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1964:あるモダニストの死
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
今日のこの記事の件名は、あるちょっとした思い付きにひとつフックを加えて興味を持ってもらおうという、要するにいつもやっている方便。もすこしくだけた言い方で表現するならば、「新春!夢の2本立て」とかそういったものになるはずで、というのは、その思い付きというのが、1964年の日本映画からとりあえず10本を選び出してある断面を示し、それを、「キネマ旬報」認定による同年のベストテンと比較検討してみようというものだから。

「キネマ旬報」の選ぶ1964年度の日本映画のベストテンは、以下のとおり。

1 勅使河原宏「砂の女」
2 小林正樹「怪談」
3 木下恵介「香華」
4 今村昌平「赤い殺意」
5 内田吐夢「飢餓海峡」
6 今井正「越後つついし親不知」
7 山本薩夫「傷だらけの山河」
8 豊田四郎「甘い汗」
9 今井正「仇討」
10 松山善三「われ一粒の麦なれど」

わたしは3と7と9は見てないのだけど、まあ、これはこれで立派というか、ある見識は感じられるというか、そういったリスト。とはいえ、東京でオリンピックが開かれ、ベルリンでエリック・ドルフィーが他界し、イギリスではデイヴィ・グレアムが『フォーク,ブルーズ&ビヨンド』を世に問うた年を代表させるには、ほかならぬその“&ビヨンド”の部分が決定的に欠けているリストなのではないかと指摘することは、圧倒的に正しい。たぶん。

メインストリームのないところにはオルタナティヴもありえないわけなので、キネ旬さんを敬意とともに仰ぎ見つつ、いたんだ果実の香りみたいに強烈に鼻を突く64年の高貴な腐臭を、たとえばこんな10本で代表させてみることもできる。(順不同)

・羽仁進「手をつなぐ子ら」
・加藤泰「車夫遊侠伝 喧嘩辰」
・蔵原惟繕「黒い太陽」
・市川崑「ど根性物語 銭の踊り」
・深作欣二「狼と豚と人間」
・山内鉄也「忍者狩り」
・前田陽一「にっぽんぱらだいす」
・和田嘉訓「自動車泥棒」
・土本典昭「ドキュメント 路上」
・須川栄三「君も出世ができる」

崩壊と拡散。もとより加藤泰がなぜこれなんだとの反論はあるだろうし、この年エロい映画をやたらと撮っていた中平康を無視するのも忍びないし、やたらと撮っていたといえば井上梅次は1年間で5本撮っているし、さらに、もしわたしがピンク映画をきちんと見たならばこのリストは容易に書き換えられるはず。だからこれはいつまでも未完成のままとどまり続けることが望ましい。

そして、なぜ1964年か、ということなんだけど、それについては、わたしはエレキ・ベースの入ったジャズと薄汚いヒッピーが嫌いだ、とだけ言っておけば、わかるひとにはそれで充分のはず。いちばん最後に、この日記をしめくくるべく、この年に亡くなったいかにもなモダニストの名を挙げられれば、と思うのだけど、グル・ダットもコール・ポーターも佐田啓二もピーター・ローレも、帯に短し襷に長しといった感じである。鉞。
映画
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Do Not Adjust Your Set(テレヴィの故障ではありません)
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
たぶんその事件自体はすぐに古くなるだろうし、そして/それに、じきにまた同じような事件が起こるに決まっているからとりたてて個別の問題として考えなくてもいいと思うんだけど、大家族を取り扱ったテレヴィ番組にしばしば登場するらしいとある大家族のお母さんが、実際の家族の姿とは正反対の印象を与えるべく操作された映像が放送された、とブログにて憤っていた。

これについて、たとえば村上賢司は、「大家族もののディレクター、最初からその台本(おそらく構成)を家族に見せておけばよかったのよ。よい意味で「共犯者」になってもらわなくちゃ。自分も現場でどんどん演出するけど、その意図はきちんと取材対象者に伝えるようにしています。」(→☆)、「大切なのはやはりメディアリテラシーだと思います。ドキュは嘘をつく。それを前提として、取材者、取材対象者の利害を計りながら作品(フィクション)を構築しなければ。」(→☆)とつぶやいていて、それはまったくそのとおりだと言うしかない。わたしも、「意見」を求められれば、いくらか似たようなことを言うと思うし。

とはいえ、実際にそのお母さんの筆によるブログを読んだときのわたしの「反応」は、ひでえなあ、なんてことするんだテレヴィの奴、というもので、たとえばいくらか映画を見ているひとであれば、わたしのそのベタな反応を、井上梅次のお手軽ノワール「真赤な恋の物語」で、誰かがひどい仕打ちをされているのを見た吉田輝雄が、「ひでえことしやがる」と思わずなんのひねりもないセリフを口にしたことと比較するかもしれないし、しないかもしれない。テレヴィがそういうことをする、と知ってはいるわたしは、お母さんのブログにそれでもショックを受けてしまい、さらに、誰かが、「この件でショックを受けたという感想を漏らしているひとが多いことにショックを受けた」といった発言をしているのを読んで、またしてもショックを受けてしまう。こうして書いていると、それら一連の心の動きを思い出して、また軽〜くショックである(その発言に対して批判するつもりはまったくないです)。

そういうことをするテレヴィは当然非難されるべきだし(しかし本当に「当然」なのだろうか、ここから考えてみる必要もあると思う……)、言われたことを鵜呑みにしないメディア・リテラシーが必要だとか、いやむしろ人間を信じないひんやりとしたニヒリズム(曽根中生だとかロバート・アルトマンだとかを見れば身につけられるだろう)で武装すべしとか、そもそもテレヴィなんて見なければいいんじゃないの、とか、それら全部ひっくるめてご説ごもっとも。

ただし今回わたしが思ったのは、テレヴィでも何でも、「こんなものは全部ウソに決まってる」と眉間にしわを寄せながら、あるいは冷ややかな目で、ずっと疑ったまま見続けることは、人間としてたぶん相当負荷のかかる行動だろうということだった。わかっていてもつい目の前にあるものを信じてしまう、という心の動きを完全に捨象できるかというと、ちょっとそれはあやしい。目に見えたものをとりあえず一度ぜんぶ真に受けて、だまされてみたい。100回だまされて、そっから始めたい。
雑記
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息子と見る映画日記(3)
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
○月×日

新年になってから、ちょくちょくフィルムセンターの大島渚に連れて行っている。3歳児にはさすがに難しいかとも思うのだが、そういういびつな教育を受けた子供が将来どういう大人になるか、の実験でもある。我が家では、映画に対して「分からない」という感想で片付けることは禁止なので、見終えた後、甘いものを与えながら辛抱強く感想を引き出してみる。ときには映画本篇よりも時間がかかる。

「少年」については、「子供がかわいそう」とのこと。「青春残酷物語」では、やはりあのりんご丸かじりのカットが強烈だったらしく、「もっとおいしそうにたべればいいのに」と言っていた。「戦メリ」に対してはとくに感想はないらしく、ほとほと困った様子。「おまえさんの感想をみんな楽しみにしているんだからさ」とおだてると、たけしについて、「『この野郎!』の言い方がTVに出てるときとおなじだった」と言った。

○月×日

朝、ツイッターを見ていたら、息子が起き出してきた。「今日はみんなどんな話をしているの?」と聞くので、フランスで映画監督が死んだんだよ、と教えてやった。この監督の作品はまだ見せたことがないので、大量のツイートを読み聞かせながら、どんな映画かについてざっと説明したものの、死んだとたんに饒舌になる現象が理解できない様子。「生きているうちにいろいろ言ってあげればいいのに」だそうです(「生きている人に」だったかもしれない。よくきこえなかった)。

○月×日

ふと思いついたので、幼稚園から帰ってきたところをふんづかまえて、キネ旬のベストテンリスト(→☆)を見せてみた。「がいこくえいがのほうが分かる」とのこと。「2位と6位以外はだいたいわかる」そうです。日本映画のほうはといえば、1、7、8は分かるけれどもあとはちょっと、と苦い顔。

なるほど、すべて親の金で見ている幼児とはいえ独自の映画眼はどうしても出てくるものだな、と感心していたが、夜中になって気がついた。彼にとってこのリストは視力検査の表程度の意味しかなく、わかるわからないはつまり、タイトルが判別できるかどうかなのだった。漢字が読めないのだから、日本映画が分が悪いのはやむをえない。

……といったことをぼんやり考えていると、妻が、「ちょっと。途中でやめないでよ」と言った。
映画
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ある映画監督との対話
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
*まず、××時代のことからお伺いしたいのですが。大学を出られて××に入社されたのが19**年。

そうです。入ってはみたものの、上はつかえていていつ監督になれるのか見当もつかぬまま、ヴェテランの助監督たちの頭の悪さ・硬さにヘキエキしながら、何人かの気の合う仲間を見つけてシナリオを書きまくっていました。

*同期というと、N監督やJ監督、それにカメラマンのKさんあたりになりますね。

Nは東大で西洋美術史を専攻していたわけですが、ご存知かどうか、彼は合気道部の副主将でもあったんですよ。彼の作品、とくにヨーロッパでもだいぶウケた「●●の●鳥●」なんて、みなさん深読みしてブリューゲルの影響がどうのとか、フランス留学時代に交流していたF.Z.あたりの思想が入ってるとかいいますがね。むしろ彼の映画は本質的にはアクションだと思っています。「●と●の●●ョー●●」だったかしら、あの、大きな羽をつけた男がメロンを食べるところ。

*スイカです。

そう、スイカだった(笑)。あのあとの魔術的なカット割り、あれは完全に合気道のリズムなんですね。なにが圧倒的に正しいのかということ。つまり、カットなんて割るか割らないかしかないんだから、どちらかというとスイカと同じで、食べられるだけの大きさに分割しなくちゃいけないと。だから実存主義というよりは実在主義なんだなんて言ってました。要するにスイカ割りのリズムなんです。

*そのあたりが、J監督が女優のM.S.や脚本家のF.E.と組んで一時期提唱していた、例の「映画はフィルムである」派の主張につながってくるわけですが。

あの「映フィル」派の主張っていうのも正直、納得しがたいところがいろいろありました。Jも元来は西部劇とチャンバラで育った世代で、だからわたしなんかとバックボーンとしてはとても近いものを持っている。世間では、なんだか政治性とか、あと反核の旗手みたいな扱いになっているけれども……。彼の「●と●〜海●に賭ける●」の、滝から飛び込む繰り返しがあるでしょう。

*あの春・夏・秋・冬の合計4回の飛び込み、悪夢的でした。

Jは当時、やたらと体力がありあまっていたんです。体力というか、精力というかな。撮影所の裏に小さなガケがあって、下が田んぼになっていたんです。刈り入れが終わると、よくそこから飛び降りて遊んでいましたよ。だもので、近所の子供たちの間ではヒーローでした。あの4回の飛び込みシーンみのうち、躊躇せずに飛んでいたのは秋と冬だけだったでしょう。春と夏は巨大なカエルが出現して、飛ぶのを邪魔します。あれは、水田に水が張られているから飛び降りることができないことをあらわしているんですよ。

*そうなんですか! あそこについては、D.W.が安保問題とからめて長文の批評を書いていて、わたしもその解釈に70%くらいは賛成していました。

ああー。あれはJも読んだそうで、感心していました。「そういう見方もあるのか」とね。Jも、究極的にはアクションの人間です。

*脚本家のF.E.とカメラマンのKさんはいとこ同士にあたりますね。K家の先祖をたどると伊達政宗にも通じるとかで。

Kさんは一本立ちしたときからしてすでに厳粛をもって鳴らしていたね。入ったのは同期だけど、あのひとは大学を2回入って2回中退して、それで最終学歴が簿記の専門学校っていうよくわからんひとで(笑)。そんなわけだから数学的な美をおのずから持っています。

*たしかによく画面の中に数字が出てきます。

ほとんど祈りにも似た、厳密な構成が持ち味で、それはレンズが光を通すものであるっていう動かしようのない事実ね、あとはフィルムのもつ物質性。そこに立脚しているんだろうという結論にわたしとしては達しているのです。F.E.の脚本もそうで、彼は実家が伊勢の漁師だから、作品にも海の匂いがするのね。それにどことなく真珠のような光沢がある。彼のホン、紙と鉛筆というきわめてマテリアリスティックな観念が、脳髄という貝殻の中で時間をかけて結晶したものだと考えるのがいちばん正しいはずです。これはわたしは間近で見ていたのでよーく分かる。

*これはお聞きしていいのか分かりませんが、「映フィル」派の分裂の原因となったともいわれる、M.S.とF.Eの関係は結局のところどういったものだったのでしょう。差し支えなければ……

差し支えはあるんですが、世の中、差し支えのあることかないことかどちらかしかないわけだから、もうしゃべってもいいでしょう。要するにM.S.とF.Eは結婚はしていなかったのです。そこにはKさんが関わっていまして、M.S.の家系が、甲賀忍者の子孫らしいんですね。結婚直前にKさんが酔っ払って、「忍者の娘なんぞと結婚するな!」ってF.E.をどついたことがありました。赤坂の中華料理屋、もういまはなくなっている店でのことです。たまたま近くに座っていたM.S.の知り合いがそれを聞いてM.S.にご注進してね。タイミングの悪いことに、そのころ、F.E.が忍者もののホンを書いていました。くのいちがオランダ人と中国人と通じて幕府の転覆を謀る話で、原作はいまヘンなふうに有名になっちゃったS.R.です。ある程度身のこなしがよくって、中国語とオランダ語ができる女優というと、当時はM.S.しかいなかった。まあいまでもなかなかおらんでしょうが。だからM.S.が起用されるのは当たり前だった。しかし彼女はヘソを曲げちゃってね。で、その企画は流れてしまって、なんだかんだで10年くらい寝かされて、めぐりめぐって最終的に「●本沈●」になったわけです。

*ずいぶんめぐるものですね。最終的には映画そのものの肉体性が祈りへと結実するということでdょうか。

はい、要するにカットは割るか割らないかしかなくて、そのやり方によってアクションが生まれるということです。よく体に叩き込んで、がんばってください。

*肝に銘じておきます。今日はいろいろと面白いお話をありがとうございました。
映画
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「映画のポケット」Vol.27「新春放談!渡邊祐介と『新宿馬鹿物語』をめぐる果てしなきおしゃべり」
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
「映画のポケット」Vol.27「新春放談!渡邊祐介と『新宿馬鹿物語』をめぐる果てしなきおしゃべり」

ゲスト:テラオカ ユージ
進行:鈴木並木
2010年01月31日(日)18:00〜20:00
(試合展開により延長の場合あり)
@下北沢・気流舎 [HP]
参加費500円+要1ドリンクオーダー
参加自由/申し込み不要/途中入場・退出自由

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渡邊祐介が監督した「新宿馬鹿物語」は、始終雨が降り続いていてしっとりじめじめした肌触りを持っているフィルムだ。新宿歌舞伎町とその界隈を舞台に、酒場の雇われマスター、愛川欽也と陰のあるバー勤めの女、太地喜和子のまじわりの光景・・・日活ロマンポルノの雄・神代辰巳が半村良の小説をみずからの色に染めながら脚本に綴っている。

このフィルムを果たして劇や形式やギャグが観客に与える効果、という観点からのみ裁断するならば、あまりよくできた映画とは言えないだろう。けれども、このフィルムは、独特な魅力、陽光の氾濫から宵闇に移り変わるほんのつかの間にしか現象しない黄昏時の薄明りのような魅力を宿しているように思われる。では、その魅力はどんな要素から引き起こされているのか?果てしのないおしゃべりの中で「プログラムピクチャー」「松竹喜劇路線」「城戸四郎」「さよならモロッコ」「札無しのババ抜き」などの単語を飛び出させながら、この映画を分解して、解きほどいて、寄り道も本道も判然としない遊歩をいくらか試み続けてゆくなかで、探ってゆけたらと。

1927年に生まれて、1960年に新東宝からデビューした映画監督・渡邊祐介。そのフィルモグラフィーに並ぶ多くの作品がB面的ポジションではあれど、あらゆるジャンルの映画が豊饒に並んでいる。

デビュー作「少女妻・恐るべき16歳」や代表作「二匹の牝犬」をはじめとする女性を主対象に選んだ映画の群れ。俊藤浩慈プロデュースの東映ギャング映画「暗黒街仁義」もあれば、原田芳雄主演の男の怨念のとぐろ巻く松竹アクション、評価の高い「やさぐれ刑事」もある。喜劇においては、「ザ・ドリフターズ」の実に泥臭い連作が有名だが、瀬川昌治脚本による「桃色の超特急」のようなシチュエーションコメディーもあれば、森崎東脚本によるドギツい「日本ゲリラ時代」という<68年>的な怪作もある。坂本九から武田鉄矢に至るまで時の流行歌手との仕事を行い、松本清張の「黒の奔流」を岡田茉莉子と組んで映像化し、また「必殺」シリーズの映画版第一作「必殺仕掛人」を手掛けたのもこの監督だったのである。そこには、余りにも丁寧な職人仕事もあれば粗製濫造のおんぼろ映画もある。

鈴木清順のようなわかりやすいほどの奇形性もなければ、鈴木則文のような高揚感溢れる荒唐無稽もない。石井輝男のような人倫破壊の愉悦への誘いもなければ、中平康のような怜悧な技巧遊戯もない。しかし、それらの作品達は、地味ともいえる鈍くくすんだ輝きを秘めていて、まだ知らぬ誰かに向けてその光を放つことを、フィルム缶の暗闇の中で静かにうずくまりながら待ち続けている。ひそやかに、とてもひそやかに・・・

などとなどと、かく言うワタシも後追いせざるをえぬ世代的限界と身の怠惰によりまして、恥ずかしながら半数程度に満たないフィルムをしかこの瞳の奥深くに焼きつけてはおりません。そこで、つぶやいてみたい言葉はひとこと、そしてこの果てしのないおしゃべりの果て、という語義矛盾的な場所で皆さまがたにつぶやいていただきたい言葉はひとこと、つまりだからやっぱり結局、

「もうちょっと渡邊祐介を、観てみたい!」

てなわけであります。

どうぞヨロシク。

(文/テラオカ ユージ)

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*テラオカ ユージ

1977年に東京で生まれている。
某ギャルバンのDVDの演出や、撮影所システムに従事していた映画人達へのインタビューの発表などを行っている。
現在、ショートムービー「わたしは、もうひどいことしか言いたくない。」を制作している。
いつも、一番映画を観たのは十代の頃で、その時に受けた心的外傷がもとで映画に就いて色々探求せずにはいられない毎日を過ごしている、と述べている。

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新春放談などという、元号が平成にかわってからはめったに聞くこともなくなった言葉のひとつを、ゼロ年代とやらが終わったいまごろになって堂々と掲げるなんていったいどうしたことか、とお思いの方もいらっしゃるでしょうし、とくになんにも感じない方も相当数いらっしゃるでしょうが、昭和の昔、正月とはまだなにかいまよりも特別な時期で、文化人はTVでパイプをふかしながら放談し、両親に連れられて盛り場に赴けば、映画館の前には喜劇○○だの喜劇△△だのとおめでたい看板がずらりと並び、コドモ心に、わざわざ自分で喜劇なんて言ってるからには本当はそんなに面白くないに違いない、と疑いの目を向けたりしていたものでした。

ともあれそうした、頭に喜劇とつけさえすれば「ある愛の詩」だろうが「シャイニング」だろうがなんだって“喜劇”になってしまう暴力性に気付きもしないころに無意識のうちに見てしまっている可能性がなきにしもあらずな渡邊祐介、いまほとんど誰も注目していないであろう渡邊祐介、その全貌に迫るのは単なる物好きなのか、映画史の大胆な書き替えなのか? いずれにしても、今回を逃すと、まとめて出会う機会は未来永劫ないかもしれない渡邊祐介を肴に、ゆるりとした新春放談をお届けします。

(文/鈴木並木)

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☆本篇終了後、近所の居酒屋で呑み会があります。費用は実費。ご参加希望の方は当日お申し出ください。お気軽にどうぞ。
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ロックンロール・ベイビー
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
そのときどきで言ったり言わなかったりしていることなのですが、わたしは映画にはテーマというか思想というか、言葉でひとことで説明できる要素も重要だと思っていて(佐藤忠男の受け売り)、ただしそれは、やはり折に触れて言ったり言わなかったりする「お話はどうでもいい」という主張と、とくに矛盾しているとは思っていません。言葉な部分が重要だということは、俳優や撮影や音楽や編集や照明が重要なのと同じであって、ただし作品の性質や作り手の資質によって、ウェイトの置かれる部分は当然、変化しうるでしょう。

だから、マイケル・ムーアの「キャピタリズム」を、デモ行進のプラカードなだけの映画だろう、と決め付けて見に行かないのは、ちょっともったいない。いや、正確には、プラカードにもそれなりの表現は凝らされるべきだし、むしろ、プラカード映画を作るときこそ、細心の注意が払われなくてはいけないはずで、というのは、単に「面白かった」「つまんなかった」の感想を個々人に持ってもらうだけでは、この映画は意味がないからです。

いままでのムーア作品に興味がなかったり嫌いだったりしていたひとにこそ、今回の「キャピタリズム」の堂々たる映画っぷりをぜひ確認してほしい。という思いで、「INTRO」に寄稿しましたので、お時間のある方はご一読ください。いつもとは逆に、なるべく誤解を招かないような文で書きました。 →☆

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そちらに書かなかったことで、見ていて思った点をいくつか。

1 「キャピタリズム」の冒頭には、R&Rの古典「ルイ・ルイ」の、イギー・ポップによるヴァージョンが使われていて、「Louie louie / Oh baby I gotta go」といった歌詞に字幕で、「ルイ・ルイ/おぉ ベイビー」みたいな訳が出る(記憶にもとづくものです。正確でない可能性あり)。普通に考えれば問題はないわけだけど、こうした、R&R語としての「ベイビー」の日本語訳はいまだに完成していないし、これからも現れることはないのだろうなあと悲しくなった。日本語のロックに、ジェニーやメアリーでなくて茉莉子やルリ子が登場する日を夢見ています。文字通り、赤ちゃんとしての「ベイビー」が出てくる歌詞(→☆)をシナロケのために書いた阿久悠も、この問題についてなにか考えていたんだろうか?

2 ヒゲを剃り落としたマイケル・ムーアは森永卓郎に似ている。ちなみに「キャピタリズム」には森永が監修として関わっている(*)。ムーアの来日の際、誰かこのふたりを対談させようとは思わなかったのだろうか。それともしてる?

3 ムーアが、元GM勤務の父とGMの工場跡地を訪ねるくだりは、「キャピタリズム」でもっとも胸に迫る場面で、ここにはほとんど個人映画の手触りがあった。ジョナス・メカス「リトアニアへの旅の追憶」を思い出しました。

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*→ 森永卓郎が関わっているのは日本で上映される際の版に、ということであって、オリジナルの段階から、ではありません。念のため。
映画
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息子と見る映画日記(2)
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
 ○月×日

早稲田松竹で、小津安二郎「麦秋」「秋日和」。「お早よう」は前に見せたときに気に入っていたようだったので、やはりやんちゃな子供が出てくる「麦秋」もお気に召すかと思って連れてきたのだったが、いくらなんでも行儀が悪すぎる、と憤慨していた。「オヅ監督はときどきようちくさいところがあるから、そういうところはすきじゃない!」んだそうです。「秋日和」の岡田茉莉子にはやはりメロメロになっていたようで、うっとりしていた。血は争えない。

○月×日

早稲田松竹で、山田洋次のリリー3部作一挙上映。さすがに3本はうっとうしいので(わたしが)、「寅次郎相合い傘」と「寅次郎ハイビスカスの花」だけ見た。「相合い傘」のメロンのシーンで大受けしていて、そうなると連れてきた甲斐があろうというもの。浅丘ルリ子が寅さんと結婚してもいい、と漏らすところでは、「『ばくしゅう』と同じだね」と指摘していた。鋭いな。

なお、この日の早稲田松竹のいつもとの客層の差に、なんかちがう、なんかちがう、とおびえたように繰り返しているので、どこがどう違うかきちんと教えてくれないとわかんないなーとしらっぱくれてみたら、少し考えた末に、「におい!」と言ってました。

○月×日

新文芸坐で、オリヴィエ・アサイヤス「夏時間の庭」。「これは『とうきょうものがたり』だよ!」とのこと。そういえばそうかもしれない。

○月×日

新文芸坐で、トム・マッカーシー「扉をたたく人」。終わったあと、線路際の公園のセヴン・イレヴンの前あたりで、息子をジャンベみたいに両足にはさんで彼の頭を叩いていたら、ちょうど併映の「湖のほとりで」を見に来た斎藤ハル先生が通りかかって、恥ずかしい思いをする。ただし、見た映画が面白かったのなら、感想を話しあったり物真似をしたりして自分の中でもう一度再生するべきだ、という信念は恥ずかしいとは思わない。

そのあと、シネマ・アンジェリカに移動して、デイヴ・フライシャー「バッタ君町に行く」で映画〆。息子は途中から、映画そっちのけでなにか考えているようだったが、そういうときに心配したりすると自尊心を傷つけられたと感じて怒り出すことが多い(めんどくさいのよ。このへんは母親似)ので、あえてほうっておいた。帰りの電車の中で、不意に「ふらんく・きゃぷらににてるんだ!」と叫んで得意げな顔をするので、吹き出してしまった。

帰ってきてから、ややぐったりしたようで、お風呂に入らずに眠ってしまった。妻は心配性の気があるので、「知恵熱だろ。映画見て頭使ったから」となだめたが、どうも信用されていない様子。ジャンベごっこの件、息子が密告していないことを祈る。
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石炭
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
いつごろからだったろうか、石炭文化や炭鉱に興味を持ち始めたのは。思い返してみても、個人的な生い立ちやら後天的な趣味趣向やらがぐちゃぐちゃにからみあってうまくときほぐせそうにないのだけど、限られた字数でできるだけ事情をすっきりさせてみよう。まず、わたしの祖父(父方の父)は旭川出身で、とくに炭鉱とは縁のない暮らしをしていたということがまずひとつある。2番目に、わたしがヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメムバーの中でいちばん好きなのはジョン・ケイルで、彼の父はウェールズで炭鉱夫をしていたという噂があったがそれはどうやらガセだったという話。次に、カナダ出身のゲス・フーというバンドが昔いて、彼らがロックを志す前の職業は炭鉱夫ではなくきこりだったそうだ。そして最後に、NYPD(ニューヨーク市警)のアイルランド人はほぼ全員警官であるという事実。これらの理由が重なって、おもに映画の中の石炭表現に惹き付けられるようになった。

そんな、ちょっと特殊な事情で石炭好きになった人間がわたしであればこそ、目黒区美術館の「‘文化’資源としての<炭鉱>展」 [HP] にはさっさと行っておくべきだったが、石炭産業に支えられていた日本があるときからそんなものなどなかったように振る舞い始めたことを個人規模でなぞり直すかのように、しばらくのあいだこの展覧会のことを忘れていて、会期終了間際になってようやく足を運んできた。

会場に入るとまず、枕絵をやっていたともいわれているらしい井上為次郎のなまめかしい絵がいくつか並び、続いて、山本作兵衛の大量の作品に圧倒される。山本は、炭鉱周辺のありとあらゆる事象を、驚異的な記憶力と破壊的な画力でもって紙の上に再現し、さらに絵で足りない部分は手書きの文字で補いまくる。全部を読むことはとてもできないが、なんだろうこの圧迫感、スナック菓子を大量に喰らったような膨満感は。男女混浴あたりまえ、油の浮いたにちゃにちゃとした風呂に入る鉱夫たち。ナメられないように、男たちはみんな刺青を入れていた(後年になって廃れた習俗)。病人のところに狐の大群が人間に化けて見舞いに来て、生皮を剥いで帰っていった(明治20年代に実際にあった話)。

2階に上がるとぐんと美術度が増す。美学校の生徒たち(?)が山本の作品を模写した巨大パネルが壁三面を占める。これなぞそもそも、天井近くのほうに位置した模写の字を読むことは物理的に不可能。木下勘二の、炭鉱夫たちを東方の三賢人のように描いた抽象的な作品に衝撃を受け、中山陽の撮った鉱夫たちの黒光りする肉体になぜかモス・フィルムのロゴの彫刻を思い出し、倉持吉之助のパン・フォーカスな日本画には山口晃を見るのにも似た興奮を覚え、と、およそ思いもつかぬ方向から次々に刺激を受けた。

炭鉱と美術っていうと、マッシヴで重量感のあるリアリズムの油絵や、威勢のいい労働関係のポスターなんかをまず想像するかもしれませんが、そういうものもありつつ、そこに加えてこちらの期待=予想を軽やかに裏切ってくれるいろんな作品が大量に並べられていて、楽しかったです。会期は27日まで。お急ぎください。ちなみに、図録は完売だとか。
雑記
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ゼロ年代ベストテン的なもののつまらなさ
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
ゼロ年代ベストテン的なもののつまらなさは、すべてのベストテン的なもののつまらなさと共通していて、つまりはどうしたって教条主義的にならざるを得ないことだとおもうので、それに対抗して、ゼロ年代の映画10本を極私的に選出。順不同。選考基準は、なにも見ずに思い出せた7、8本、プラス、ひとさまが書いててそういえばそれもあったわ、と気付いた3、4本、マイナス、あふれてしまった1、2本。「ムーラン・ルージュ」「スパイダーマン2」「ニワトリはハダシだ」「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」「レフト・アローン」「blue」「ゴーストワールド」「デス・プルーフ」「子猫をお願い」「宇宙戦争」。めんどくさいので個別のコメントはしませんが「レフト・アローン」だけ1回しか見られてないのが心残り。

−−−

「帰ってきたウルポケ!」、昨日無事終了しました。2匹の怪獣(アズゴンとシゲラ)が時間を大幅に超過して大暴れしてくれました。たいへん意義深くかつ面白く、また、わたしにとっては、ただただ観客として楽しむことができて、よかったです。みなさんありがとうございました。次回は、来年1月31日(日)の開催です。詳細はおいおい発表されることでしょう。それではみなさん、メリークリスマス、よいお年を。
 
映画
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息子と見る映画日記
鈴木並木 すずきなみき(→Profile)
○月×日

地下鉄の飯田橋駅、神楽坂下出口から地上に這い出し、お濠端の見晴らしのいい直線道路に出たところで、突然息子が猛ダッシュし始める。3歳児の脚力にはかなわない。

日仏学院でメルヴィル。「ある道化師の24時間」「マンハッタンの二人の男」。「ある道化師〜」は短篇。無字幕で、貸し出し用のイヤフォンで同時通訳を聞く形式。息子にもイヤフォンをつけてやろうとしたら、「耳がかゆくなるからいい」と拒否、堂々無字幕のまま鑑賞していた。「マンハッタンの二人の男」では、ニューヨークの夜景に敏感に反応しているようだった。メルヴィルはいつ見ても話がわかんねーなーとぼやいてしまったわたしよりも、よっぽど映像派である。

○月×日

某所でスパイク・ジョーンズ「かいじゅうたちのいるところ」親子試写会。開映前のロビーには、かいじゅうたちの着ぐるみさんたちがうろうろ。子供に媚を売ったりするでもなく、缶コーヒーを飲んだりタバコをすったりしているのがいかにもスパイク・ジョーンズらしい(のか?)。せっかくだから触ってこい、と命じて、かいじゅうたちのところに押しやる。わたしも触ってみたが、体毛のやわらかく湿った感じとしっとりとした重量感が、シフォンケーキだかパウンドケーキだか若杉公徳だか、ああいったものを思わせた。

いざ映画が始まると、息子は、さきほどロビーで見たかいじゅうたちと映画の中のそれらとの折り合わせをどう付けたらいいのか分からず、困惑しているようだった。具体的には、ややこわがっていた。

帰宅後、かいじゅうごっこ(寝ているわたしの上めがけて、息子がものすごい勢いでジャンプ&ダイヴ)をせがまれる。ひとしきり応じるが、大人には大人のかいじゅうごっこがあるので、早々に切り上げさせる。

○月×日

どこで聞きつけてきたのか、「イングロリアス・バスターズ」を見たいとせがまれる。あれはR15指定だからあと12年待て、といったら死にそうな顔をしていた。

○月×日

バルト9で、「パブリック・エネミーズ」。さすがに退屈したらしく、途中で小声で、「このひとは何番目にえらいの?」と聞いてくる。ふだんは劇場でのマナーはよいほうなので、珍しい。「あの銀行強盗をするひと? あのひとはしゃかいのてきナンバー1だよ」と教えてあげると、「ちがう、このえいがをつくったひと」とのこと。マイケル・マンはアメリカで何番目くらいに偉いんだろうか? わたしが教えてほしい。

結局、映画の前の、内臓をむき出しにした男がタンバリンを持って踊る映像がいちばんおもしろかったみたい。なんたること。そういえばピクサーのなんだかを見に行ったときも、ロゴというかあのデスクライトのキャラクターに大爆笑していたっけ。

ちなみにわたしは、マリオン・コティヤールの熱演を認めつつも、脱いでないところと、おしっこをもらした描写がおとなしすぎることがやや不満。

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「映画のポケット」、今度の日曜日(20日)に開催です。昨年開催されて伝説となった「ウルポケ!」が帰ってきます。ウルトラなんぞにまったく興味のないスカした映画ファンのあなたにこそ、来ていただきたい。詳細はこちら。
映画
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