんだよ。ほんとあの石橋静河なんてさ、どこに住んでるとかどういう出自とかまったく示されなくて、単にふたりの男のあいだを行き来するだけの記号みたいに見えてもおかしくないのに、ぜんぜんそういう感じ、しないもんね。もちろんほかのふたりも。

B えらく好意的じゃん。「密使と番人」のときはなにも言ってなかったのに。

A 「やくたたず」にせよ「プレイバック」にせよ、三宅唱の弱点って、もうただひたすら話の弱さ、だと思ってたからね。だから「ザ・コクピット」みたいな、わちゃわちゃしてるだけで成り立つ構造のものはいいとして、劇映画だったら他人にかっちりした脚本書いてもらうとかのほうがいいんじゃないかなーとは思ってた。今回は脚本は本人だけど原作もので、古典的な“彼と彼女と彼”でもあるからね、そこらへんのあれと、お得意のわちゃわちゃ感が奇跡のスパークを起こしたって感じ。とにかく3人の顔、全身、たたずまい、すばらしかった。「よくわかるほうの三宅唱」だった。染谷くんのぽっちゃりした腹回りも見れたし。

B あんまり、いかにもな函館らしさがない、みたいな感想を見た気がするけど。

A ラッキーピエロとかかな。いや、それはいいんじゃない。路面電車と、あと植物の様子で高緯度感は伝わってきてたし。あ、そうだ。

B なに。

A 「寝ても覚めても」の、東京と大阪の話ね。具体的な地名が出てなくて、最後だけ枚方市って電柱だかカーヴ・ミラーだかに書いてあった、あそこ。

B うん。

A もうどこかに情報が出てるかもだけど、あれ、枚方市じゃないんじゃないかな。淀川の支流の天野川ってのは実在する川ですが、その川沿いにはあの景色、ない気がする。あったらごめんね。地図見てたら、市内の別の川の近く、住所でいうと枚方市西牧野3-30-8あたりが雰囲気近いけど、ここも違うしなあ。まあどうでもいいかな。誰か知ってたら教えてよ。

B あれ、淀川って、桂川と同じ川なの? 京都の?

A そうだよ。常識じゃない? 同じ水の連続体が、場所の移動とともにシームレスに名前を変える変容の物語でしょ、川って。「方丈記」にも書いてあるじゃん。同じように、一度煮られたラタトゥイユは、冷めることによって味がしみて、カレー状のなにかに変わるんだよ。煮ても冷めても、みんなつながってんだよ。映画も。

B 妄想コーナーのはじまりですか。

A 違う、そうじゃない。たしか筒井康隆が言ってたことで、こういうのがあって。彼のオリジナルじゃなくて誰かの言葉を紹介してたのかもしれないけど。「作家はみんな、よってたかって巨大な1冊の本の別々のページを書いてるんだ」って。

B 映画もそうだというので?

A そう思ってるよ。もちろん本人たちはそんなつもりはないだろうけど、それでも、期せずしてシンクロが発生してしまうものだし、日本語映画という大きなひとつの総体、さらにいえば、「映画」。

B きみは以前からずっと、そういう問題について考え続けているよね。

A ぼくは、なにか「問題」について考えたことも、論じたことも、ないよ。個別の映画についてとか、いくつかの具体的な映画同士の距離とか関係とかつながりについてとか、そういうものごとについてしか、考えられないよ。たまたま、ほぼ毎日つかっている日本語については、日常的に、なにか思うことも多いし、感想が、あるよ。それだけだよ。

B 今年はビンダーにはなにも書かないので?

A 去年の号に書いた「遺書」(→☆)のとおりで、映画を見たり、ましてやそれについてなにか書いたりできる状態では、なくなっているからね。

B それでもまだ月に20本くらいは見てるじゃん。

A 違う、そうじゃない。日本語の問題を考える一環として、見ているだけ。でもね……。

B でも?

A 最近、こんなことがあった。ぼくよりいくつか年上のひとと話していて、日本の映画ってどうなんですか、と訊かれたのね。「いわゆるJポップについては、洋楽と比べてどうとか、思うじゃないですか。自分は映画にはあまり詳しくないけど、そのへんのところ、どうなんですか?」ってね。

B それで。

A ぼくは、その質問の意味するところが手に取るようにわかってしまった。だもんで、次の瞬間、ふだんのぼくのキャラクターとは正反対のイキリオタクみたいな状態へと変容して、こんなことを口走っていたんだ――

チバさん、よーくわかります。ぼくたちの若い頃は、日本映画なんて、そもそも見る気にならないようなものばかりだったじゃないですか。いまは違う、そうじゃないんです。ここ5年10年で空気が変わって、本当にいろいろなタイプの、面白い映画がいっぱい出てきています。もう昔じゃない。さっき名前を出した濱口竜介という監督は、これからの日本映画を背負って立つひとです。ぜひ、見てみてください。

ってね。そう言いながら、ぼくの両目からは、なぜか涙が流れていたんだ。

B 芝居がかってるなあ。
映画
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どこにいても
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

○収支に愕然とする(3年連続3度目)

5月の末にリトル・プレス「トラベシア」の第3号を発行して、2か月で手元の在庫がほぼゼロになりました。いい機会なので、経緯を振り返っておくことにします。創刊号のときにも同じような趣旨の記事を書きました(→☆)。2017年発行の第2号のときには書くつもりでいたものの、もろもろの事情で結局書きませんでした。

まずは簡単な収支決算から。

・支出:
各種ギャラ(原稿料、デザイナーとイラストレイターへの謝礼、発刊記念イヴェント出演者への出場料)、印刷費、できあがったものの発送費
→合計約32万2000円

・収入:
できあがったものを売ったぶん(手売り、お店への卸し、BOOTHなどを使った通販)
→合計約11万4000円

あらためて計算すると、やはり、愕然とします。ご存知の方はご存知の通り、わたしは昨年秋から無職であり、そう考えるとなんというか、ありえないです。

もうちょっと詳しく見てみましょう。まず、収入について。今回、300部つくって、定価が500円なので、原理的に、収入が最大15万円以上になることがないのは最初からわかっていました。有名人などへの宣伝目的での献本は一切おこなっていませんが、執筆者などにはもちろん無料で進呈します。お店へは7掛け(1冊350円)で卸しています。そう考えると、回収率としてはまあこんなもんかなと。ちなみに今回、お店に卸したぶんと、それ以外(手売り、BOOTHなどでの通販)のぶんの冊数の割合はほぼ半々でした。あ、そうそう、カンパの意味で多めに入金してくれたひとが複数人様いらっしゃいまして、本当にどうもありがとうございます。

次に支出について。具体的な金額の開示は避けますが、印刷費の割合が、高いです。創刊号以来ずっと、同じ印刷所にほぼ同じ仕様(紙、印刷方法)で頼んでいますが、昨年リリースした第2号のときの印刷費と比べて、明らかに割高になっている気がします。原稿料をはじめとした各方面への謝礼の額は、わたしが考える最低レヴェルでして、いくらなんでも現状の2倍くらいお支払いしたいと思ってはいるものの、この収支状況だと、難しいです。

○じゃあどうすればいいか(金の話)

じゃあどうすればいいかって話で、誰でも思いつくのは定価をもう少しどうにかしたらどうかということでしょう。たぶん、定価を1000円か1200円にして、それでもって完売すれば、経費が回収できるか、それに近いところまで、いきます。ただし定価を上げると当然、売り上げ冊数は減りますし、買ってくれたひとも内心「高いな……」と不快に思うに違いないので、それは避けたい。もっとも、現在の価格設定でも、内容やその他の好みが合わずに、高ぇよ、と感じている方はいらっしゃるでしょうけど、さすがにそれに対してなにか(反論や説得)言おうとは思いません。常識で判断してよ。

あるいは、部数を増やす(たくさん印刷する)と1冊あたりの原価は下がるので、たとえば1000部つくって、それを全部売ることができれば、収支はだいぶ改善します。潜在的にはそれくらいの需要はあると思っているのですが、いままで売ってきた手ごたえからすると、すぐにその段階に達するのは難しそう。

あとは臨時収入というか、付帯的な収入があると嬉しいですね。たとえば発刊記念のイヴェントに出て、ギャラをもらうとか。自分でやった「渋谷並木座」(→☆)は、準備にいろいろお金がかかって、儲かる類のものではないです(儲けるつもりもない)。なので、たとえばどこかの本屋さんで、何人かのリトル・プレス発行者が集まって内情を話すトークをする有料イヴェントとかすると、面白いと思います(司会もわたしができますよ)。ギャラの発生する原稿依頼なども含めて、随時オファー受付中です。

収入を増やせればよし、増やせなければ、支出を減らすしかない。事実上、削れるところは印刷費のみで、これについては今後、真剣に考えざるをえないと思っています。ただし、安い印刷所にするとクウォリティが下がるのではとの懸念は当然あり、このへんはおいおい調べます。

そうだ、これだけは言っておかなくちゃ。もし自分でリトル・プレスを始めようと考えているひとがいて、20万赤字になるのかーとがっくりして思いとどまろうとしているとしたら、思いとどまらないでください。同じような規模でやるとしても、収支トントンにする方法はいくらでもあるはずですし、また、赤字10万出たとして、たとえば自分だけでつくるのでなくて3人とかでティームを組んで均等割りすれば、ひとり3万ちょっと。それで、事前の相談から発行まで何か月も楽しめると思えば、遊びにかかる金としてはもう、タダみたいなもんでしょう。いますぐ始めてください。

○漠然としすぎている

行きがかり上、金の話から始まってしまいましたが、内容について。今回で3冊目なのでつくりかたの流れやコツみたいなものはつかめてきたものの、やはり不測の事態やコントロール不能な出来事は起きてしまうもので、案外スムースにはいきませんでした。それらの(すべてとはいいませんが)多くは、わたしの慢心と油断と無神経とが招いたものなので、反省しています。

それはそれとして、そうしたあれこれは最終的な完成品には一切悪影響を与えてはおらず、仕上がりについては大変満足しています。執筆者のみなさん、インタヴューや対談に登場してくださったみなさん、いつもすばらしいイラストを描いてくださる畑中宇惟さん、細かいところまで気を配ってくれるデザイナーの村松道代さん。どうもありがとうございます。感謝。

創刊の時点から、いわゆる一般的な知名度のあるひとと、得体の知れないひととを混在させて、たいして役にも立たない、ただ日本語であるだけの文章を書いてもらいたい、と考えてきて、少しずつ試してきました。ひとまず今回、ほぼ完全に狙いを達成できました(参加をお願いしたけれども諸事情で受けていただけなかったひとが複数いましたが)。

さきほど書いたように、「生産性」のないこういう雑誌を面白がって、喜んで買ってくれる貴族趣味のひとはいろいろな場所に少しずつ、もっともっと、トータルするとかなりの数、いらっしゃるはずなのですが、と同時に、得体の知れないものに金を払ってもらうことの難しさを、痛感してもいます。そもそも、少し考えればわかるとおり、世の中には、「おかあさん」などといった漠然としたテーマで検索してリトル・プレスを探す人間は、たぶん、いない。

本屋を回ったりネットを見たりしていると、リトル・プレスや個人の出版物の中にも、ぱっと見て「ああなるほど、これは売れそうだな」と感じられるものは、あります。買ってはいないので名前を出すのは控えますが、それらの多くはコンセプトが明確で、すぐに意図が見て取れるもの。そうしたものが実際にどれくらいの部数売れているのかは存じ上げませんが、内容の面白さではこちらも負けていないと思っています。

○じゃあどうすればいいか(ふたたび)

ふたたび、じゃあどうすればいいかって話で、テーマを少々せばめて、漠然じゃなくすればよいのかもですが、わたし自身がそういう方針でなにかをつくったときにできあがるもののイメージは、より深まった精緻な議論が展開される雑誌になるというよりか、「大喜利」「あるある」になってしまうのではないかとの危惧です。わたしには、いかなる意味においても「ユリイカ」はつくれません(「ユリイカ」において常に深く精緻な議論が展開されているという意味では必ずしも、ない。単なるたとえです)。

漠然とした状態のままで、いまよりもたくさん売る方法はないか。工業や商業の世界の話はわかりませんが、文化と経済の交差点あたりに立ってあたりを見回してみると、「人間(の名前)」が、いまだに、いちばん、理不尽なまでに利ざやがよい、濡れ手で粟の資本のようですから、発行人(わたし)が有名になるのがいちばんの近道なのでしょう。たとえば「トラベシア」が、中身はまったく同じで、「責任編集 糸井重里」ってなってたら、一瞬で10倍くらい売れるのは間違いありません。

わたしに関してはそれは望み薄なので、だとするとあとは、継続することによって少しずつ信頼されていくとか。いままでに出た号をお読みになったみなさんは、だいたいこんな感じの雑誌か、とおわかりになったと思うので、次号の案内を見かけたとき、あ、誰それと誰それがまた書いてるのか、だったら買ってみようかな、と思うかもしれない。思ってほしい。いや、きっと思うに違いない。ということを繰り返していくと、裾野が少しずつ広がって、10号目くらいで(2025年/わたしが52歳の頃?)、1000部くらいは発行できるようになるのではないか。

○イースト・ヴィレッジにおける啓示

しかし、当初の構想では、とりあえず3号をもって終刊にする見込みが濃厚でした。5月の連休明け、あらかた集まった原稿類に手ごたえを感じつつ、ゲラなどのやりとりをしつつ、未提出者に催促をしつつ、その時点ではもう、だいたいこの程度のものができるなということはわかっていて、そして経費もおおまかな見当はついていますから、ということはつまり、全部売ってもかなりの赤字になることも、わかっている。

こづかい稼ぎにはならなかったけど、発行を機に新しいつきあいもできたし、もともと知っていたひとたちの知らなかった側面を見ることができたし、いくつかの本屋さんから声をかけてもらったりこちらから押し掛けたり、読んでくれたひとから感想をもらうのは楽しいし、金がかかりすぎる以外は嫌なことはひとつもないんだけど、でもまあ、潮時かな。次やっても、やらなくても、そんな変わんないし。なるほど3号雑誌とはこういうことか。

ところでその時分、わたしはたまたまニューヨークにいて、昼間はそのへんをうろうろして、夜になるとブルックリンの安宿の地下の部屋に戻ってきてはスマートフォンを使って、やりづらさに難儀しながら日本とゲラのやりとりをしていました(帰ってからでないとどうにもならないことがあるかも、と危惧していたけど、結局、なんとかなった)。

そんなある日、イースト・ヴィレッジのA1レコーズでコルティーホ・イ・ス・コンボのLPを買って、次の目的地であるグッド・レコーズNYCに向けて歩いている途中の道すがら、ふと、あ、もう1回はできるな。やれるんじゃないか。出したい。来年またつくろう。いままでとは少しちがった方法と顔ぶれで。と、ごく自然に、思ったのです。

○どこにいても

ニューヨーク訪問は複合的な理由によるものでしたが、着いた次の日の朝いちばんで行ったのが、ブルックリンのマウント・ジュダ墓地。「渋谷並木座」で上映した映画「The Sweetest Sound」の監督、アラン・ベルリナーの一家の墓参りです。ご覧になった方はおわかりのとおり、映画にも出てきています。映画の撮影の年だか翌年だかに監督のあのお父さんも亡くなっていて、ここに埋葬されています。ユダヤ人墓地らしく、なんとかマン、なんとかバーグという苗字がやたらと目立っていて、また、墓碑に彫られているのも英語はもちろん、ロシア語、ヘブライ語と、マルチリンガルな環境でした。ちょっと迷った末、日本でそうしているように、普通に手を合わせてきました。

その翌日は911メモリアルのモニュメントと、自由の女神、そしてエリス島の移民博物館。911の記念館があるのは知っていて、そこを見ちゃうと時間と金がかかるのでとくに予定に入れてませんでしたが、自由の女神に渡るフェリーの時間まで余裕があったので手前で地下鉄を下りて、とりあえず昔なにかのビルがあったらしい場所まで行ってみたところ、普通に犠牲者の名前が刻まれたモニュメントがあり、近づいてその名前に触れることが推奨されている。もちろんすべてを読むのには膨大な時間がかかるので、ほんの一部を眺めただけですが、当たり前だけどさまざまな民族に由来するっぽい名前が並んでいる。これもまたご覧になった方はおわかりのとおり、「The Sweetest Sound」は人間の名前にまつわる映画なので、この時点ですでにわたしは泣いています。

そして自由の女神と移民博物館。おすすめ。一度は行っておいていいと思います。とくに移民博物館、これは移民についての博物館ですが、合衆国建国以前から21世紀の現代まで、時代に応じてさまざまにその意味するところを変化させながら、常に国の力の大きな源泉であり続けている移民を考えることとは、すなわちアメリカを考える行為そのもの。そのための材料を満載した巨大で行き届いた施設が、ほかならぬこの島に存在している事実に、感極まらざるをえません。またしてもご覧になった方はおわかりのとおり、「The Sweetest Sound」はアメリカに移民してきたユダヤ人についての映画でもあるので、そんなあれやこれやもあって、終始半泣き状態で見て回りました。

ちなみに日本でも、横浜に海外移住資料館(→☆)というのがあって、こっちは日本人がどうやって・どんなところに出ていったかについて知ることができる施設。無料でエモくなれるので、近くに行った際にはぜひ寄ってみてください。

さて、そんな911メモリアル〜自由の女神〜エリス島、と回った翌日に雷鳴のようにわたしを直撃したのが、上に書いた、もう1回はできるんじゃないか、の啓示でして、陳腐な話で甚だ恐縮ですが、ニューヨークで、わたしの脳の日本語を扱う部分になにかいつもとは異なった刺激が与えられたのかもしれない。結局、どこにいてなにをしていても、日本語でなにかを考えているらしくて、少なくとももう1年は、それを続けることになりそうです。

○第2号「労働」の宣伝

ところで、上のほうで、昨年リリースした第2号「労働」(→☆)のときには、編集や発行のあれこれのまとめ記事をもろもろの事情で書かなかった、と書きました。正確には、そんなたいそうなアレではなくて、単にまだたくさん売れ残ってしまっているので、いつ気持ちの区切りをつけたらいいかわからなかっただけの話です。

売れ残った理由を考えてみると、

・部数をたくさん作り過ぎた(創刊号250部→第2号400部)
・定価を上げてしまった(創刊号500円→第2号800円)

このふたつに尽きます。定価が変更になったのは、創刊号はもともとサーヴィス価格で安めにしていたのと、第2号ではページ数が増えたからなのですが、それでも創刊号が好評だったからこれで充分行けるだろう、と調子に乗ったが故の判断ミスです。すべてわたしの油断と慢心によるものです。

内容に関してはこちらも、創刊号、第3号と同じくらい面白い、と自負しております。買うことをおすすめします。まだ一部店舗では店頭に置いていただいていますが、通販だとより確実です。BOOTH(→☆)だとコンヴィニ払い、クレジットカード払い、ペイパル払い、などができます。わたしの口座(三菱UFJ、みずほ)への直接振り込みや、アマゾンギフト券でのお支払いをご希望の場合は、suzukinamiki@rock.sannet.ne.jpまでメールください。1冊あたり800円+送料は何冊でも180円です。よろしくどうぞ。

雑記
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普通に読める日本語の雑誌「トラベシア」第3号発行のお知らせ
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

通販の受付は終了いたしました。どうもありがとうございました。実店舗、および実店舗のWebショップではまだ在庫があるところもあるかと思いますので、そちらでお求めください。(取扱店の一覧は下のほうに載ってます)

普通に読める日本語の雑誌|トラベシア|Vol.3|おかあさん

2018年06月01日発行|300部
A5判|横書き|82ページ
500円

インタビュー|田村レオナ ハイヒールでキッチンへ
(聞き手:鈴木並木/写真:村松道代)
インタビュー|森山公子 おかあさんになるまで、それから
(聞き手・まんが:豆田妙子/構成:鈴木並木)

母親を巡る対談|脇山和美×ジョー長岡

いしあいひでひこ|Mother、近く、遠く
太田ユリ|スワンボート
木村有理子|ミイラ盗り
草野なつか|男嫌い
くみ太|帰宅すると母みや子が〜
小西康陽|初期のサザエさん
コバヤシユカ|美人コンプレックス
佐藤柿杵|夜空も星もないうちに
田口真希|金曜の夜と女たち
直枝政広|我儘に食べる
中野さやか|オキナの話
波|おかあさんとパートタイム・ラヴァー
深堀骨|臍の緒
牧野大輔|お母さんは心配症
マルナカ|フジタモリ
三木直人|そして母は別人になる ――『ジュリエッタ』の〈二人一役〉
ムチコ|南部坂
若木康輔|お母さん、いい加減あなたの説教は忘れてしまいたい
鷲谷花|おかあさん、おはなしして

イラスト・ロゴ原案|畑中宇惟
デザイン|村松道代
編集・発行|鈴木並木

◇面白くなってきました|鈴木並木

Vol.1「顔」、Vol.2「労働」に続く「トラベシア」Vol.3、今号は見てのとおりの「おかあさん」尽くしです。インタヴュー2本、対談1本、原稿19篇の中に、実在/非実在、やさしい/きびしい、存命/故人、などなど、さまざまなおかあさんが登場。ひとの形をしていないおかあさん(?)も、ちらほら出てきます。

「さあ、いよいよ面白くなってきました」。スポーツ中継の解説者の口調で、そう申し上げたい。いままでの号も全力投球、そのときどきで出せるものを出し切ってきましたが、3年目にしてようやく、編集という作業の醍醐味を知った思いです。若干の不測の事態も、「007/ダイ・アナザー・デイ」の冒頭のサーフィンの気分で乗り切りました(微妙に時事ネタ)。プロの編集者の方々からすれば「ふざけるな」という話かもしれませんが、こっちも無職の身で貴重な貯金を切り崩して遊んでいるわけなので、もしそう言われたら「ふざけ続けるよ!」と返すしかない。

もちろん、わたしひとりだけが面白がるために作ったわけではありません。いままで一度でもおかあさんのおなかの中にいたことがあって、なおかつ普通に読める日本語を普通に読める方なら、マザコン・ボーイからフェミニズム学徒のみなさままで、わけへだてなく、幅広く楽しんでいただけるはず。どしどしお買い求めください。

◇購入方法
○通販(本人)
日本国内の場合、5冊くらいまでは何冊でも、送料一律180円です。それ以上は別途計算。国外は送料実費で対応します。ご住所、お名前、冊数、ご希望のお支払い方法、好きな食べ物(任意)を、メール(suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp)またはツイッターのDM(@out_to_lunch)でお知らせください。折り返し、手続きについてご案内します。 →本人からの通販の受付は終了しました。ありがとうございました。

支払い方法は下記からお選びください。前払いでお願いします。送料込みの合計振込額は、1冊→680円、2冊→1180円、3冊→1680円、です。

・三菱UFJ銀行口座への振込み
・みずほ銀行口座への振込み
・Amazonギフト券(メールタイプ)←Amazonのアカウントお持ちでしたら、手数料かからず支払いできます。三菱UFJ、みずほ以外をご使用の方は、これが便利だと思います。受取人を「suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp」と指定してください。

わたしの銀行の口座は昨年から変わっておりません。ご存知の方は、わたしからの連絡を待たずにさっさと振り込んでいただいても大丈夫です。

あと、これはむろん強制ではないので読み飛ばしてくださってぜんぜんかまわないんですけど、既定の額よりいくらか多めに振り込むことによって、応援する気持ちを示すことが可能です。

○通販(サイト)
クレジットカードやコンヴィニ払いなどで購入したい場合は、BOOTHをご利用ください。知らないひとにメールなどを送ったりするのが生々しくて抵抗があるとか、面倒、という方も。結局わたしが家から発送するので同じことですが。「トラベシア」のブースはこちら→☆

○まとめ買い割引 Sale!!
Vol.2「労働」とVol.3「おかあさん」を合わせて2冊以上お買い求めいただくと、送料無料となります。「労働」1冊と「おかあさん」2冊、とかでもOK。ただしこの割引の趣旨は「労働」の在庫を処理することですので、「おかあさん」だけ複数冊お求めの場合は適用されません。普通に考えてご理解ください。

BOOTHでは、「労働」と「おかあさん」各1冊ずつのセットのみ販売いたします。それ以外の組み合わせをご希望の方は、わたしまで直接ご連絡ください。

○実店舗での購入 Tempo!!
納品済みの店舗の一覧です。随時更新されます。売り切れたりしている場合もあろうかと思いますので、在庫状況は各店にお問い合わせください。ただし開店直後や閉店間際に電話するのは迷惑ですので気をつかいましょう。(6/21現在の情報)
△→Vol.1もまだ売ってるお店
▲→Vol.2もまだ売ってるお店

・東京
往来座(南池袋)▲
ディスクユニオンの一部店舗(新宿中古館・ブックユニオン新宿/御茶ノ水JazzTOKYO/北浦和店←ここだけ埼玉)
本屋B&B(下北沢)
Title(荻窪)▲
忘日舎(西荻窪)
タコシェ(中野)▲
古書ほうろう(千駄木)
古本と肴 マーブル(東陽町)
H.A.Bookstore(蔵前)
古書ますく堂(西池袋)

・それ以外
BOOKNERD(盛岡市)
PEOPLE BOOKSTORE(茨城・つくば市)▲
恵文社一乗寺店(京都市)
blackbird books(大阪・豊中市)
Calo Bookshop & Cafe(大阪市・肥後橋)▲
1003(神戸市)△
451ブックス(岡山・玉野市)
蟲文庫(岡山・倉敷市)▲

◇取り扱い希望のお店のみなさまへ Notice!!
「トラベシア」は取次などを通さない完全独立出版物となります。ありがたくも取り扱いご希望の場合は、suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp までご連絡をお願いします。基本的には7掛けでの買い切りでお願いしております。送料当方負担、もしくは直接搬入で納品します。なお、いわゆる書店様以外での取り扱いも大歓迎です。こちらの意表を突くような業種のお店からのご連絡も、お待ちしております。ご検討用の、内容サンプルもご用意しています。お気軽にお問い合わせください。

◇リリース記念イヴェント Event!!
【終了しました】2018年06月03日(日)11時30分から、渋谷・ラストワルツにて開催。詳細はこちら→☆

告知
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おかあさんのアクション
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

なぜピカソなのか、となんとなくずっと思っていた。成瀬巳喜男監督の映画「おかあさん」(1952)で、パン屋の息子の岡田英次が、香川京子とのデートのためにいそいそと焼いて持って行く、異様な風体の「ピカソパン」。(岡田の期待に反して)香川にくっついてきてしまった子供たちふたりがまず、巨大なシメジの塊のようなその形を見て、「パンのお化け!」「グロパンねえ」と素朴な感想を漏らすのに対して、香川京子は目をウルウルさせながら同じ物体を見つめ、「芸術的ねえ」と嘆息する(fig.1)。岡田は「分かる? 中にクリームと蜜とジャムとソーセージとカレーがだんだんに出てくる仕掛けなんだよ」と解説を加えるのだけど、味のことはひとまずどうでもよろしい。

ピカソパンが、原作(全国児童綴方集=子供の作文集)に出てくるのか、脚本の水木洋子が創作したものなのかは確認していない。近所の図書館には原作本が所蔵されておらず、電車に乗って国立国会図書館まで行く必要がありそうだからだ。しかし、逆方向に向かう電車に乗ったら、ひょんなところでヒント(?)が得られた。

2016年の年末。埼玉県立近代美術館に企画展「日本におけるキュビスム−ピカソ・インパクト」(*1)を見に行ったら、1951年に東京と大阪でピカソ展が開催され、洋画界にとどまらず広く日本の美術全般に衝撃を与えた、と壁に書いてあった(壁に直接ではない)。ところによっては激しい混乱に近いものがもたらされたことは、たとえば、誰がどう見ても「ゲルニカ」を思い出さざるを得ない山本敬輔の「ヒロシマ」(*2)を見れば一目瞭然。もっとも、この絵が描かれたのは1948年だから、ピカソ展のインパクトの例として引き合いに出すのは正しくないのだが、まあいいや。

ところでキュビスムと日本映画といってまず誰もが思い出すのが、マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体 No.2」(1912)(fig.2)が、もしかしたら加藤泰「みな殺しの霊歌」の独特の残像表現になんらかのヒントを与えているかもしれない、というまぎれもない事実だろう。デュシャンがここで試みたのは、時間の経過を平面に固定することだった。おそらく、当時の新興メディアであった映画に触れたときの、「このままじゃ絵画の未来ヤベェ」という焦りも大いにあってのはず。

さらにさかのぼると、デュシャンが参照元としているのはエドワード・マイブリッジの「階段を降りる女性」(*3)。これをいかにも成瀬的なタイトルだと指摘したら、あるいは牽強付会だと嘲笑されるのかもしれない。とはいうものの、連想能力に乏しいそのような読者は、これ以上この文章を読み続けても得るものはなにひとつない。それどころか、2018年現在「階段を降りる裸体 No.2」を収蔵・展示している美術館へと通じる階段は、それ自体がかなりの知名度を持っていることで知られている。「岩だらけの階段」(*4)という名前からして、デュシャン作品の岩石的な質感との象徴的結びつきを強く感じさせるはずだ。

話を戻そう。「おかあさん」でおこなわれているのは、立体物を平面(厳密には違うが)のカンヴァスへと落とし込もうとするデュシャンやピカソの苦闘の歴史を、立体物として再構成し、それを同じく立体物である俳優に持たせ、立体型のキャメラで撮影して、平面の(厳密には違うが)スクリーンへと戻し映す作業だ。こうして書くと、ごく当たり前の映像を生み出すためになんと複雑な過程が踏まれていることか、と感嘆したくなるかもしれないが、それはわざわざ回りくどく書いているからそう思うのであろうだけであって、要は、ピカソ・インパクトが成瀬巳喜男の映画にも及んでいたのではないか、と言いたかっただけだ。

成瀬巳喜男の映画で、本筋とは関係なく唐突に出てくる時事ネタと言えば、ほかには遺作「乱れ雲」(1967)で言及されるケロヨン(司葉子が子供相手に「バハハーイ」と真似をする)が思い出される。1966年11月から日本テレビ系列で放送が開始された「木馬座アワー」内のコーナー「カエルのぼうけん」のキャラクターであるケロヨンは、ビートルズに先駆けて日本武道館公演も敢行した人気者だった。

ほかには、「晩菊」(1954)での望月優子のモンロー・ウォーク(fig.3)……は一応、話に関係ある部分として除外するとしても、成瀬はキャリアの初期においてすでに、明治製菓とのタイアップ映画とも伝えられる「チョコレートガール」(1932)を撮っている。彼にとって、時事風俗ネタはなじみ深いものだったろう。たしか高峰秀子だったかが、不要と感じた台詞をどんどん脚本から削っていく成瀬の仕事ぶりについて書いていたが、そうした過程を経てもなお残ったのが、ピカソパンやケロヨンだったのだ。少なくとも嫌いではなかったはずだ。

いや、むしろ、必要としていた、と言ったほうがいいか。いわずもがなの説明やぼやぼやしたやりとりには線を引いて消し、観客に受けるであろう時事ネタは生かす。その態度からは、最小限の労力で最大限の効果を上げようとする、省エネ型アクション映画作家の姿が見て取れる。

メロドラマの巨匠。女性映画の名手。庶民の生活を活写。などといったおなじみの形容と比べると、成瀬をアクション映画作家と呼ぶのは、やや奇異に響くかもしれないが、この表現は別にわたしの発明ではない。平能哲也は『成瀬巳喜男を観る』で、次のように書いている。

「人物の動きの多さと振り返りのポジション」+「目線の芸」こそが、成瀬映画をアクション映画としている二大要素である。

成瀬映画とは「静かな映画」ではない。真の意味での「アクション映画」、映画の根源的な意味での「モーション・ピクチャー」なのだ。


周知のとおり、成瀬の映画には銃撃戦もカー・チェイスも(たぶんほとんど)ない。そのかわり、自分では持っていたくないなにか(火のついた爆弾とか)を一刻も早く近場の誰かに押し付けようとするようなスリリングな視線のやり取り(*5)や、軽快な人物の出入りがある。チャンバラによってではなく、フィルムの切った貼ったでアクションが生み出されるのだ。

「おかあさん」は、「流れる」や「妻の心」と並んで、成瀬のアクション映画のうちでも最上位に位置するもののひとつだろう。「妻の心」のグルーヴを特徴付ける目まぐるしいほどの人物の出入りは、井手俊郎による脚本の段階で指定されていることが確認できるが(*6)、「おかあさん」のアクションは、ひたすら無駄を省いた編集(笠間秀敏)によってもたらされている(*7)。98分という長さはほかの成瀬作品と比べて長くも短くもないし、目新しいことが起こるでもないのに、一度見始めるともう目が離せない。

もちろん、いわゆるショッキングな描写などといったものは周到に避けられているが、観客の注意を惹きつける、ちょっとしたいたずらのような演出がある。家の前の道が天地逆に映されるショットは、子供の「股のぞき」の視点によるものだ。また、中盤、登場人物たちが劇中で見に行った映画の画面として、スクリーンに唐突に「終」の文字が出現する。こうしたサーヴィス精神は、本作のチーフ助監督を務めた石井輝男や、東宝では岡本喜八に、受け継がれているだろう(*8)。

「おかあさん」の主な舞台となっているのは、おかあさん=田中絹代が切り盛りする家で、映画が始まってすぐ、この家は一家で経営するクリーニング屋の店舗と作業場も兼ねることになる。田中はほぼ家から出ることはなく、そのかわりに、さまざまな人間がこの家を通過していく。

クリーニング屋の顧客や親戚といった一時的な来客。死んで家を出ていく夫(三島雅夫)。一度は療養所に入ったが脱走して戻ってきて、死んで再び家を出ていく長男(片山明彦)。店を手伝いに来て、田中に仕事を仕込んでは去っていく「捕虜のおじさん」(加東大介)。田中の妹の中北千枝子は、母子ふたりでは生活が立ちいかないので息子を田中の家に預けている。夫=息子の父親がいないのは、満州で死んだからだ。田中の次女は親戚の家にもらわれていく。その家の息子は戦争で死んだからだ。語り手である田中の長女=香川京子は、遠からぬうちに岡田英次と結婚して家を出ていくだろう。岡田の兄は戦争に行ったきり戻ってきておらず、母(本間文子)は息子の写真の上にコインを糸で吊るして毎日生死を占っている。人手が失われる日に備えて、クリーニング屋はすでに住み込みの小僧を迎え入れている。

物理的な死体そのものはただの一度も画面に登場することはないが(*9)、「おかあさん」は、ちょっとした犯罪映画にひけをとらないほどの数の死者たちを乗り越えながら進行していく。終盤、おばの中北が参加する美容師のコンテストのモデルとして、香川が花嫁衣裳を身につけ、髪を島田に結い、たまたま店に来た岡田に向かってぺろっと舌を出す(かわいい)。その着替えがおこなわれているのは、彼女の父と兄が死にに帰ってきて、まさにそこで死んだ部屋だ。ここを経由せずには、誰も家の外に出ていくことはできない。

どんな家であれ、ひとがひとり減るのは一大事だが、それでも、足りなくなったところはなんだかんだで埋まってしまう。どうにかなってしまうのだし、どうにかしないとならない。三島雅夫の死んだ日、手伝いに集まった女たち(本間文子、中北千枝子、沢村貞子)は炊事の支度をしながら、次のような会話をかわす。

本間 おたくは?
中北 戦死ですの。
本間 うちの長男も、通知はあったんですけどね。
沢村 うちの主人ったら、焼け死んだんですよ。銀行の宿直室で。残された者のほうが往生しますよ、ねえ、お互いに。
本間 ほんとですよねえ。
中北 カンピョウ足りますかしら。
沢村 足りさしちゃいましょうよ。

この短いシーンで、3人はぼーっと突っ立っていたりただ座っていたりするわけではなく、常に手作業を続けている。うしろには中北の息子が立っていて、ペロペロ・キャンディを絶え間なく舐めている。ホーム・ドラマならぬホーム・アクションと呼びたいこの場面につながっていてもおかしくなさそうな気軽な口調で、隣に座っていたおかあさんが「おとうさんの葬式の予約してきたから」と言った。文脈から察するに「おとうさん」とは、クリーニング屋の店主の三島雅夫ではなくて、ボルネオかどこかで病気になって帰ってきたおかげでそこでは戦死せずそれから数十年生き続けた彼女の父親(すでに何年も死んだままの状態であり続けている)でもなく、わたしのおとうさん(1946〜2018?)のことであるらしかった。おとうさんは3年くらい前に余命半年と言われて、それからまだ、一見したところは元気に生き続けているのだが、しかし、わたしとおかあさんがふたりで出かけているあいだになにが起きるのかわからない、だから万が一の際の処置はわたしの弟に頼み、葬儀についても事前に話をつけておいた、のだそうだ(*10)。

予約の話が出たのは、今年の1月、成田空港の搭乗ゲート近くで機内への案内が始まるのを待っているときだった。それから6日間、わたしとおかあさんは、おおむね数メートル以内の距離を保ったまま、お互いのふだんの居所からは10000kmほど隔たったあたりを移動し続けた。都市のそぞろ歩きやブランド品などには興味がないおかあさんの、雄大な自然を見てみたい、との希望を最大限に取り入れた結果、あろうことか、旅程にはレコード屋のレの字も含まれないことになった(*11)。すべての場所は一度しか通過しなかったし、今後、わたしとおかあさんのいずれかあるいは両方が、そのいずれの場所をも再訪する可能性はきわめて低いはずだ。

移動中、わたしとおかあさんはさまざまな場所で話をした。窓の外にはバイソンの群れが併走するグレイハウンドの車内で。大統領の4つの顔が間近に迫る、山のカフェテリアで。モニュメント・ヴァレーのホテルの、鯨のように巨大なトゥイン・ルームで。アサイヤスの映画に出てきたような、竜の舌の形の雲が伸びる湖畔で(fig.4)。

おかあさんの話した内容のいくつか。中学や高校の同級生とはいまでも定期的に女子会をおこなっていて、60代のころは年金もらえるかとかの話題だったのが、いまでは自身の病気や夫の死のことになった、だとか。若い頃、とんかつ屋の看板娘だったり看護婦だったりした思い出。一時期はギャングの情婦で、ピストルを撃ったこともあると言っていた。そのくせ、ホテルのロビーにあったラフティングのパンフレットを見て、スピード出るものはダメ、怖い、などと弱気な口を利くおかあさん。出征する家族が行進していくのを小走りでえんえんと追いかけて、無事を祈って手を合わせたらあとで怒られた、昔の話。

夜。電気の消えたホテルの部屋で話しかけたら、やけにふがふがした頼りない口調で返事してくるので、まだ睡眠薬をのみ続けているのかと訊ねたら、いやこれは違う、寝ているとき口呼吸にならないようにテープで口をふさいでいるのだ、とふがふがと答えた。昔は70歳を過ぎて歯が丈夫だと、まだそんなに旨いものが食いたいのか意地汚い、などと中傷されたから、その歳になると自分の歯をそのへんのごつごつした質感の岩石に打ち付けて砕き、口調がふがふがになるようにしたものだ、とか。

旅行中のある日、わたしはおかあさんに「沢島忠が死んだよ」と言った。言いながら、ちょうど10年前のやはり1月のある日、日光街道沿いのステーキ宮で向かい合ってごはんを食べていたときのことを思い出していた。10年前のその日、最近はどんな映画を見ているのか、と問われ、まさにフィルムセンターでマキノ雅弘の生誕100周年の特集が開かれている時期だったのでその話をした。それは時代劇? うん。

それに続いておかあさんが、なんの気なしに「沢島忠が好きだったねえ」と言った瞬間が、いまでも忘れられない。誰それさんの結髪が好きで、きれいな結髪を目当てに映画館に通っていた、とも。そういえばおかあさんが、高校の頃に映画同好会みたいなものに所属していた話は聞いた気がする(*12)。わたしは10年間くらい、いろんなひとにいろんな映画の見方について話してもらう(自分ではなにもしない)イヴェントをしていたから、画面内外のどこに注目するかがひとによってまったく違うことを多少は承知している。それにしても、結髪のスタッフ名に着目しているひとがいるとは想像もしなかった。

2008年当時と2018年の現在とでは、日本映画に対するわたしの態度はまったく違っていて、当時は沢島忠の話ならいつまででもできそうな勢いだったから、おかあさん、そういうことは少なくとも20年前に息子に仕込んでおいてくれよ、と思いながらいろいろ話をした。細かい内容は忘れてしまったけど。

おかあさんの若い頃の好みは東映の時代劇で、成瀬巳喜男の映画は見たことがないと言っていた。そこで何年か前、おかあさんが上京した際、ちょうど名画座で上映されていた「流れる」を一緒に見に行ったことがある。おかあさんは途中からうつらうつらしていたし、よくわからなかった、と言っていた。あれは親孝行の名を借りた自己満足に過ぎなかった、といまでは思う。そしておかあさんに対してわたしはまだ、ショットの強度、とか、編集のキレ、とか、そういう言葉をつかうことができずにいる。石坂洋次郎原作の映画に出てくるような親子の間柄であれば、あるいはそうした、ごく普通の日本語でコミュニケイションをとれるのかもしれない。

帰りの飛行機。隣の席に座っていたおかあさんが、イヤフォンのつかい方を訊いてきた。しばらくたってふとモニターを覗き込むと、おかあさんが見ていたのは「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」だった。窓の外には羊の群れのような雲の原っぱが広がっていて、その上に月がのぼっていた。「おかあさん、」とわたしは言った。眠っているのはわかっていたのだけど。

あかあさん、わたしの大好きなおかあさん。
しあわせですか。
わたしはそれが心配です。
あかあさん、わたしの大好きなおかあさん。
いつまでもいつまでも生きてください。
おかあさん!

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*1→ http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=335
「1950年代前半、日本の美術界にピカソは大きな衝撃を与え、その影響は洋画のみならず、日本画から彫刻、工芸といった広いジャンルにまで及びました。多くの作家がキュビスムの手法を取り入れながら、様々な主題の作品を制作しました。」

*2→ 山本敬輔「ヒロシマ」(→☆)。これに先立って、佐藤敬 「水災に就いて」(1939)(→☆)がある。「ゲルニカ」は1937年制作。

*3→ マイブリッジが1887年頃に撮った、階段を降りる女性の作品(着衣およびヌード)としては、"Woman Descending a Stairway and Turning Around""Descending Stairs and Turning Around""Nude Woman Descending Stairs"などがある。

*4→ https://en.wikipedia.org/wiki/Rocky_Steps

*5→ こうしたアクションは、いわゆるジャンルとしての「アクション映画」でも見られるとは限らない。むしろ、三木孝浩のいくつかの作品(「アオハライド」「坂道のアポロン」)で印象的な視線の交わし合いがあることに着目したい。もっとも、印象的に感じられるのは登場頻度が高くないからで、逆に、ある種の成瀬作品ではそれがあまりに自然に多用されているため、一部の観客は、そういう演出がされていることすら気付くことができない。

*6→ 「シナリオ読もうぜ!」#01「生誕百年 井手俊郎を読む」(2010)には、「妻の心」のシナリオが掲載されている。

*7→ とはいえ、東宝で成瀬の助監督を務めた石田勝心は、『成瀬巳喜男を観る』収録のインタヴューで、こう語っている。

「唸るほどうまい編集」とは、繋げば観客が「唸る」ように演出して撮影してあるからと言えます。フィルムに記録されている平凡な演技が、編集で名演に変化する筈はありません。

*8→ 岡本喜八「大学の山賊たち」(1960)には、開巻早々「終」の文字が画面に出るギャグがある。筧正典「妻という名の女たち」(1963)も成瀬アクションの直系作品。

*9→ 葬儀の場面も、片山明彦が入る療養院も、画面には出てこない。省エネ。

*10→ おとうさんの体調のあれこれは別に3年くらい前に突然降ってわいてきた話ではなく、そもそもの発端は20年以上前にさかのぼる。そのうち、そのへんのことを面白おかしく書く機会もあるかもしれない。そういえば昨年の秋、早稲田松竹のラスト1本で「20thセンチュリー・ウーマン」を見て、おかあさんのことを考えながら外に出たら、「おかあさんです。おとうさんが入院しました」という留守電が入っていた。

*11→ ダメもとで、アメーバは見てみたくないか、と提案したところ、ゾウやキリンなどの大型動物のほうが好き、と却下された。

*12→ 先生に引率されて、同好会の仲間と一緒に、調布の日活スタジオや大船の松竹スタジオに見学に行ったことがあるようである。実家の古いアルバムには、「日活スタアの待田京介さんと」と書かれた集合写真がある。

☆参考文献
戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(NHK出版、2012年)
平能哲也『成瀬巳喜男を観る』(ワイズ出版、2005年)
「シナリオ読もうぜ!」#01「生誕百年 井手俊郎を読む」(シナモンズ、2010年)

☆謝辞
Murderous Inkさんに深く感謝します。

映画
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「トラベシア」Vol.3 リリース記念イヴェント「渋谷並木座」Vol.2
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

「トラベシア」Vol.3 リリース記念イヴェント「渋谷並木座」Vol.2

【日時】
2018年06月03日(日)
開場 11:30
開映 12:15
終了 15:00(予定)

【上映】
草野なつか|そこからなにがみえる 現在地(2018年/10分/Blu-ray上映)
草野なつか|王国(あるいはその家について)予告編(2018年/10分/Blu-ray上映)(写真上段 Photo:酖頂攘遏
アラン・ベルリナー|The Sweetest Sound(2001年/57分/日本語字幕付き)断片→☆

【DJ】
DJコテコテ a.k.a. 原田和典(上映前)
miro & nika(上映後)

【会場】
Last Waltz in LOFT
渋谷区渋谷2-12-13八千代ビルB1F
TEL:03-6427-4651
http://lastwaltz.info/

・渋谷駅東口から六本木通りへ。渋谷2丁目交差点すぐ。徒歩約8分。
・表参道駅から青山通りを渋谷方面へ。青山学院大学を左折して六本木通りへ。渋谷2丁目交差点すぐ。徒歩約8分。
・セブンイレブンとすき家のあいだの地下です。

【料金】
大人・予約 1500円
大人・当日 1800円
高校生以下 1000円
(1ドリンク込み/全席自由)
*たぶん前回からPrice Down!!(値下げ)

【予約】
メール(suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp)かツイッターのDM(@out_to_lunch)にて、お名前、人数をお知らせください。当日精算となります。お店のサイトからも予約可能です(→☆)。

【内容】
普通に読める日本語の雑誌「トラベシア」第3号のリリース記念イヴェントです。中短篇映画3本の上映と、DJタイムにて構成されます。上映は、草野なつか監督「そこからなにがみえる 現在地」と「王国(あるいはその家について)予告編」、そしてアラン・ベルリナー監督「The Sweetest Sound」。

草野なつか監督からは、短篇「そこからなにがみえる 現在地」と、公開が待たれる新作「王国(あるいはその家について)」の長めの予告篇をご提供いただきました。

アラン・ベルリナーの名前に聞き覚えのある方は、あるいは多くないかもしれません。2014年の台湾国際ドキュメンタリー映画祭での大規模なレトロスペクティヴの際、監督本人が「わたしの映画は編集の映画だ」と言ってました。今回たぶんジャパン・プレミアとなる「The Sweetest Sound」も、ショットの強度がどうだとか、そういう昨今のシネフィル好みなアレとは対極の、素材をどう並べるか、によってできている作品です。

流れをたどれば、たとえばマイケル・ムーア(元気にしてるかな)。さらにさかのぼれば、サンティアゴ・アルバレス。その先達としては、フランク・キャプラの「ザ・バトル・オブ・チャイナ」がある。つまり、編集の技法を極めることによって真実らしきものに到達する、もしかしたらわたしがいちばん好きな類の映画史。同姓同名をめぐる悲喜こもごもの随想から、現代アメリカの成り立ち、ユダヤ人史にまで話は次々に展開。文字どおり最後の一瞬まで、ぎっしり詰まったサーヴィスをご堪能くださいませ。

映画の前後はDJタイム。もったいなくも上映前、オープニング・タイムをご担当いただくのは、DJコテコテ a.k.a. 原田和典さん。新聞、雑誌など各種媒体で健筆を振るい続けて幾星霜、執筆したライナーノーツは5万枚におよぶとも言われています。上映後のご歓談タイムには、昨年大好評をいただきました兄妹DJティーム、miro & nikaを再びお招きしました(実路くんは今年から中学生です)。お子さまから大人まで、たくさんのみなさまのご来場、心よりお待ちしております。

*「トラベシア」Vol.3の詳細は、いましばらくお待ちください。イヴェント当日までには発行される予定です。

【プロフィール】
〇草野なつか
1985年生まれ、神奈川県大和市出身。映画監督。シアター・カンパニー「マレビトの会」プロジェクトメンバー。2015年長編初監督作『螺旋銀河』が劇場公開。新作『王国(あるいはその家について)』待機中。

〇アラン・ベルリナー
1956年ニューヨーク・ブルックリン生まれ、クウィーンズ育ち。日本では、「親しくも未知なる人」が1993年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されているほか、1999年頃には「知ったこっちゃない」が劇場公開されている。

〇DJコテコテ a.k.a. 原田和典
1970年、北海道旭川市生まれ。ジャズ誌編集長を経て、現在は音楽、映画、演芸など様々なエンタテインメントに関する話題やインタビューを新聞、雑誌、CDライナーノーツ、ウェブ他に執筆している。永野芽郁のファン。 https://twitter.com/KazzHarada

〇miro & nika
小松実路(2005年生まれ)と小松にか(2008年生まれ)による兄妹DJユニット。2013年から、栃木県宇都宮市周辺で活動中。

告知
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家事(あるいは家についてのことについて)
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

フィルムセンターの「発掘された映画たち2018」、内容が発表されたときにはあれも見たいこれも見たい、と興奮したものだけど、考え直して行くのをやめたり、寝坊して行けなかったりして、見たのは結局6プログラム。森紅と服部茂の個人映画、15年ぶりくらいに見た小津の「浮草」(35mmのニュープリント、少し寝た)、「スワノセ・第四世界」(ゲイリー・スナイダーの日本語、さすがにうまい)、望月優子監督の中篇2本(どちらも素晴らしかった)なんかを、シネマヴェーラで開催されていた柳澤寿男特集と行ったり来たりしながら見ていると、自分の持っている「日本映画」の枠が両手で抱えきれないほどに広がっていくようで、こういう瞬間がいちばん楽しい。

最後に見たのが岩佐寿弥の叛軍シリーズ。発掘されて今回がひさしぶりの上映だったらしい「叛軍No.1」「叛軍No.2」「叛軍No.3」のあと、岡田研究員の解説があり、続いて「叛軍No.4」の参考上映という流れ。変わった構成だけれども、岩佐が興味を持っているポイントの移り変わりがダイナミックにあぶり出されるようで、番組構成、解説とも、これでよかった。というか、これがよかった。

たぶん初めて見る「叛軍No.4」、開始早々からぐいぐい引き込まれ、半ば過ぎまでは「やっべ、俺はいままでこれを見ずに日本の戦争映画がどうこうとか言ったり書いたりしていたのか」と冷や汗をかきながら見ていたのだけど、途中(3つのパートに分けるとすればパート2の中盤あたり)から急激に熱が冷め、映画が突然ぶちっと(見たひとは分かるとおり、比喩ではない)終わったころにはなんとなくもやもやとすっきりしない気分になっているという、ここで、そういえば「ねじ式映画 私は女優?」も、なんとなくすっきりともやもやとしない映画だったなと思い出す。

網膜剥離で入院する3週間前の2017年の正月、2016年の映画などを振り返って、こう書いていた。(→☆)

ここ数年、いわゆる「お話」には飽きている、というか、そういうのはある特殊なアメリカ映画がやればいいんじゃないかとなんとなく思っているってのはあります。しかし、そのことと、今回挙げた日本映画の多くがいわゆるドキュメンタリーに分類されることとは、おそらくそれほど直接的には結びついていません。

つまり、お話に飽きたからドキュメンタリーに興味が移りつつあるとか、そういう単純なアレではない。「チリの闘い」はもちろんのこと、「息の跡」も「ディスタンス」も、それぞれ「お話」の映画だと思っていて、語られ方におおいに魅力を感じている、ということなのですが……とはいえ、それに関する自分の気持ちをうまく説明する言葉はまだ見つかっていません。

いま現在でもこの考え方はあまり変わっていなくて、それで、というか、しかし、というか、だのに、というか、どんな接続詞でつないだらいいかよくわからないのだけど、「叛軍No.4」のパート1を見ながら思っていたのは、これは面白い話で、いま自分は話に引き込まれている、しかし(ここは「しかし」でいいと思う)、これに類した話はもうすでにどこかで聞いた気がする、ということだった。そんなことを明確に意識していながら、同時に話に引き込まれるなんて、そんな状態がありうるものかとこれを書いているいまからするとそう疑わざるをえないのだけど、見ながらたしかに、この面白さはどこからやってくるのだろう、細部の展開か、よどみない口調か、などと考えていた。画面はほぼ、黒板の前に立って叛軍体験を話し続ける男のバスト・ショットの長回し、サングラスをかけていて表情はうかがい知れない。

そうなるとどうしても、声色、よどみない流れ、そして話の中身に注目させられることになる。ただしこの男は本題に入る前のあたりで、告白めいた調子で、「いままで叛軍体験を話したことがなかったのは、自分の経験が半分はウソによってむしばまれボロボロになり、残りの半分は真実によってむしばまれボロボロになったと感じているからだ」というようなことを言ってはいなかったか。さきほど(ではないのだけど、正確には)、いわゆる「お話」には飽きている、と書いたのは、映画はもうそろそろ人間から、というか正確には、人間を過大評価することから、離れたほうがいいと思っているからなのだけど、それと同時に(というか、並行して)、映画なんて、ひとりかそれ以上の人間が、ただ適切にしゃべっていればできてしまう、とも思っていて、どちらの例についてもこのブログで複数回採り上げている、というか、ここ数年はほとんどそのどちらかにあてはまる映画についてしか書いていない気がする。

……で、なんの話だったっけ。ああそうだ、こういうことを書くと、現代映画と演劇とのかかわりとかを持ち出すひとがいるかもしれないけれど、いやでも、ハードコアなシネフィルたちが熱心にそういう話をしていたのは、テン年代前半〜中盤にかけてのモードで、その後は、演劇を見てるひとは見てるし見てないひとは見てない、って感じになっちゃってる感じだし、そもそも自分について言うと、結局最初から最後までそういうモードとは無縁のまま、人間の顔を見たり見なかったり、話を聞いたり聞かなかったり、そのときどきで、していたりしていなかったりするのだし、この書き方だと原理上あらゆる映画がどこかにあてはまる。

土曜日に見た「叛軍No.4」がからだの奥にまだ残ってる月曜日、たぶん雨が降っていたので傘をさして、草野なつか「王国(あるいはその家について)」を試写で見る。昨年の夏、みんながそこにいたような気がするある日のポレポレ東中野で小耳にはさんだ話だと4時間だか5時間になるらしいと聞かされ、昨年の秋にどこか遠くで上映されたとき(見てない)には60分とかそんな感じだったような気がするこの映画の、この日の長さは150分だった(当分この長さであり続けるらしい)。映画が伸び縮みするのはよくある話でとくに珍しくもなく、そしていまこう書いてみたのもなんの気なしに、なのだけど、この映画はほかの映画よりもとくに、より容易に伸び縮みしやすい性質を持っているみたいだ。伸び縮みする、といっても映画そのものが自発的に長さを変えるわけではなく、人間がそうするわけだけど、この映画については、映画自身が自在に自分の長さを変えるのだと言われてもなんとなく納得できそうな気さえする。

あまりにできすぎた話だけど、ちょうどこの日の昼間、テリー・ライリーのことを考えていた。考えていた理由についてはあと半年くらいたたないと明かせないしそのころになったらみなさんもう忘れているでしょうが、「王国(あるいはその家について)」はミニマル・ミュージックのように、似たような会話が何度も何度も繰り返され、その度ごとに微妙な変化がもたらされながら少しずつ、少しずつ先に進んでいく。繰り返される理由はすぐわかるので、わたしたちの興味を惹きつけて持続させるのは反復の理由や「構造」などではなくて、反復されている様子、時間、表情だ。だからこの映画の場合、一時的に金のないわたしがいつもそうしているように、見てきた配偶者から「お話」を聞いてそれで見たことにする(たいていの映画は実はそれで充分なのだが)、というわけには、いかない。進んでは不意に、大胆に戻る。あるいは船旅のように、極楽までの距離のように、男女の仲のように遠くて近い。同じようなことを100回繰り返した末に101回目で成功したりやっぱり失敗したり車道に飛び出したりすることをわたしたちは知っている。

ところでいつからわたしたちは、同じ映画を短期間に何度も見て、細かい部分にほどこされた仕掛けに気付くような余計な楽しみを覚えたんだっけ。作り手側もしたり顔で、そうした細部にまでこだわったことを得意げに開陳したりする。「王国(あるいはその家について)」はそうしたくだらない、「現代的な」楽しみ方や、「おかわり」による「気付き」を必要としていない。150分のなかに、反復と前進、反復と前進、ちょっと戻ってまた反復と前進、といった具合にすべてが収まっているので、見直すのはせいぜい2年か3年おきでいい。そうすれば死ぬまでにあと100回近くは見ることができる計算だ。

映画を見ていないあいだにわたしたちは家事(=家についてのこと)をする。100回も同じことを繰り返し、試行錯誤するのすら面倒になった101回目あたりで不意にブレイクスルーが訪れたり訪れなかったりすることをわたしたちは知っている。とてもここまでは届くまいと思った波が101回目でついに砂の城を壊す。まだそのことに気付いていないのであれば、家事を半日ほったらかして「王国(あるいはその家について)」を見ることによってその気付きが得られる。最初からメガ盛りになっているのだからおかわりは必要ない。

映画を見ていないあいだにわたしは特殊な家事(=家でする作業)をしている。同じ映画を少しずつ少しずつ、反復と前進、反復と前進、ちょっと戻ってまた反復と前進、といった具合に見る。見ているうちに英語がしだいに日本語になっていく。100回見ても英語のままだった部分が101回目で不意にブレイクスルーが訪れたり訪れなかったりして日本語になったり、依然として英語のままだったりする。この家事の詳細についてはあと半年くらいたたないと明かせないしそのころになったらみなさんもう忘れているでしょうが、その前におそらくわたしは就職して労働をする。

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