Eat Much, Learn Slow (& Don't Ask Why)

calender entry comment trackback category archive link
「映画のポケット」Vol.66「やかんと私〜やかん映画の楽しみ方」
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

☆Vol.66「やかんと私〜やかん映画の楽しみ方」

おはなし:ケロケロみん
助手:ナマニク
進行:鈴木並木

2016年12月17日(土)19時〜21時(延長はなるべくナシの予定)
@阿佐ヶ谷・よるのひるね [HP]
参加費500円+要1オーダー
参加自由/申し込み不要/途中入場・退出自由

☆入場時、鈴木に参加費500円をお支払いください。そのうえでお店の方にフードやドリンクのご注文をお願いします。

−−−

☆ケロケロみん [twitter]
1969年生まれ。サラリーマンでライターの旦那さんと2人暮らしの主婦です。夫婦共通の趣味である映画は意味のわからないSFと一見さんお断りのアメコミと面倒なファンタジーとアニメ以外は何でも見ます。忘れっぽいのでフィルマークスで見た映画を記録。思いがけず映画中にやかんを発見した時は大喜びします。

−−−

2016年最後の「映画のポケット」は、世界的にも数少ないやかん映画ファン、ケロケロみんさんをお迎えいたします。

そもそもやかん映画ってなに? 自分が行っても大丈夫かな、と思われるみなさんが大半というかほぼ全員だと思いますが、安心してください。たぶんそれが普通です。

古今東西の映画に登場する大小さまざま、新旧いろいろのやかんの数々。そのよしあしの見分け方や活躍ぶり、あるいはやかんとの出会いや理想のやかん映画について、たっぷりお話が聞ける見込みです。予備知識なしで足を運んでいただければ、2時間後にはみなさんもやかん映画ファンになっているはず、と確信しております。帰りにやかんをお買い求めになりたい場合、駅前のSEIYUでどうぞ。

なお、当日は、映画ライター/ホラーマエストロのナマニクさん [twitter] に助手を務めていただくことが決定しました。ナマニクさんも素敵なやかん映画をご紹介くださるとのこと。年の瀬のお忙しい時期かとは存じますが、やかん映画で1年を振り返るのもオツなものですよ。しゅんしゅん。(←湯気)

(文/鈴木並木)

−−−

☆本篇終了後、おそらく引き続き同じ場所で、2次会があります。ご都合のつく方はこちらもあわせてご参加、ご歓談ください。費用は実費。

 

告知
comments(0)
-
Why I Want to Write about Cinema / What is Exciting in Asian Cinema Today
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

"Why I Want to Write about Cinema"

What can we do for cinema with words? That's what I'm asking myself when I write about cinema. Words don't reproduce an actress's smile on a piece of paper nor sway the leaves on the trees. Still something can be moved when words are there. Without words, a movie can't be anything other than a movie. It's words that connect a movie with another movie and help it find a proper place in history. And on the top of all of that, it's words that introduce a movie to the audience.

I don't think that only works of criticism should be responsible for this important role. In an age like this, when all information seems revealed and immediately widespread, no critics can have mythical privileges. First of all, not everyone can be a critic nor have to be. Instead, we have various types of words. Big words, little words ("I love it"), tweets, retweets, articles in magazines, phone conversations, even chatter over coffee. No matter how the way or the form is. The more we talk or write about it, the richer the world of cinema gets, both culturally and economically.

Some might say that it leads to nothing but utter chaos. I have to admit it. What I would like to do is to watch this chaos closely and give it an appropriate name. For example, everyone has been noticing that the way to express love for films is getting freer and freer these years. It's partly because someone saw what others did on the internet or something and then decide to go further. It's a sort of a huge-scale collective creation. A friend of mine loved Mad Max: Fury Road so much that she made a scarecrow modeled on Immortan Joe for the scarecrow competition in her town last year. This was direct, humorous, visual, three-dimensional, physical, touchable and touching at the same time. It is an act of love, a re-creation of the film, and I dare say, a work of criticism as well. (She made a Shin Godzilla scarecrow this year)

Originally from a film, it went further where no one would expect it to be. I felt so envious of her scarecrow. I hope what I write to be like that. Also, as I believe that the act of criticism should be collective creation like all the films are so, it ain't necessarily me who does it. Words are to communicate. Writing about cinema, with words, is not only for cinema itself but also for someone who reads it as well.

"What is Exciting in Asian Cinema Today"

It is my regret to inform you that I have never been excited by "Asian Cinema". Although there are so many exciting movies made in Asia, by Asian directors, from Asian countries, in Asian languages, with Asian actors and so on, what is exciting always lies far from brutal generalization.

Asia is so huge that the concept of "Asian Cinema" should be differnt from "European Cinema". But with its cultural and linguistic diversity, the ideal Asian cinema could be without any border like no other cinemas on earth could. And it will shake the concept of Asia itself. There has already been some good examples; In Another Country by Hong Sang-soo, Like Someone in Love by Abbas Kiarostami and Norwegian Wood by Tran Anh Hung to name a few.

As we all can communicate in the language called cinema (with an Asian accent perhaps?), I don't care of the language of a film much. Still, for the love of my own mother tongue, I have vaguely been dreaming of a Japanese-language movie with all non-Japanese cast. It may sound silly but Americans have been doing this for many decades. Why shouldn't we Asians do the same?

*These essays were written for applying for a film criticism workshop.

映画
comments(0)
-
なぜ映画について書こうとするのか/アジア映画の興奮
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

○なぜ映画について書こうとするのか

言葉によって映画のためになにができるだろうか。映画について書くとき、いつもそんなことを考えています。言葉では女優の微笑みを紙の上に再現することも、木の葉を揺らすこともできません。それでも、言葉がそこにあるとき、なにかが動くことはあるような気がします。言葉なしでは、映画はただの映画にすぎません。ひとつの映画をほかの映画と結びつけ、歴史の中にきちんとした居場所を見つけてあげられるのは、言葉です。そしてなによりも、ある映画を観客に届けるのが、言葉の仕事なのです。

単に批評だけがこの重責を担うべきではない、と思います。あらゆる情報が明るみに出され、瞬く間に拡散する現代においては、どんな批評家も神話的な特権を持つことはできません。そもそも、誰もが批評家になれるわけでもなければ、その必要もない。そのかわりに、わたしたちはさまざまな種類の言葉を持っています。おおげさな物言い、さりげない言い方(「これ好きだなあ」)、ツイート、リツイート、雑誌の記事、電話での会話、コーヒーを飲みながらのおしゃべりだっていいのです。どんな形式だってかまわない。わたしたちが話したり書いたりすればするほど、映画の世界は、文化的にも経済的にも、豊かになっていきます。

そんなもん、ただ大混乱を招くだけだと言うひともいるでしょう。たしかにそりゃそうです。わたしがしたいのは、この混乱をよく観察して、正しい名前をつけてやりたいということです。たとえば、みなさまお気づきのとおり、ここ数年、映画への愛を表現するやり方がどんどん自由になってきています。理由のひとつとしては、誰かがやったことを誰かがインターネットかなにかで見て、よっしゃこっちはもっとやったる、と腹をくくるということがあるのでしょう。ある意味で、巨大なスケールの集団創作だと言えます。去年のことですが、わたしの友達で「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が好きすぎて、イモータン・ジョーのかかしを作って町内のかかしコンクールに出品したひとがいました。これは直接的で、ユーモアに満ちていて、目に見える形をしていて、3Dで、物質的で、手で触ることができると同時に琴線に触れてくるものでした。愛の行為であり、映画を作り直すことであり、あえて言うなら、批評でもあります。(ちなみに彼女は、今年のコンクールにはシン・ゴジラを出品しました)

映画から出発して、誰も予期していなかった遠いところまで行ってしまった彼女のかかしを、うらやましく感じました。わたしの書くものも、そんなふうだったらいいなあと思います。また、わたしは、映画が集団による創作物である以上、批評行為もそうあるべきだと信じていますので、必ずしも自分がやらなくてもいいと思っています。言葉はコミュニケーションするためのものです。言葉を使って、映画について書くことは、映画自体のためだけではなく、それを読むひとのための行為でもあるのです。

○アジア映画の興奮

申し上げるのはたいへん心苦しいことながら、「アジア映画」などというものに興奮を覚えたことは一度たりともございません。たしかに、アジアで作られた、アジアの監督たちによる、アジアの言葉を使っている、アジアの役者が演じる、そうした類のたくさんの刺激的な映画があるわけですが、興奮は常に、乱暴な一般化を超えたところにあるものなのです。

アジアはバカでかいので、「アジア映画」の概念は「ヨーロッパ映画」とは異なってくるはずです。とはいうものの、文化的・言語的な幅広さによって、アジア映画は、地球上のどんな映画もなしえなかったようなやりかたで境界を無効化することができることでしょう。そしてそのとき、アジアとはなにか、の概念自体にも揺らぎが生じるものと思われます。すでにわたしたちはいくつかの好例を知っています。ホン・サンス「3人のアンヌ」、アッバス・キアロスタミ「ライク・サムワン・イン・ラブ」、トラン・アン・ユン「ノルウェイの森」など。

わたしたちはみな映画という言葉(いくらかアジア訛りがあるでしょうかね)で話をするわけなので、あるフィルムでどこの言語が使われているかということはあまり気にしていません。それでもなお、自分の母語へは愛着みたいなものがあるもので、わたしはずっと、非日本人ばかりのキャストによる日本語映画、というものをずっと夢見ているのです。バカバカしい考えだと笑われるかもしれませんが、アメリカ人は何十年も同じことをしてきてますよね。だったらアジア人がやっちゃいけないなんてことはないと思っています。

*映画批評ワークショップの応募用に書いた作文。

映画
comments(0)
-
リトル・プレスのつくりかた
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

リトル・プレス「トラベシア」を創刊して、2か月で手元の在庫がほぼゼロになりました。いい機会なので、もろもろの経緯を振り返っておくことにします。目新しい情報はない、いわば大いなる蛇足ですが、これからつくろうとしているひとたちの参考になれば幸いです。

○そもそも

思えば数年前から、映画仲間との呑みの席などで、つまんないライター連中に試写を見せるくらいなら、俺らが見たほうがよくね? みたいな話をしていた気がします。そしてその際、一度雑誌を出してメディアとして認知されると、廃刊になったあともずーっと試写状が送られてくることがある、なんて話も誰かから聞いたような。なるほど。それを聞いたことが直接の創刊のきっかけというわけではないですが、この時点では、硬軟とりまぜた映画批評の雑誌みたいなものを想定していました。

とはいえ、きちんとしたものを作るには金がかかるし、わざわざ作るに足る面白さのものができるのかとの心配もあり。第一、どうしても作らなければ(心が)死んでしまうとかそういうこともなく、また、一緒にがっつりやれる仲間がいるわけでもないので、とくに話が具体化することもありませんでした。

ことが進んだきっかけのひとつは、転職でした。わたしのではなく、妻の。私事ですが、2014年に結婚しまして、その後しばらく新婚生活にかまけてぼんやり暮らしておりました。しかし今年の正月に妻が転職して途端に猛烈な激務になり、夫婦団欒にあてる時間が減って気持ち的にヒマになり、多少なんかやってみよっかな、という気分になり、また年齢的な問題(もうすぐ死ぬ)もあって、だったらあれやってみよっ、みたいな具合に後押しされました。

○準備

2016年3月の下旬、寄稿者のみなさんに原稿依頼をしました。身近なひとには事前に軽く打診したり、知らないひとには人づてに頼んだり、あるいはアドレスを調べていきなり連絡したひともおります。

誰に書いてもらうかを決めて原稿依頼する、というのがわたしの仕事で、事実上、わたしはそれしかやってません。思うに、ものを作るにしても興味のある部分ない部分、譲れるところ譲れないところ、があるものです。わたしの場合、誰に書いてもらうかの判断を他人まかせにする気は一切ありませんでしたが、見た目に関する部分のこだわりはそれほど濃くありませんでしたので、だいぶデザイナーの村松さんにおまかせしています(後述)。

書き手の人選について。当たり前すぎてわざわざ言うまでもないことですが、すでに名前のあるひとたちばかりで固めてハクをつけよう、たくさん売ろう、という発想はまったくありませんでした。わたしは好き嫌いが激しいですし、めちゃくちゃ雑な言い方をするならば、プロだからといって面白いものを書くひとばかりではないと思っていますから、だったら、ここでしかありえない独自性を打ち出そう、と考えました。おそらくお読みになって、このひとたちはいったいいままでどこにいたんだ、と驚かれた方も多いと思うのですが、半数くらいは、こういうことがあったらぜひ頼もう、と頭の片隅にストックしておいた秘蔵っ子のみなさんです。

いわゆるプロの方に何人かお願いしたのは、営業判断と、もちろん自分が読んでみたいのと、半々くらいのところです。有名人ばかりで固める気がないのと同様に、馬の骨ばかりのものを出す気もありませんでした。プロ・アマ混在にしたかった。

お願いしたけれども返事をいただけなかったひとや、多忙でお引き受けいただけなかったひとが何人かいました。とはいえ、メールするくらいなんの手間でもないし、断られても別に恥ずかしくないので、頼みたいひとがいたら、頼んだほうがいいと思います。

あ、それで結局、映画批評の雑誌にはならなかったわけですが、誰に書いてもらいたいかを最優先したら、無理に特定のジャンル雑誌にする必然性がなくなったからに過ぎません。だから公式の?キャッチフレーズを「普通に読める日本語の雑誌」としたのは冗談でも皮肉でもなく、ごく自然な気持ちの発露なのです。

○見た目の問題

執筆者に原稿依頼をおこなった直後、3月下旬に、わたしと村松さん、イラストの畑中さん、そして妻とで初めての打ち合わせを持ちました。創刊号の好評はぱっと見の畑中さんのイラストの印象、そして村松さんのデザインに支えられている部分が大きいと思っています。

最終的にああいうイラストになりましたが、当初のわたしのリクエストは、「森の中で野外上映がおこなわれていて、人間と動物が混ざってそれを見ている感じで。スクリーンには男女の顔が大写しで」みたいなものでした。なんとなく、デフ・スクールの『セカンド・ハネムーン』あたりのイメージだったかな。本当は表紙とウラ表紙がひと続きになった、横サイズの絵を想像しておりましたが、実際に本にするとなるとうまくいかないような気がして、自宅にあるダブル・ジャケットのLPやなんかをいろいろ見たりもしてました。

デザイン全般については、自分は、なんとなくこうなってるのがいいな、くらいの好みはあるものの、あれこれ細かく決めたいという欲望はないことに気付いたため、本文レイアウトその他はまずデザイナーの村松さんにえいやっと丸投げです。なお、当初、デザインを身内に(無料で)お願いすることを考えていた時期もありました。そうしなくてよかったと思っています。

○ギャラ

書き手のみなさまへの原稿料はプロ・アマ問わず、基本的には均一額を設定しました(実際のお支払いの際には若干例外的な事象が発生)。非営利の出版物であると開き直ってギャラを払わない(払えないふりをする)、あるいは有名人枠とみなした一部の書き手にのみ払う、といったやり方もありえますが、ダサいのでそれは不採用で。

額としては雀の涙というか、もちろん無理すればもっと払うことができなくはないのですが、それをしてしまうと今後、続けていくことが難しくなるので、一応いろいろ考えて決めました。

結論から言うと、払わなくて済むほどの親しい間柄の相手だったとしても、払えるならば払ったほうがいいでしょう。頼むときやその後なにか(追加の)お願いをするときの心理的負担が激減します。

職能と総労働量・労働時間を鑑みて、デザイナーさんにはだいぶ多めにお支払いしました。細かい修正や要望を汲んでもらう回数を考えると、当然そうすべきだったと言えます。

○原稿集め

依頼から概ね3か月後を締切に設定しました。頼んでからしばらくは、進め方の方向性の相談がたまにあったりするくらいで、そんなに忙しくありません。この時期に発刊記念イヴェントの準備をしたりしてたんだったかな。

いちばん早いひとの原稿到着は、締切の約2週間前。まだ心がまえができておらず、おっもう来たか、という感じだった記憶があります。所定の締切日までに出していただけたのは、人数としては半数弱だったでしょうか。最後のひとは所定の締切日から5〜6週間遅れだったような……。もちろん、時間の余裕はとってありましたが、若干ヒヤッとしました。

どの程度催促するべきか、していいものなのか、については相手の感じを見つつ、が一般的なんでしょうね。今回は、なだめたりすかしたり泣き落としたりといった手練手管を弄する必要はほぼなかったです。特別な取り立てとしては、若い衆(空手の有段者)を引き連れて書き手の職場に仕事中に予告なく訪問し、紳士的に軽く威嚇したくらいのものです。(←実話です)

○徐々に忙しくなる

原稿が集まるにしたがって、それをどう並べるかを考え始めます。普通であれば、あらかじめ、このひとにはこういう内容で何字(何ページ)、という台割を作り、それに応じて原稿依頼するのでしょうが、今回は(というか次号以降も基本的にはそうすると思いますが)、「テーマは顔。字数はおまかせ」というやり方で原稿を書いてもらったため、どのくらいの長さのどんなものがやってくるのかわからない。おのずと、全員分が出揃うまで並びも全体のページ数も確定しないことになりました。

いくつか揃ってきた時点で、これはだいたいこのへん(前半なのか真ん中なのか後ろのほうなのか)だなと見当を付け、それを肉付けしたり入れ替えたりします。届いた原稿を読み、並びを考えるこの過程がいちばん楽しい。安田さんから届いた時点でこれはトップかラストだな、と思いましたが、渡邉さんのすばらしい原稿をもらって、巻頭はこれしかないだろうと即断しました。

ところで、誰もほめてくれていないようなので自画自賛しますけど、「トラベシア」創刊号の全体の流れやグルーヴ、見事すぎませんか? まったくの私事ですが、20年間趣味でDJをやっている経験がひょんなところで生かされた気がしています。90年代の渋谷系華やかなりし時代、編集(「エディット」とフリガナ)感覚の音楽、みたいな言われ方がしばしばなされていたのを思い出しました。

楽しんでばかりではいられません。もらった原稿をデザイナーに送る→デザイナーが紙面を作る→ゲラのPDFを書き手に戻して修正箇所があればしてもらう、という作業を、ひとによっては数往復、します。表紙のイラストについても同様の工程を踏みます。もちろん途中で誤字・脱字・誤記・文意の不明なところがあった場合にはお伺いを立てて、必要に応じて直してもらいました。

どの程度直すかの問題。単純な誤字、脱字、事実誤認、人名や数字の間違い。これは正しいものに直してもらえば済みます。ひとりひとりの独自の記法、記号の使い方、これらについては全体の統一はとらない、という方針にしました。もっと大きな話で、ある原稿について書いてあることの裏をざっととったら、あれっこれ割と書いてあることと事実とが異なってない? となったものがひとつあったのですが、全体の趣旨にかんがみて、書き手のひとはそういうふうにとらえていたんだろうとみなして、そのままにしました。さらに大きな問題として、意に沿わない原稿が来た場合どうするか。「水準に達していなかった場合は不採用でいいです」みたいな言い方をして提出してきたひとが複数人いましたが、そういう謙遜は不要ですし、わたしに失礼ですよ。よしんば多少つまんない原稿だったとしても俺がなんとかする、なんだったら流れに乗せてごまかして面白く読ませる、くらいの覚悟でこっちはやってますので。(何人かには比較的大きめの修正をお願いしました)

○紙と印刷

紙の選定、印刷所との折衝、入稿、このへんについても村松さんにおまかせしました。ありがとうございました。自分でやるとしたら、印刷所は、「同人誌 印刷」などで検索するといろいろ出てきます。紙のサンプルをタダで送ってくれるところも多いはずなので、それを見て、本文と表紙の紙と加工方法を決めればよいでしょう。

ところで、長期間にわたるやりとりの途中で、何度か村松さんをイラっとさせてしまったことがあったような気がしないでもないです。印刷所への支払い額を村松さんから聞かされて一瞬、うっ、となって反射的に「多少印刷のクウォリティが落ちてもいいので、もっと安いところになりませんかね?」と訊いてしまったことがありました。そしたら「わたしが全部時間と手間をかけて交渉しているし、いまさら変更するのはものすごいエネルギー使うので、無理です」みたいな返事が来ました。

もちろん村松さんは鬼でも悪魔でもなんでもなく、あくまでもプロとしての厳格なコスト意識でもってわたしがお願いした仕事をやってくださいました。一方、わたしはわたしで、事前に自分でいくつかの印刷会社のサイトを見て、ざっとこれくらいかなー、とあくまで適当に、かつ安めに、金額を予想していたもので、その額といざ正式に提示された金額とに数万円規模の開きがあったので驚いてしまった。驚いてしまったこと自体はやむを得ないものの、その驚きには論理的な正当性は皆無であったというわけで、いずれにしても自分の見通しの甘さを知らされたので、以降は借りてきた猫です。

いついつまでに印刷に回さなくてはいけない期限、というのがあります。誰に頼まれたわけでもなく勝手につくっているものなので、空いた時間に少しずつ作業して、できあがったら完成、で本来はよいのですが、今回は、発刊記念のイヴェントをやることにしたので、その日には現物を用意したい、との目標がありました。結果的に誰ひとりとして徹夜などすることなく、イヴェント日の1週間くらい前には手元に完成品が届いていました。

○拡散

できあがったものは売らないといけません。初めてつくったものの場合、いろんなところや著名人などにタダで配って宣伝をしてもらうやり方がありえます。ただしこれはわたしがもっともやりたくないことのひとつだったため、基本的には執筆者とスタッフ以外には、みなさん有料で買っていただいています。

250部つくって、執筆者にはひとり2部ずつ差し上げましたので、実際に販売した部数は200強。だいたいのところ、直売が約40部、通販が約60部、お店に卸した分が約100部、でした。

・直売
当初、直売で100部くらい売れるのではないかとなんとなく思っていました。でも考えてみたら、そんなにたくさん知り合いがいるわけない。執筆者のおひとりである若木さんのイヴェントで売らせてもらったら、10冊売れました。顔見知りも含まれていたとはいえ、このさばけ方はすごい。あとは、持ち歩いていると映画館で知り合いが声をかけてきたりとかです。

・通販
送料無料にしたのもあってか、お気軽にお申込みいただけたのではないかと思っています。他行からの銀行振り込みだと手数料がバカバカしいことになるので、アマゾンギフト券払いもできることにしました。このアイディアはツイッターで誰かが書いていたのを見かけて採用しました。どなたか忘れましたがありがとうございます。ただし、買い手、売り手の双方がアマゾンのアカウントを持っていなくてはならないので、反アマゾン派のひとには不向きですけど。なお、アマゾンギフト券で払ってもらうとアマゾンでしか使えないお金がたまっていくわけで、いや俺そんなに本とかCDとか買わないし、と思うひともいらっしゃるでしょうが、米とか家電とか、いろいろ売ってるのでもて余すことはないと思います。

通販の場合、前述のとおり送料無料なので本体価格だけ入金していただければいいんですけど、カンパの意味で多めに入金してくれた方が何人かいました。これは完全に予想外でして、驚きましたし、ありがたかったです。金に変換しても差し支えない程度の義侠心のあるみなさんは、遠慮せずにどんどんマネしてください。

通販だと、どうしてもわたしに名前と住所を教えざるを得ません。それには抵抗がある、あるいは、買ったことをわたしに知られたくない、といったケースも想定されます。そういうひとのために実店舗での販売はやはり重要かなと思いました。とはいえ、どうしても取扱店は東京中心になるので、地方のみなさまには通販をご利用いただくしかないわけですが。あと、これは少数意見かもしれませんが、「送料無料では心苦しい」と言われたときには驚きました。なお、次号からは送料いただくことにしています。

・店売
置いてくれるお店はせいぜい2、3店舗くらいだろうと思っていましたが、最終的には10店舗様に取り扱っていただきました。ありがとうございます。東京が7か所、あとはつくば、京都、神戸が各1か所ずつ。こちらから積極的に売り込んだのは2か所くらいで、あとは直接、あるいはひとづてに、オファーをいただきました。取引条件はどこも同じで7掛けの買い切りを提示しました。

逆に、こちらから、ここにお願いしたい、と思ったお店何か所かにメールしたうち、返事すらくれないところがいくつか。あと、条件的なアレで交渉決裂っぽい感じになったところがいくつか、ありました。

○反応は薄い

おかげさまで売れ行き自体はけっこう好評でしたが、読んでくださったみなさんの感想があんまり聞けてないので次号、どれくらい刷ったらいいかが見当がつきません。いまからでも遅くないので、なにか言いたいことがあるひとはご意見をお寄せください。

誤字の指摘をいくつかいただきました。たとえば医学論文のグラフの数字が間違っていたら重大ですから指摘すべきですが、「トラベシア」に載っているような類の文章の、なおかつ明らかに見てすぐわかるようなケアレスミス的な誤字は、いちいち指摘してくれなくても、いいです。増刷の際に修正したり、正誤表を入れたりできるわけでもないので。お気持ちはありがたいのですが、次からは、ああ、間違ってるな、と思っても、どうしても世の中のために指摘しなくてはならない場合以外は、胸の中にとどめておいてください。

○会計報告

発刊記念イヴェントのことはまた別にして考えますと、直接経費(印刷代と執筆者、デザイナー、イラストレーターへのギャラ)でちょうど20万円ほどかかりました。ちなみに印刷部数は250部です。これ以上の具体的な内訳を開示すると、誰にいくら払ったのかがわかってしまうので勘弁してください。

通販の発送にかかった分、執筆者のみなさんに送った分、お店に送った分もろもろあわせてかかった送料が約15000円。上記の20万円と合計して、215000円。直接お店に持っていって納品したところもありますがその交通費はとりあえず計算に入れないことにします。

ではどのくらい回収できたか。実売は200部で、店売分が100部=1冊あたり350円で35000円。直売と通販がやはり100部=5万円。あわせて85000円。

創刊号はつまり、215000マイナス85000で、13万円の赤字を出したことになります。あらためて考えると血の気が引く思いがしますが……とはいえ、村松さんにいつだったか、「でも、楽しかったでしょ。有意義な、いいお金の使い方をしたんじゃないの?」みたいなことを言われました。明確に意識はしていなかったけど、言われてみればまったくそのとおりで、異論はありません。

しかしなあ。一応今後も続けるつもりでいるので、毎回10万以上の赤字が出るとなるとしんどい。収支トントンになるのが理想ですが、せめて1回あたりの赤字は3万円くらいにしたい。考えられる手はいくつかあるでしょう。

・印刷費を抑える。
→安い印刷所を使うとか、ページ数を少なくするとかで可能。検討に値する。

・部数を増やす。
→部数を増やすと印刷代が割安になります。とはいえ、たくさん作って余らせてしまうのは怖い。なにかの拍子であとから急に売れたりとか、あるとは思えない。

・値上げする。
→ワンコイン価格は死守したい。問題外。値上げは当分考えぬ。

・通販の送料をもらうことにする。
→これは採用。次号から実費をいただきます。よろしくお願いします。

・執筆者へのギャラを下げる。
→これ以上下げたら恥ずかしい。問題外。

・寄付を募る。
→この程度のことでクラウドファンディングなんかするのは大袈裟すぎて、ダサい。問題外。個人的に支援してくださるものはありがたくいただきます。

・赤字を分担する。
→誰か理念を共有できるひとがいたら分担したいけど、好き勝手にやりたい。いまのところは保留。

さて、どうなりますか。次号の会計報告をお楽しみに。

○これから

飽きないかぎり、年に1回くらいのペースで発行していきたいと考えています。次号の構想も少しずつ固まっています。またしてもプロ・アマ混在で、最強の馬の骨がずらりと並ぶ、そんなものになるのではないかと。

とはいえ、安いギャラでお願いできるのであれば、いわゆる有名人のみなさまの原稿を載せるのはやぶさかでありません。ぜひお願いしてみたいのは、荒川洋治、大江健三郎、ジャン=リュック・ゴダール、壇蜜、吉高由里子、といったひとたちです。ツテのあるみなさまからのご連絡をお待ちしております。

○あなたへ

もしあなたが、ひとりでとか、あるいは仲間数人で、ジン、リトル・プレス、マガ、同人誌、呼び方はなんでもいいんですが、つくろうと思ってるとしたら、いますぐつくったほうがいいです。

経費は抑える気になれば抑えられるでしょう。何人かのグループで作業や費用を分担すれば、ひとりあたりの負担はごく少なくて済むはずです。ツテをたどればひとりやふたり、デザイン関係の仕事をしてるとか学校に行ってるとかで、DTPソフトを使えるひとがいるでしょうし、フリーソフトでもそれなりになんとかなる世の中なはず。とにかくいますぐ始めましょう。相談には応じられますし、ひとの紹介もします。紹介してうまくいくかどうかはあなたしだいですけども。今度、話を聞かせてください。

雑記
comments(0)
-
「映画のポケット」Vol.65「神戸瓢介を探せ! 〜あなたは「スクリーン上の恋人」と如何にして出会うか?〜」
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

☆Vol.65「神戸瓢介を探せ! 〜あなたは「スクリーン上の恋人」と如何にして出会うか?〜」

おはなし:浜野 蟹
進行:鈴木並木

2016年09月18日(日)19時〜21時(延長はなるべくナシの予定)
@阿佐ヶ谷・よるのひるね [HP]
参加費500円+要1オーダー
参加自由/申し込み不要/途中入場・退出自由

☆入場時、鈴木に参加費500円をお支払いください。そのうえでお店の方にフードやドリンクのご注文をお願いします。

−−−

☆浜野 蟹(はまの・かに) [twitter]
1965年、神奈川県出身。会社員。好きな映画会社は、日活と大映。戦後日活の脇役俳優マニア。日活ロマンポルノファン。好きな映画は『誘惑』(1957年/監督:中平康)と、日活版『事件記者』シリーズ全10作(1959年・1960年・1962年/監督:山崎徳次郎)です。(ちなみに今回の主役である神戸瓢介さんはそのどちらにも出演していません。)

−−−

「君は神戸瓢介を知っているか?」と問われても皆さんも困るでしょうが、そこを敢えて問うてみたいのが、ファン心理のやっかいなところです。
大阪出身。落語家を経て俳優の道へ。50年代後半に日活と本数契約し、60年代半ばには主に東映京都の仕事を。1966年の映画出演を最後に、70年代にかけてはテレビドラマを主軸に活躍。
(ドラマ『銭形平次』の準レギュラーである大工の為吉役や、アニメ『ロボタン』(※旧版)のロボタン役の声優としてお馴染みだという方も多いかと。)

そんな神戸瓢介さんの足跡を、生誕85年目にして没後40年目という節目の年の、お誕生日当日(9月18日)に辿ってみたいと思います。
映画俳優時代の話が中心となりますが、ささやかな会ながらも、この才能豊かな俳優さんの魅力の一端が少しでも伝わりますことを。

**********

私自身は神戸さんのファン歴が4年ですが、インタビューなどがあまり残らないこともあり、知り得るのは(当たり前ですが)スクリーンでの姿のみです。
多くの映画ファンの胸中にそれぞれの「銀幕彼氏」や「銀幕彼女」が居たとして、スクリーン上に突如現れ、あなたの人生をふと照らしてくれるあの人たちとは、思えば一体なんなのでしょうか?

『ギターを持った渡り鳥』では金子信雄にマッサージをして、『打倒〈ノック・ダウン〉』では赤木圭一郎に組み伏せられて、『豚と軍艦』では吉村実子を売り飛ばして、『大当り百発百中』では小沢昭一を街中追っかけ回す。
そうかと思えば『集団奉行所破り』では盗賊一味の天気読みとなり、『十兵衛暗殺剣』では大友柳太朗の参謀ともなり、『893愚連隊』では遠藤辰雄の債権を取り立てていた、「あの人」とはいったい誰だったのか?
それをスクリーンの中に、時にスクリーンの外側に、折々に探してきた4年間だった気がします。

またもやの持ち込み企画で恐縮ですが、どなたさまもふらりとお立ち寄りいただければ幸いです。

**********

神戸瓢介 / Movie Walker →☆

(文/浜野 蟹)

−−−

Vol.21「ロマポケ!〜ロマンポルノのある暮らし〜」(2009年06月)、Vol.48「日活野郎(と女たち) 〜戦後日活大部屋俳優傳〜」(2013年06月)に続く、通算3回目の浜野さんのご登場となります。Vol.48のレジュメの衝撃はいまもなお記憶にまばゆいですよね。今回はそのときよりもさらに地味度アップな感じもいたしますが、現時点で言えることは、この回はおそらく、みなさまが予想されているよりも、ほぼ確実に、すごいです。

いらしてくださった方は、神戸瓢介について一夜にして突如詳しくなれること間違いなしであり、そして、浜野さんという稀有な存在についても認識を新たにされるであろう、とも予言しておきます。

(文/鈴木並木)

−−−

☆本篇終了後、おそらく引き続き同じ場所で、2次会があります。ご都合のつく方はこちらもあわせてご参加、ご歓談ください。費用は実費。

映画
comments(0)
-
やつらか俺たちか
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

They can never cross that line when I get to the border.

Richard & Linda Thompson "When I Get To The Border" (→☆


なんだかんだいってもみなさん意外と忙しいんでしょう? だから黒川幸則「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」がどんな映画なのか、ひとことで説明すると、ジャック・リヴェットが撮った「ゴーストバスターズ」みたいな映画ですよ。出てくるオバケ?の親玉みたいなのを演じているのは只石博紀だから、もしかしたら化けて出たのは成仏しきれていない「季節の記憶(仮)」なのかもしれない。そういわれてみれば「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」にはどこかしらキネアティック感があるし、同時に、あるいは逆に、「季節の記憶(仮)」がケイズ・シネマでレイト・ロードショウされているところを想像もした。いまからでも遅くはないじゃないか。

なにをしているのかよくわからぬ登場人物たちが、一軒家に住まって昼となく夜となくダラダラと呑んでいる。そりゃわたしだって、昼間っからゴロゴロしたり、そこらで会ったひとと突発的に飲みに行ったり、その結果として瞬間的に村村、じゃなかった、ムラムラしたり、長靴履いて水の中にザブザブ入っていったり、したいに決まってる。でもどうも実生活の中で出会う、そういうことをしてそうなひとたちは、ほぼ漏れなくヒッピーくさかったり、バックパッカーくずれだったり(そういう文脈で発せられる、旅人、なる単語の身の毛のよだつ感じ)、レゲエ臭がしたりして、端的に、生理的に無理なんだ。

でもどうしたわけか、「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」からはそんな異臭はただよってこない。あまりにもささやかだけれども、だからまだなんの確信も持てずにいるけれど、もしかしたらここに描かれているのは、日本映画がいまだかつて描いたことのない類の自由のありかたなんじゃないだろうか。たとえばそうだな……わたせせいぞうが描く「次郎長三国志」みたいな。もちろん、あなたがきっとそうであるだろうのと同様に、わたしも、自由に憧れ、と同時に、それを警戒してもいる。この映画のチラシを見て、脚本家や出演者のうちの主要な何人かが、映画専門のひとたちではなくてミュージシァンやダンサーであることにちょっと身構えてしまうひともいるだろう。そりゃそうだよ、っていうか、ダンサーのひとたちにはすみませんだけど、「職業:ダンサー」って、えっ踊るのが仕事、ほんとに?って思うじゃないですか。

まあそんなことはさておくとして、あっあとケイズ・シネマのサイトに載ってる、連日の上映後のトークに出る顔ぶれを見て、あーそういう系ね、とわかった気になるのはもったいないですよ。と、比較的得体の知れない現代日本映画について書こうとするとついついいつもいつも、これこれこういう不安をあなたは持つかもしれないが大丈夫、心配ない、不安はたったいま魔法のように取り除かれました!式の、いわばカウンセリング=批評っぽい書き方を保険のように採用することになってしまう。でもほら、ヴォワラ、あなたの不安はたったいま、魔法のように取り除かれたから、もうこれ以上ないほど自由なはず。「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」、見に行って大丈夫。こわくない。

2年前の夏に撮られたらしいこの映画、三多摩の夏の緑の深さ、濃さがとにかくすばらしい。これはわたしだけだろうけど、最近もう人間の芝居に半分絶望していて、とくに毎日こう光が強く射す中だと、立っている木でも見てたほうがはるかに豊かな気持ちになれるしたくさんの情報も得られる、なんてそんな功利主義な考えになってしまうんだけど、いや違うな、映画が人間のことにばかりかかずらわいすぎているのがイヤだってだけのこと。撮ろうと思えば、人間が緑の中にごく当たり前に呑み込まれ、うずもれているところだって撮れる。だからほら、ヴォワラ、たとえばこの映画の、離れた男と女がスケボーを蹴ってパスし合う引きのショットの、ふたりのあいだの奥で大胆にぐらんぐらん揺れる木々を見てごらん。あるいは、長靴を履いた男女数人が沼なのか川なのかわからぬ水の中に入っていくところ。拡散した人物の配置と背景の雲、まったく惚れ惚れする構図なんだけど、その人間たちがたどり着く向こう岸の草深い場所、その背後のこんもりとした林が、一瞬ほとんど真っ黒な、海苔をべたっと貼り付けたみたいな色なのには、実際ぎょっとするじゃないか。撮影は渡邉寿岳。

と、ここまで読んでもたぶんどんな映画かよくわからないと思うんだけど、わたしが見て理解したかぎりだと、トゥアー中に仲間の車から路上になんとなく振り落とされたひとりのバンドマンが、鈴木卓爾がなんとなく大家みたいに振る舞っている一軒家に居着くことになり、そこにいる者たちはなんとなくの業務として、この緑深い町?村?で、異世界?あの世?からこちらにちょっかいを出してきているとある勢力と、それとなく対峙したり、それを警戒したりそれを退治したり、しているらしい。って、これであってる?

自分で書いたこのアウトラインを眺めると、なんじゃこりゃ、あらすじを聞いたらこれって自分が鼻で笑って打ち捨てる類の「ファンタジー」映画じゃん、って思うし、あっなるほど、お盆に見るのにぴったりの映画、とも思う。大人になったら大人ならではの夏休みの過ごし方ってぇのがあって、うっかり危うい境界線を越えてしまってもかまわないんだったら、それはそれで案外悪くない。どこかからどこかに行くのを図示するためというよりは、ただそういう場所を歩いているのをわたしたちに見せたいがために、登場人物たちは森と宅地の接しているあたりを歩き、坂を上る。

夏の水辺で事故が起こりやすいのは新聞やテレヴィの報道からもあきらかで、この映画でも、男も女もなんらかの形で水の事故を経験しているようだ。以前川に落ちただが落ちかかっただかした女は、一緒に川に落ちただか落ちかかっただかした友達に電話をかける。こっちがこっちで電話の先があっちなのか、あるいはその逆で、あっちがこっちでわたしたちに見えているこっちが実は向こうから見たらあっちなのか。バンドマンが、彼をおいてトゥアーを続行しているらしいマネージャーと電話で話すときには、わざわざ苦労して川の向こう岸まで渡っている。ということは、いまいるこちら側は?? 夏でもパーカーを着ていたような気がする只石博紀がラップをしながら姿を消すのはやはり川原の草の中へだ。ただし逃げおおせることができず、「シン・ゴジラ」もびっくりの形態的変化をとげて捕獲され、それでも悪態をつき続ける様子は、単純に、楽しい。

決定的な越境は、電車に乗って男と女が長宗我部陽子に会いに行く途中に起こった気がしていて、車窓には凶暴な色味の景色が広がり、どうも日本ではないところも通ったように見えたんだけど、でもたどり着いたのは普通の家。いやでも、その晩おなじ敷地に泊まった気がする男と女は、しかし窓越しに、数十〜数百立方メートルの空気によってへだてられた状態でしか会話することができない。

書いてたらなんかさびしくなってきた。やっぱ、みんな死んでんのかな。でも自分には、ここにいるひとたちの顔も姿かたちも動作もセリフのやり取りも、みんな、これ以上ない生の肯定に見えたんだよね。ってことはあれか! 死んでるのはこっちの俺たちじゃなくて、あっち側にいる、やつらのほうなんじゃないのか?

-------

「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」は08月19日(金)まで、ケイズ・シネマでレイト公開中。本作で撮影を務めた渡邉寿岳の監督作品「かつて明日が」が上映されるわたし主催のイヴェント「初台並木座 Vol.1」(→☆)は08月16日(火)開催です。ただいま予約受付中。残席僅少です。

映画
comments(0)
-
言わずもがな
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)
ペットボトル飲料を買うことすら自らに禁じて空のボトルに水道水を入れて毎日会社に持っていくような倹約生活を送っているわたしですが、よりによってこのたび、貴重な私財をなげうって雑誌「トラベシア」を創刊しました。オフィシャルなご案内はこちら(→☆)。

事情というか理由はいろいろと複合的なんですが、ひとことで言うと、もうガマンの限界なんです。わたしは、義憤に駆られてなにかを始めるとたいていはロクな結果を招かない、と考えている人間でして、そういう人間がことを起こすのはよくよくの事態なのだと思っていただいてけっこうです。

たとえば、ツイッターで「○○(←媒体名)で△△について書きました!」などという投稿を見かけ、なにしろワン・クリックなもんですから、どれどれと気軽な気持ちで読みに行って、センスもグルーヴのかけらもない文章にげんなりしてすぐ読むのをやめてしまう、なんてことがあまりにも続きすぎた。

あるいは、大学でマジメに勉強だけしたようなひとの書いたもの。いいよ、たかだか数百字の文章で「本稿は○○について論じようとするが、その前提として云々かんぬん」だとかの型にはまった前置きは。そういうのはどこかよそでやってくれ。

つまらない文章の書き手に限ってしばしば筆欲が旺盛で、気がつくとしょっちゅう「○○で△△について書きました!」「○○で△△について書きました!」「○○で△△について書きました!」となどとつぶやいていなさる。わたしもいい加減もの覚えが悪いもんで、そのたびごとにうっかりクリックしてしまって、いちいち毎度律儀にムカッ腹を立ててしまうわけです。

そうこうしているうちに。俺だったら絶対にこんな奴らに機会など与えなどしない。さっさと田舎へ帰れ。いまはなにもしていないかもしれない俺の身の周りの連中や、俺が目をつけさせていただいているみなさまのほうが明らかに面白いはずだ。という気持ちがふつふつと湧き上がってくるのも理の当然。

わたしがこれぞ、と思うひとたちの書いたものを集めて形にしたら、つまらない連中を軽々と駆逐できるだろう。そしてあわよくば、音頭をとっただけの自分も、実質的にはなにもしていなくても、♪意っ外と簡単に〜、評価を得られるのではないか。だとしたらすばらしい。それに世の中のためでもある。よし、やろう。

ところでもうわたしはいい歳であり、こうしたものは5年10年前に出しておくべきだったという気持ちも、ないではないです。しかし、10年前にはこれだけの金を優雅な手つきで使う精神的余裕はなかったし、5年前でも、今回参加してもらったひとの約半数にはまだ出会っていなかった。だからいまでよかったんでしょう。

いい歳といえば、いいかげんもう中年なので、杉並区の区民センターのリソグラフで印刷したものを1枚1枚折って重ねて巨大なホチキスで製本するのは、さすがにしんどい。印刷所に出そう。となると金がかかる。金を出すからには、自分が納得するようなやりかたをしたい。

どーせそこらのリトル・プレスなんて、友達だとか多少知名度のあるひとにコネで原稿を頼んで、タダで原稿を集めてるんでしょ、みたいな偏見がある。それはダサいから、原稿料出そう。プロ/アマ問わず全員に、基本的には均一で。民主主義やっちゃおう。

さらに、どーせそこらのリトル・プレスなんて、印刷代その他の諸費用総計(打ち上げの費用も含む)を部数で割って、売価を決めてんでしょ、みたいな偏見がある。それはダサすぎる。40ページで800円とか誰が買うんだよ。しかもそのうち10ページはなにが写ってるのかよくわからない写真が載ってるページで。いや、誰かは買うかもしれないが、自分ならぜったい買わない。売価は500円にしよう。本当は100円か200円くらいにしたいところだけど、それだといくらなんでも赤字が多くなりすぎる。ケチな自分が500円でいいやと決めたんだから、普通の経済観念を持ったひとであればみんな喜んで買ってくれるに違いない。

ちなみに創刊号は250部印刷して、印刷代と各種ギャラの合計で20万円強かかっている。内訳を開示してもいいんだけど、それだと各人の原稿料が推定されてしまうのでここまでにしておきますが。

必然的に、全部売り切ったとしても10万円くらい赤字になってしまう。つくりながら、何人かには「インディペンデントできちんと原稿料出すのはすごいですね!」と言われ、えへんと思いつつも、とはいえ別にひとりに何万円も払ってるわけではなく、自分としても文化的で最低限度の金額を払っているだけなんですが、それにしても思ったより金がかかってしまった。気持ちだけは(没落)貴族のつもりで、と念仏のように唱えながら作業していたものの、こんなことを続けていたら本当に没落してしまう。

次号以降はギャラ以外のところを節約しないといけない。とりあえず打ち合わせの行き帰りにタクシーを使ったり、ほいほいシャトー・オー・ブリオンを開けたりするのはやめにしよう。せいぜい、ダイキリを飲みながら、サルサで踊るのが正しい。

それにしてもリトル・プレスのみなさん、あなたたちっておおむね原稿料払ってないんですよね? 払ってたら続けられないもん。じゃなければ、実家が金持ちか。もしきちんと払ってたり、払わなくても問題ない人間関係をきちんとお築きなされてたらすみません。

こうしたあれこれをいちいち言うのもどうかと思うんですが、最初に書いたように、いろいろガマンしているのがバカバカしくなったんです。考えてみたら別にどこかになにかしがらみがあるわけでもなし、もう余生だから好き勝手やることにしました。とにかく、個々のお名前は挙げませんが、プロ/アマ問わず、わたしをいまも苛立たせ続けてくれているダサいひとたちや、自分ではそうと気付かずつまらない文章を得意気に書いてなさる諸氏、あなたがたには心からお礼を申し上げたい。みなさんのおかげでわたしはこれをつくることができました。

そんなわけで、一見そうは見えなかったとしても、というかそう見えないようにつくりましたが、「トラベシア」は怒りと渇きと名誉欲とルサンチマンの産物です。しかしもちろん、ネガティヴな感情だけが生きる原動力だなんてそんなつまらない人生はまっぴらごめんだ。忿懣によって突き動かされるのと同時に、手元に届いたすばらしい原稿を何度も何度も繰り返し読んでいるうちに、生来の隠しがたい謙虚さが自然と頭をもたげてもきました。要するに、あなたやわたしがそうであるように、ときには笑いときには激怒し、ある程度の複雑さを備えたものになってはいるはずです。

と同時に、申し訳ないですが、わたしがつくったものですから、読んでくださった方の人間性を無意味に試すような箇所も、盛り込んであります。わたしに文責がある部分は、ほとんどすべて「ひっかけ問題」だと思っていただいたほうがいいかもしれません。気付かなかったらそれはそれで差し支えないので、そのままふむふむと読んでください。

これからの展開としては、まず都内のいくつかのインディペンデント系の書店に置いてもらえるよう打診していくつもりです。通販、手売りもやってますし、文フリにも「ビンダー」のところに委託で出すかもしれない。秋には毎年恒例の関西旅行をすると思うので、ついでにそれを納品ツアーにしちゃえとも構想中。その他の地方での取り扱いはいまのところ考えていませんが、自薦・他薦でおもしろそうなお店があったらお願いしてみたい。

そのほかなんでも、「トラベシア」を読んで、執筆者のみなさまやわたしになにか頼んでみたいとか、あるいは単に感想が言いたいとか、花束贈りたいとかあったら、わたし経由でもご本人たちに直接にでもいいので、お気軽に連絡いただけたら嬉しいです。あと、クラウドファンディングとかはしないので、次号に向けてのカンパ(米、現金など)はわたしまでどうぞ。お待ちしております。と、なんか最後は穏当な感じで〆てみます。
雑記
comments(0)
-
リトル・プレス「トラベシア」創刊のお知らせ
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

通販の受付は終了いたしました。どうもありがとうございました。実店舗、および実店舗のWebショップではまだ在庫があるところもあるかと思いますので、そちらでお求めください。(取扱店の一覧は下のほうに載ってます)

普通に読める日本語の雑誌|トラベシア|Vol.1|顔

2016年08月16日発行|250部
A5判|72ページ
500円

青木深|横顔の影に――ナバホの父の記憶
阿久津隆|夜
草野なつか|偶像崇拝
佐藤柿杵|顔についての私について
鈴木並木|仁義の誕生
田口真希|水晶礼賛/映画のねつ造
樽本周馬|キューカーの百面相
寺岡裕治|数日間映画みてある記、そしてそのときに気になった顔々+追悼。
畑中宇惟|表紙のイラストを描きながら考えていたこと
深堀骨|ミユキと俺とルドルフと
牧野大輔|マコヴェツキーをみれば、ロシア映画がわかる
真付巳鈴|赤い制服の後継
豆田妙子|ラジオ・デイズ
三木直人|クリント・イーストウッド試論――「担ぎ屋」の横顔
安田謙一|「ス、ス、ススーディオ」
若木康輔|君はブスを見たか 〜銀幕の美女、隅っこの醜女〜
渡邉寿岳|陽待ち

イラスト・ロゴ原案|畑中宇惟
デザイン|村松道代
編集・発行|鈴木並木

◇「トラベシア」創刊にあたって|鈴木並木

自分の好みが偏ってるのか、読解能力が低すぎるのか、はたまた加齢にともなう感覚の硬直なのかはわかりませんが、世間一般でよいものとされている文章を読んでも、なんとも思わないことがここ数年増えてきました。

それと比例(反比例?)して、あれっ、これだったら自分の周りの誰それのほうが面白いんじゃないの? と感じる機会も多くなってきています。少しずつ蓄積してきたそうした思いが、コップのフチからあふれてできたのが「トラベシア」です。

目標はごくささやかなものです。普通に読める日本語が読みたい。できればそのひとならではの芸のあるやつを。エヴィデンスよりも思考のブレを。データよりも笑いを。寄り道と過剰さを。わたしたちを取り囲む窮屈さに少しでも抵抗してみたい。

創刊号のテーマは「顔」。直球で勝負してくるひとがいれば、平気でお題を無視するひともいて、フィクションあり評論あり、長いの短いの、著名人から一般人まで、いい具合にヴァラエティに富んだ1冊になりました。カストリ雑誌の歴史にならって、少なくとも年に1号、通算3号までは発行し続けたいと思っています。普通に読める日本語の雑誌「トラベシア」。テン年代後半の、みなさまの甘酸っぱい思い出のおともに。メローな週末のベッドサイドのアクセントに。どうぞお見知りおき、お買い上げのほどを。

◇購入方法

○通販
日本国内でしたら送料無料で郵送します。国外は送料実費で対応します。ご住所、お名前、冊数、ご希望のお支払い方法を、メール(suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp)またはツイッターのDM(@out_to_lunch)でお知らせください。折り返し、手続きについてご案内します。→通販の受付は終了いたしました。どうもありがとうございました。

支払い方法は下記からお選びください。前払いでお願いします。
・三菱東京UFJ銀行口座への振込み
・みずほ銀行口座への振込み
・Amazonギフト券(メールタイプ)←Amazonのアカウントお持ちでしたら、手数料かからず支払いできます。三菱東京UFJ、みずほ以外をご使用の方は、これが便利だと思います。

○実店舗での購入
以下のお店に納品済みです(2016/9/7現在の情報)。在庫の有無は各店舗様にお問い合わせください。
・フヅクエ(初台)
・古書往来座(南池袋)
・忘日舎(西荻窪)
・恵文社一乗寺店(京都)
・1003(神戸)
・音羽館(西荻窪)
・Title(荻窪)
・B & B(下北沢)
・H.A.Bookstore(蔵前)
・PEOPLE BOOKSTORE(つくば)
今後、非常にゆっくりとしたペースで取扱店様が増えていくことが予想されます。それまでは通販、もしくはわたしからの手売りでお買い求めください。

○直販
ツイッターで映画を見に行く予定をつぶやいたりするかもしれません。なるべく持ち歩いているつもりなので、見かけたら声かけてくださってけっこうです。

◇お店のみなさまへ

「トラベシア」は取次などを通さない完全独立出版物となります。ありがたくも取り扱いご希望の場合は、suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp までご連絡をお願いします。基本的には7掛けでの買い切りでお願いしております。送料当方負担、もしくは直接搬入で納品します。なお、書店様以外での取り扱いも大歓迎です。こちらの意表を突くような業種のお店からのご連絡も、お待ちしております。

告知
comments(0)
-
初台並木座 Vol.1
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

申し訳ございませんが、このたび、今後できるかぎり好き勝手にやらせていただくことにしました。つきましてはまず、「初台並木座」と銘打って、渡邉寿岳監督作品「かつて明日が」の上映+αのイヴェントをおこないます。ちょっとしたものをご飲食いただきながら、軽妙なトークと映像をお楽しみいただく趣向です。

◇日付
2016年08月16日(火)18時30分オープン/19時スタート/22時クローズ

◇会場
初台フヅクエ(→☆)(渋谷区初台1-38-10 二名ビル2F)/もったいぶって限定約15席/要予約

◇進行
18時30分 開場
19時00分 トーク:渡邉寿岳×鈴木並木(30分)
19時40分 上映1:渡邉寿岳「かつて明日が」(2008/39分/DVD)
20時30分 上映2:おまけ映像(けっこう昔/90分/DVD/ロシア語音声・英語字幕つき・日本語字幕なし)(予定)
22時00分 解散

◇料金
1000円(1ドリンク&1ケーキつき)/当日払いのみ
*ケーキは、プチデザートなどと呼ばれたりする、小指の先ほどのサイズのものではありません。通常サイズです。

◇予約方法
08月04日(木)22時から、以下のいずれかの方法で受け付けます。それ以前の連絡は無効です(質問は受け付けます)。どちらか都合のいいほうでお申し込みください。

・メール suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp
・ツイッターのDM @out_to_lunch(どなた様でも送れます)

名前(偽名でも可)と人数をお知らせください。折り返しの連絡をもって予約受付完了となります。満席になった場合はその旨返信いたします。料金は当日入場時にお支払いください。キャンセルする場合はお早めに連絡ください。

予約で満席になった場合、基本的には当日券は出ませんが、当日にならないと予定がわからない方もいらっしゃるでしょうし、また、無断でキャンセルする方もいらっしゃるでしょうから、開場時間あたりにお店に来ると、入れるかもしれません。当日券についてのアナウンスは当日するかもしれないし、しないかもしれません。

◇おことわり
会場は映画上映用の施設ではないため、防光・防音は完全ではありません。一応工夫はしますが、場所によってはスクリーンが見づらい場合があります。あらかじめご了承ください。

そういう状況下であるからこそ、背筋をピンと伸ばした、いわゆる「座高バカ」状態で鑑賞することを禁じます。当日上映前にも注意します。

すべてのお問い合わせは主催者であるわたし、鈴木並木までお願いします(フヅクエへではなく)。

------

◇上映作品について

・渡邉寿岳(わたなべ・やすたか)
福島県出身。撮影技師。撮影担当作品に『いさなとり』(藤川史人監督)、『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則監督)がある。梅田哲也、小林耕平ら美術家との共作多数。監督作として『かつて明日が』『時間のそこ』がある。

今回もったいなくも上映させていただく「かつて明日が」は、渡邉さんの武蔵野美術大学における卒業制作でありまして、都内では約4年半ぶりのお目見えとなります。劇映画「いさなとり」「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」、テニスコーツなどのライヴ映像、現代美術作家とのコラボ映像などなど、さまざまな分野の映像を手がける渡邉さんの若き日の輝きがぎっしり詰まった、めちゃくちゃかっこいい映画だと思っています。(→予告編

本作品に寄せられた絶賛の一部を下記に紹介します。

○赤坂太輔
渡邉寿岳『かつて明日が』これは誰もとらえようとしなかった、何かが始まりそうになる「予兆」をとらえた繊細な映像だ。ほとんど後ろ姿か横顔のみで、窓や入り口から音や声が聞こえてきて、何かが始まりそうになるけれど背を向けて帰ってしまう人々と場所。(→☆

○古谷利裕
(…)いくつかの場面では、息をのむような、というか、こちらの気持ちがかき立てられるような新鮮なイメージを、(カメラと録音機という人間の身体の外にあるものによってしか捉えられない)映像と音声との組み合わせによってつくりあげている。下手をすると、たんに物珍しい映像と音声のテクスチャー集みたいになりかねないのだが、そうは感じないところが面白い。 (→☆

○鈴木並木
「かつて明日が」は、あまりにも人間中心主義的である映画というものに対して、叛旗を掲げてもいないし異論を唱えてもいないだろうが、もしかしたら小首をかしげているかもしれない。その角度はとてもわずかで、それでいて強靭だ。 (→☆

おまけ映像は、なんとなくその場で流れているようなもの、くらいのつもりでお楽しみください。おまけ映像についての事前のご質問にはお答えしません。

最後に。このイヴェントは、わたしが編集・発行するリトル・プレス「トラベシア」の発刊を自分で記念するものでもあります。渡邉さんもすばらしい原稿を寄せてくれている「トラベシア」創刊号は08月中旬に発行予定。イヴェント当日も当然、販売いたします。「トラベシア」についての告知はこちら→☆

告知
comments(0)
-
混乱を抱きしめる
Posted by: 鈴木並木 SUZUKI Namiki (→Profile)

戦争が始まって終わったことによって初めてつくることができた映画。そうした類の日本映画に10年近くとりつかれていた。しかしふと気がつくといつのまにか、さすがにもう「そういうの」はいいか、という気持ちになっていて、とはいえ興味は失われたわけではなくていろんな方向に拡散ないしは横滑りしているだけとも言える。台北の街を歩きながら、あるいはヘルムート・コイトナーの映画を見ながら、もしくはスペイン語の勉強をしながら、そして原田直次郎の絵を見ながら、さらには渋谷系のレコードを聴きながら、いつもなんとなく、いまとはまったく違った形で存在しえたかもしれない日本語(の映画)の版図について思いをめぐらせている。そしてそんなときしばしば、自分ほどの愛国者はそうそういないのじゃないだろうかと考えたりもする。

戦争が終わらなくてはつくることができなかった映画があるように、戦争をしながらでなくてはつくれない類の映画がある。とはいってもひとまず今回は現代アメリカ映画の隆盛についての話ではなくて、たとえば対米戦中のマキノ正博の特異で、それでいて充実したいくつかの仕事のこととか。もっとも、「ハナ子さん」などですら、見て混乱した気持ちを「国策映画だからよくない!」みたいに無理矢理ひとことでまとめずにはいられないひとがいる。そういう発想って、それこそ有事の際にはすぐに、「国策映画だからよくない?」→「国策映画だからよくなくない?」→「国策映画だからこそよい!」とひっくりかえり続けてとんでもない方向に向かっていくかもしれない危うい心性だと思うんだけどね。どうして混乱したら混乱したままでいられないんだろう。混乱を抱きしめていたらいいのに。

瀬尾光世「桃太郎 海の神兵」デジタル修復版を、ユーロスペースで見る。桃太郎が家来の動物たちと一緒に鬼が島に鬼を征伐しに行くおなじみの話をもとに松竹が製作し、1945年4月に公開した長篇アニメ。時局柄、鬼が島にいる「鬼」は西洋人であり、桃太郎率いる日本軍は落下傘でその島へ降下して攻め入る。堂々とした物腰で無条件降伏を迫る桃太郎、それに対する「鬼」たちの弱腰。封切時の観客たちはおそらく、シンガポールでの山下=パーシヴァル会見を想起し(て喝采し)ただろう。

……こうした説明、あるいは筋書きで「プロパガンダだ」と拒否反応を起こすひとがいるのはわからないでもないけれど、そんなこと言ったら現代映画はほぼすべて、フツィエフ言うところの金による検閲を受けているんじゃないのー(検閲を受けることすらできない不自由も含めて)、とだけ書いておく。

金だけあればいいってもんじゃないのは当然として、まさか大戦末期の日本(映画)に、これだけの金と手間ヒマをかける余裕(ではないかもしれない。根性、気力、使命感……)があるとは思っていなかった、というのが見終えたあとにまず浮かんだ感想。いや違うな、それは頭でまとめた感想であって、画面に触れたダイレクトな喜びがなによりも先に来る。

田舎道での別れ際、仲間たちに手を振りながら、風に飛ばされそうになる帽子をふと手で押さえるしぐさ。そよそよと揺れるスカーフ。画面の手前と奥を自在に行き来する動物たち。崖の上の立ち木に縛り付けたロープを命綱にして谷川へと飛び込んでいく場面のダイナミックなカメラワーク。自らが所属する航空隊の飛行機の動きを、自分のからだを回転、背転させて再現する猿。

まあとにかく絵が動く動く。そんなの当たり前だろうと思うかもしれないが、いかに効率的に絵を動かすか≒いかに動かさずに動いているように見せるか、に注力して作られたアニメを見慣れた目には、画面にあるものがいちいち無意味に蠕動していることがたまらない喜びになる。リュミエール兄弟の映画で食事をさせられている赤ん坊の背景の木々の枝、葉を思い出す。いや、あの映画の主役は本当は絶え間なく風に吹かれてそよいでいる枝葉のほうであって、赤ん坊なぞは単に画面上で占めている面積が多少大きいというだけの、映画にとっては枝葉末節にすぎなかったのだ。

「桃太郎 海の神兵」を見ると、単なる画面上のものの運動が、しばしばそこから突き抜けて、なにかこう、尊さのようなものをすら帯びてしまうことがたしかにあるのだと何度も何度も確信する。たとえば、先に触れた、弱腰な「鬼」=西洋人たちの描写。軟体動物のようにからだを伸び縮みさせながら、だらだらと脂汗を流し、くねくねと身をよじらせながら、もごもごと返答する。もちろんそれは、泰然自若たる桃太郎との対比で、卑俗さを際立たせるためにそう描かれているわけなのだが、その動きは、この映画がつくられた経緯も、盛られている思想内容も軽々と飛び越えて、ある豊かさを獲得している。そのような見方をする自由くらいは、死守したい。

ところで「桃太郎 海の神兵」は全篇YouTubeなどで見ることもできるのだが、今回上映されたデジタル修復版(4Kスキャン、2K修復)は、映像も音声もほとんどストレスを感じることのない、掛け値なしにすばらしいものだった。そんなことはまずないのは承知の上であえて言うならば、すべての旧作日本映画がこの画質で見られるようになったら、なにかが確実に変わるだろう。ブレもボケもなく、ゴミも取り除かれ、チラつきも修正されている。たかが画質、されど画質。いままで自分が画質をナメていたことに気付かされた。

終映後、修復を担当したイマジカのひとふたりによるトークがあり、そのうちひとりが、自分のやった仕事をごく自然に自画自賛していた。もちろんこのヴァージョンについていえば、まったくイヤミに聞こえない。素直に納得できた。2016年度の旧作日本映画ベスト・ワン。

映画
comments(0)
-
calendar :::: entry :::: comment :::: trackback :::: category :::: archive :::: link admin :: profile :: RSS1.0 :: Atom0.3 :: jugem