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2023年、公共のスクリーンっぽいところで見た中からどうにかこうにか選んだもの。並びは見た順。
○よかったもの
ロバート・M・ヤング「グレゴリオ・コルテスのバラッド」(1982年/英語、スペイン語)
井出玉江「岩尾内ダム その建設の記録 ―第二部建設篇―」(1969年/日本語)
アニエス・ヴァルダ「冬の旅」(1985年/フランス語)
松本優作「Winny」(2023年/日本語)
ベン・アフレック「AIR/エア」(2023年/英語)
ウィル・メリック&ニック・ジョンソン「search/#サーチ2」(2023年/英語、スペイン語)
ピーター・ソーン「マイ・エレメント」(2023年/英語)
金子由里奈「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」(2022年/日本語)
酒井麻衣「夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく」(2023年/日本語)
ミカエル・アース「午前4時にパリの夜は明ける」(2022年/フランス語)
○普通のじゃないやつ
只石博紀+杉本拓「too old to jump 望郷」
松井一平のライヴ・ドローイング(12月1日、寺尾紗穂のコンサートにおける)
○積極的に嫌いなもの
マーティン・マクドナー「イニシェリン島の精霊」
スティーヴン・スピルバーグ「フェイブルマンズ」
トッド・フィールド「ター」
岸善幸「正欲」
○スクリーン以外
高知県立牧野植物園(高知市)
太陽の塔(大阪府吹田市)
信楽焼のたぬき(メルカリ)
メガネストラップ(100均)
○好評発売中
いしあいひでひこ「ロックのしっぽを引きずって」(→☆)
「ビンダー」8号 特集:宮崎駿(→☆)
自分と映画との関係にいよいよ終わりが見え始めた1年だった。はたからは関係良好に見えているかもしれないけれども、実態は仮面夫婦、家庭内別居みたいなもんで、お互いが相手の考えていることがわからない、わかろうともしない状態がいよいよ深刻化している。電車賃を使うのもむなしく思えてきて、たまに国立映画アーカイブに行く以外は、基本的には歩いて行ける池袋か、せいぜい高田馬場でしか見ていない。いわゆるミニシアター系のものは池袋では封切られないものも多くて、早稲田松竹にも新文芸坐にも来ないものは結局見られずじまいだったりした。でも見てもたぶんなんとも思えないものが大半だったろうから、これでよかったのだと思う。そんな中でも、ああよかったと素直に思える瞬間もたまにはあって、ここに挙げた10(+2)本はそれらのほぼすべて。
よかったもの。いわゆる「話題作」はわたしにはほとんど響かなかった。最初の2本は国立映画アーカイブのなんかの特集で鑑賞。ほかの8本は一般公開(および再公開)作品。「冬の旅」「search/#サーチ2」「マイ・エレメント」はそれぞれ2回ずつ見た。ほかの作品も、機会があれば躊躇なく再見するつもりはある。
普通のじゃないやつ。「too old to jump 望郷」は試写で。只石の単独名義作「季節の記憶(仮)」は別に普通の映画の範疇に全然収まるでしょ、と思っているわたしでも、さすがにこれをすぐに誰にでも噛み砕ける映画、と言うことは難しい。只石監督はこれを映画館で上映したいと考えているそうだけど、たぶん自分で映画館をつくるほうが話が早い。一度見ただけではなにも言えそうもないこの作品についてひとつだけ言うとするならば、わたしたちはたまにはこういう映画に衝突して、(つくり手も観客も)物語や人間にばかり注目しているせいで、ありうべき映画の豊かさが阻害されているのではあるまいか、と考えたほうがいい。
松井一平のは、寺尾紗穂のコンサートの後半の時間をまるごとを使って、寺尾の歌とピアノにあわせて会場のどこかで松井が絵を描き、絵を描くアクションと描かれつつある絵がステージ前方のスクリーンに大きく映し出されるもの。まったく迷いなく動く手によって、抽象と具象のあいまを縫うような形が紙の上に次々に生まれ、引かれた線が電柱になり浜辺になり動物になり都市になる。画面が線と面であらかた埋め尽くされると紙は破られ、次の白紙にまた線が引かれ始める。なんとなく、ある長い時間をかけて1枚の絵が完成に向かっていくところを見せられるのかな、と予想していたけど、これは作品ではなく、過程を見せるためのパフォーマンスだった(結果的に完成品のようなものがいくつかできあがりはする)。リアル・タイムでつくられるPV、ライヴ・アニメーションを見る新鮮さと驚き。
積極的に嫌いなもの。ちょっとでもイヤな予感のするものはそもそも見に行かないという予防策は、ほぼ徹底できていたと思う。今後基本的には見ないと決めている監督のリストも、日々追加され、充実しつつある。でも心の弱さで、もしかしたら面白いのではないか、自分にも楽しめるのではないか、とありえない期待をいだいてノコノコ出かけていき、何度か失敗をした。その中でもとくに印象に残ったものがこの4本。それぞれ嫌いな理由は異なっていて、でも思い出すのもバカバカしいので書かない。なお、まったく楽しめなかった映画はほかにもいろいろあるものの、「ザ・ホエール」「パーフェクト・デイズ」なんかは普通に面白くないだけだし、「アフターサン」は意味がわからないのでこのカテゴリーには当てはまらない。
好評発売中のもの。「ロックのしっぽを引きずって」は、著者のいしあい氏にとってはもちろん、編集・発行を手がけた(だけの)わたしにとっても重要な1冊であり、普通に考えたら、ここまでして出されているのだからつまらないはずがない、と判断するのが妥当なんだけど、さすがに世間に届いていない。1年や2年読むのが遅れたところでそれによってなにかが損なわれるとかではないので、いまからでもぜひ買っていただきたい。「ビンダー」はハードコアな批評同人誌で、わたしは特集とはとくに関係のない労働小説「素敵な仕事(もし手に入れられたなら)」を寄稿しています。感想が聞きたいので、買って読んで、感想を書いてください。
2024年は、時間的・金銭的に大きく自腹を切ってまでなんらかの「活動」をすることはしない予定。ただし、やってみたい企画はいくつかあるので、それらを商業的に成立させるための画策は細々と続けるかも。また、なにかを頼まれた場合は基本的に前向きに応じるつもりですので、まずはお気軽にご相談ください。
今年も1年、わたしとみなさんが健康に楽しく過ごせることを祈りつつ。
子供の頃、家に骰子があった。いまはどうだか知らないけれど、かつて昭和と呼ばれていた時代には、一族にひとりかふたりは必ず、なにをやっているのかよくわからない親戚の(かどうかすらわからない)おじさんがいて、骰子は、わたしの一族のそんなおじさんが香港のお土産だと言って持ってきたものだった。おじさんは外国航路の乗組員だったとかで、だからつまり船員であって、なにをやっているのかよくわからないわけではなかったのだが、普段めったに家にはおらず、いつならばいて、今度いつ出かけていくのか不明なのだから、世の中にいろんな職業があるなんて知りもしない子供にとってみたらやっぱり、なにをやっているのかわからない。
その骰子は5つの正五角形でできた五面体で、それぞれの面には数字ではなく、犬、蛇、龍、豚、虎の絵が描いてあった。おじさんが説明してくれたはずのそれぞれの動物が象徴する意味――豚は富、だったか――はそのうちあらかた忘れてしまい、そして五面体の骰子は5つの選択肢からひとつを選ぶ場合を除いてはなにかを決める用途には適していないので、わたしはそのうち、骰子を投げる楽しみだけのために骰子を投げるようになった。虎、犬、犬、虎、蛇、虎、豚、龍、豚、虎、龍、龍、蛇。その並びには順列も上下も意味もなかった。
令和のいま、ほかならぬ自分自身がなにをやっているのかよくわからないおじさんの立場になっているような気がしないでもないのだけど、それに気付かないふりをしながら生きている。骰子はとうの昔になくしてしまったので、そのかわりの行為としてあてずっぽうに映画を見てみると、出てくるのは人、人、人、人、人ばかりで、大して多様性があるようには思われない。もっともよく目を凝らせば、骰子のひとつひとつの目に描かれた人間の姿はたしかに少しずつ違ってはいて、だからそのときの気分しだいで、なんだよ人間ばっかりじゃないかと思う日もあれば、案外いろんなヴァラエティがあるんだなと感じる日もある。
グレタ・ガーウィグ「バービー」についてはいろいろ言われているようでもあるけれど、結局はたいていの映画同様に、人間しか眼中にないところが問題なんだろうと思う。もっともわたしとて、人間のつくる映画に人間しか出てこないからといって四六時中それに不満をかかえているわけでもないし、goatの音楽は人間が人力でやっているからあんなに興奮させられるのだろうとも思うくらいには人間に理解がある。でもこれはたまたま、というかあえて、人形を主人公にしている映画なのだから、話は別だ。よりによって人形が人間のように悩んだりするだなんて、つくり手たちだけが気が利いていると思っている設定のどうしようもなさに早く気付いてほしい。もっとも「バービー」は一事が万事こうした、「或るものの存在によって別の或るものの不在を感じさせる」映画になってしまっているところが面白みではある。
たとえば最初のほうのダンス・シーンで、車椅子に乗ったひとが出てきて、一緒に踊る。なるほどたしかに、車椅子ユーザーも気兼ねなく、インクル―シヴに踊れる社会のほうが絶対にいい。ただ、この一瞬によってわたしはとても気が散ってしまい、だったら◯◯もいたほうがいいのでは? と、「バービー」に登場しないさまざまな属性を思い浮かべてしまった。もちろん、ひとつの映画にあらゆる属性を盛り込むことはできないし、一般的にあまり描かれない属性、民族、性癖、思想、などなどが映画に出てくるのはいいことだからどんどんやってほしい(これは多数派の物言いになるだろうけど)。でもわたしにはこの短いショットが、この映画の白人至上主義、英語至上主義を象徴するものに見えてしまった。
うまく筋道立てて説明できないし、「オッペンハイマー」はもちろん見れていない状態なのであてずっぽうだけど、例のバーベンハイマーというやつ、あれは、「そんなこと言っても『バービー』にはあれもこれもないじゃないか」というツッコミと、白人至上主義が合体した結果なんじゃないかと予想している。
言いがかりなのはわかっているのでもう少し続けさせてもらうと、白人至上主義、英語至上主義の行き着く先は人間以外を認めない人間至上主義に決まっている。これからの映画がそういう考え方に与するのはよくない。そもそも、当のバービーたちはこの映画を見て、どう感じているのだろうか。
(と、ここまで書いたところでちょうど、タイカ・ワイティティが「すべての番組、わたしたちが作るすべての作品に、すべての人種、すべての素性、すべての体験を盛り込むのが『多様性』だと、わたしたちは勘違いしているのです」と発言している記事を見かけた→☆)
若木康輔さんのツイート(→☆)で、中川信夫「旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷」が期間限定でYouTubeで公式公開されていると知り、喜び勇んで見る(公開終了済み)。そういや「旗本退屈男」って名前は知ってるけど見てるんだっけな、と確認してみると、たぶん1本くらいしか見てない。戦後の東映版は監督がほとんど佐々木康と松田定次だからだろう。こういうのが(元)シネフィルの悪いところ。
この世界には東映の時代劇を知っているひとと、知らないひとがいる。たぶんガーウィグは見てないと思うけどそれはたいして問題ではない。東映の時代劇の根本思想が先端的であるはずもなくて(もちろん例外的な作品はある)、名前はかわいいけれど単なるおっさんである右太衛門が演じる旗本退屈男に対して、町人はやたらとへいこらし、娘たちは無条件に好意を抱く。佐藤忠男先生が「長谷川伸論」で書いていた、身体全体がぶるぶる震えてくるようなこんな一節を思い出してしまった。
「われわれはいつの日か、封建社会の親分子分の葛藤を扱ったドラマを見て、これはまったく自分と関係のない話だ、と思える日を迎えることがあるであろう。その日というのは、われわれが、勤め先の会社や役所において、課長や部長や社長や長官を選挙で選ぶようになったときのことであろう。上役の命令さえあれば無自覚になんでもやるというのでなく、いちいちそれを、自分の良心に照らし合わせるという自由と自覚を得た日であろう。」
だからといって、反民主的、反人間的、反フェミニズム的であるからすなわちロクでもない、とはならないのが(この)映画の面白いところで、たとえばキャスティングに注目してみよう。右太衛門や退屈男をまるで知らない観客であっても、10分くらい見ていればこれがどういうキャラクターなのかはすぐにわかる。そしてこの映画の悪人たちの造型のすばらしさ。地回りのヤクザと、自分の仕える主人の娘に岡惚れしてたらしこもうとしている小番頭と、事件のうしろに控える大商人たちとでは、悪の度合いと性質、いわば悪度(わるど)がそもそも異なるわけで、それらが、いちいちセリフで説明されずとも、見れば一目でわかるような形で画面にあらわれている。画面にあらわれているというのは当然、役者の顔や演技だけではない。撮影、照明、美術、衣装、編集、すべてを含んでの話。
時代劇という絵空事の中でのみ通用するそれらしさをどうつくるかは当時の東映が特に得意とするところで、繊細な厚み、とでも言うべきこうした悪のグラデーションを見てしまうと、現代のハリウッドの俳優たちの顔なんてみんな同じじゃないか、とすら思ってしまう。現代では考えずにいられない諸問題、織り込まなくてはならない思想やテーマがなかった(とされていた)時代ならではの豊かさは、確実にある。懐古的にその豊かさを味わって現代から目をそむけるか、現代人として画面の貧しさに耐えつつ清く正しい映画だけを認めるのか――そんな二者択一の沼に自分から落ち込む必要はない。
「旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷」がつくられた1962年当時、日本語を理解し、すでに存在している枠組(お約束)をつべこべ言わず楽しめる観客以外に届けるルートは、たぶん想定されていなかっただろう。1962年の日本映画には、「外」を見なくてもやっていけるだけの産業的な厚みがまだかろうじてあったし、シネマヴェーラ渋谷やラピュタ阿佐ヶ谷でかかるような日本映画が海外で「発見」されるのはまだずっと先の話だ。だからこそ映画の後半、事件の真相を言えずにいた北沢典子に水谷良重が「あなただってお人形じゃないはずよ!」と告白を促すところで、雷に打たれたようなショックを受けた。水谷良重がわたしの贔屓の女優だからというのもあるが、必ずしもそれだけではない。
そんなものがあるとはまったく予想もしていなかったところに、なにかが出現する喜び。スクリーンの真ん中に、急に現代とつながるバカでかい穴が開いたような驚き。「バービー」が、思いもよらぬ展開の連続だったかのように思わせておいて、終わってみるとなんとなく、こうなることは最初からわかっていた、と言いたくなるような徒労感しか抱かせてくれなかったのとは対照的だった。2023年の夏に「旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷」を見て「バービー」を思い出したひとが、わたしのほかにも何十人かはいたはずなので、ここにそれを記録しておく。
「旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷」を見ながらほかに考えていたのは、役柄と言葉の関係について。武士は武士らしく、町娘は町娘らしく、チンピラはチンピラらしく、商人は商人らしく口を聞き、別の階層に属する人間と喋るときも、その上下関係や距離感によって、口調の軽重、硬軟は惚れ惚れするほど自動的に決定されるから、それぞれのキャラクターがいちいち自由意志などというものをありがたがって振りかざさなくてもいい。きちんとした時代劇の脚本であればこうしたことは集合知として撮影所のどこかに格納されていて、脚本家(本作は結束信二)がいちいち毎回頭をひねらなくてもよかったはずだし、観客にも当然それは共有されていたはずだ。わたしは東映の時代劇にそれほど明るいタイプの映画ファンではないにせよ、それでも100本くらいは見ているはずなので、そこでつかわれている日本語を、普段自分たちが操っているそれとの距離をはかりつつ、楽しむことは少しはできている。
途中から頭に浮かんできたのは、これ、日本語を理解しない外国人が字幕で見るとしたらどうなるだろう、ということだった。おっと待った、だからといってもちろん、日本語を特権化しようって話じゃない。ちょっと思い出してみると、わたしはいままで日本国外で、小津、成瀬、伊藤大輔、清水宏、高畑勲、岩井俊二といった日本語映画を英語字幕のついた状態で見ていて、個別の状況はあまり覚えていないものが大半だけど、毎回必ず、字幕の出来についてはなにがしかの考えを持っていたはず。カリフォルニア州バークレーで「おもひでぽろぽろ」を見た日の思い出は、「トラベシア」の4号に書いたとおりだ。
英語でなくてもいいんだけど、仮に英語の字幕を「旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷」につけるとして、さきほど書いたような人間関係――つまりは封建制ってことだけど――にもとづくセリフの味わいを万全に伝達できるような翻訳は、そもそも可能なんだろうか。もっとも、万全でなくてもやったほうがいいし、どんな映画も、いつか万全になるのだろうと怠惰に待ち続けるのではなく、あなたが死ぬ前に見たほうがいい。
わたしはときどき意識して「日本語映画」という用語をつかうけれど、現実問題としてほぼ、日本映画イコール日本語映画、なのはよく知ってる。つまりカナダのケベックにおけるフランス語映画のようなものは、日本語映画には存在しない。日本語圏と日本の国境がほとんど一致している現状についてどう表現するのが適切なのか、言い方が難しいのは百も承知で、あえて言うなら「もったいない」だ。英語についてはもちろん、スペイン語の勉強をしていてあらためて感じるのは、地球上のこれだけ広大な範囲でスペイン語が通じるようになっている事実のすばらしさとおぞましさとでもいうか、とにかく日本語が国際社会においてそうした名誉ある地位を占めるには、国が動き出すのが100年遅過ぎた。
日本ドキュメンタリストユニオンの映画「アジアはひとつ」を、東京の国立映画アーカイブで再見した。2020年の同館の特集「戦後日本ドキュメンタリー映画再考」(→☆)で上映されたときの作品の紹介には、こうある。
「国境がこの世に存在しないかのように破天荒な越境を実現し、沖縄本島から八重山に渡ったキャメラはそのまま台湾までワイルドに前進してゆく。」
「戦後日本ドキュメンタリー映画再考」は新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止のために会期終盤の上映は中止になり、わたしは「アジアはひとつ」を見ることができなかった。その後、那覇の桜坂劇場で上映されると友人に教えてもらって見に行ったときの体験は、「オフショア」創刊号に書いたエッセイの核のひとつになっている。
映画のつくりは上に引いた紹介文のとおりで、言葉もそれぞれの場所と発話者の出自に応じてさまざまだ。ざっくり言うとこの映画の言語は日本語になると思うけど、細かく見れば、聞こえてくるのは内地の日本語、ウチナーグチ、たぶん八重山方言、台湾や朝鮮半島にルーツを持つひとたちの話す日本語など。話者によっては、断片的に耳に飛び込んでくる地名や単語以外はほとんど聞き取れなかったりもする。最後にカメラがたどりつくのは台湾の山中にある先住民族の村で、この地のひとたちの話す日本語の聞き取りやすさは、日本統治時代の、すばらしくもおぞましい「教育のレヴェルの高さ」を示すものだろう。
この日本語映画には、字幕が一切ついていない。だから日本語話者の大半は、話されている内容のすべてを聞き取って理解することはできないはずだ。それどころかもしかすると、ウチナーグチに堪能な観客であっても聞き取れない部分があるのかもしれない。とすると当然、つくり手も全体を把握していない可能性があるわけで、だったら観客であるわたしたちにできるのは、誰であっても万全に理解できるヴァージョンができる日(4Kリマスターとかで?)をぼんやり待つことではなく、見られるうちに、あなたが死ぬ前に、見ることだけだ。
ところでタイミングよく読んだ寺尾紗穂の新刊「日本人が移民だったころ」(→☆)にも、八重山の話が出てきた。「アジアはひとつ」では、内地に魚を持っていくには冷凍しないといけないが、台湾にだったら冷凍しなくてもそのまま売りに行ける、と漁師が証言する。台湾政府と琉球政府のあいだでおこなわれていた、労働者の派遣の記録なんかも映る。寺尾が書いているのは、日本の最西端、辺境であった与那国島が、台湾が日本の領土になって交流が盛んになり、大いに栄えたとのエピソード。たしかに地図を見ると、与那国島から那覇への距離は、台北までの距離の3倍くらいある。当時は、内地から与那国島への郵便は、「台湾基隆郵便局経由」と指定したほうが早く届いたのだとか。
「アジアはひとつ」を万全に味わうには、日本の中で見ていたのではダメかもしれない。岡田秀則のツイート(→☆)で、2022年に、ニューヨーク、ジャパン・ソサエティの沖縄映画特集で、この映画が上映されていたと知る。当然、英語字幕はついていただろう。それはどんなものだったか。いざそのヴァージョンを見たら、なんでもかんでもすっきりわかればいいってもんじゃない、だなんてつまらない皮肉を言いたくなるのかもしれないけど。
つくり手が自分の作品を、わざとわからなくする場合があるのかどうか。わたしにとって、自分にしか通じないギャグをひとつも交えずになにかを書くなんてありえないけど、プロの立場はまた違うはずで、でもたとえば「エドワード・ヤンの恋愛時代」を見ると、もちろんこの複雑なドラマを一度で飲み込むのはなかなか難しいのは当然として、あまりにもすんなりわかってしまうことのつまらなさ、みたいな言いがかりめいた物言いをしたくなる。
もうだいぶ長くなってしまっていて、どこでなにを書いたか思い出せなくなっているので適当に前のほうに戻って確かめてもらいたいのだけど、どこかで書いたことを繰り返すと、この世界には、エドワード・ヤンの映画を見るひとと、一生見ないひとがいる。高度に蛸壺化した情報化社会において、エドワード・ヤンの映画を見るひとはあらかじめ決まっている。まあざっくり言って都市部とその周辺に住む知的階層の、および、現在はさまざまな理由でそうなっていないけれども本来はそうなるのがよい、そんな映画ファンであって、そういうひとたちがこの映画を見て、資本主義都市・台北で展開される物語を「時代や国境を越えて」手に取るようにわかってしまうのは、ある意味当たり前で、驚くようなことでもなんでもない。
「バービー」にせよ「恋愛時代」にせよ、英語なり中国語なりといった言語とは別に、あるいは並行して、フェミニズムだったり国際映画祭的なサークル内の言語だったりで語られたりもしている。その「言語」があまりにも容易に通じてしまう喜び、そしてつまらなさ。本来であれば「アジアがひとつ」がそうしたように、「旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷」がこれからそうするかもしれないように、国境を越えるのは力ずくであるはずなのに。
「バービー」で起きてしまったような想定外の客層との出会いは、「恋愛時代」においては、たぶん発生しない。歌舞伎町でたむろする若者たちは、行き帰りに武蔵野館のすぐ下の道を通りはしても、決してこの映画は見ない。出会い頭の事故は起きない。批評や宣伝にわたしが期待する役割は、そうした事故をできるだけ多く起こしてほしいってことで、だから全然関係ないタレントを起用する宣伝だって、別にかまわないのだ。その宣伝自体がすべってるのが問題なだけで。
ところで10年くらい前に阪本順治の「人類資金」っていう(たぶんそれ自体が事故みたいな)映画があって、誰も覚えてないだろうけどそのコラボ商品で「人類チキン」ってのが、たしかあった。検索してもなにも出てこないので不安になるけど、たぶんあった気がする。映画も見てないしチキンも食べてないのに、わたしはいまでも、年に10回くらいそのことを思い出している。
批評も宣伝も、事故のない安全運転じゃつまんないから、どんどん関係ないところにちょっかい出していってほしい。映画に関する文章を書いているみなさんには、あらかじめ届く場所にソツなく到達するだけではなく、誰かの人生に事故を起こすようなポテンシャルを持った言葉をどうかひとつ、と心からお願いしておく。
電話を受ける仕事をしていると、最初から怒って電話してきたお客さんの怒りが、こちらとの会話で増幅される場面にときどき出くわす。まあ大抵の場合悪いのはお客さんのほうで、とはいえ、そっちにはそっちの事情があるのはわかる。それに対してこっちにはこっちの都合があって……なんて書き出すと、世界平和の話にでもなりそうな勢いだけど、今日はそういう話題ではない。
そうした状態を日本語で、ヒートアップ、などと言ったりする。このあいだそんな電話を終えて、熱いコーヒー(家から水筒に入れて持ってきたやつなので、淹れたときほどの熱さはない)を飲んでクールダウンさせていたときにふと、そういやクールプライスってあったよな、と思い出した。どこの会社のだか忘れたけど、90年代頃の廉価盤再発CDの帯に書いてあった文句。別の会社の同傾向のシリーズはホットプライス、と謳われていて、どっちなんだよ、と思ったものだったけど。
その頃の風俗もそろそろ忘れられ始めていそうだから書き残しておくと、まず、音楽などを記録する媒体としてCDが大量に流通していた時代があって、そこそこ巨大なその産業の裾野として、CDを買わずに金を出して借りて一時的に聴いたり、自宅でテープなどに録音するひとたちのためのCDレンタル業者、があった。現代のひとがこの説明を読むと、雑居ビルの一室などでこっそり営まれているマニア向けのショップを想像するだろうけど、必ずしもそうではない。繁華街や駅前などにも、誰にでも入れるような店がまえのチェーン店がたくさんあって、長い時間をかけて少しずつ品揃えを変化させたり、面積を縮小したり、閉店していったり、した。
それらの店にはよく、わたしたちが「ワゴン」と呼んでいた什器があって、そこには、発売直後の大量の需要に応えるために大量に仕入れられ、ある一定の時間の経過後に需要を失ったCDが、中古盤として売られていた。かつてレンタル用であったことを示すシールやバーコードが盤面やブックレットにベタベタ貼られているので、個人的な感覚としては、定価3000円の新譜が半年後には500円で買えるのであれはまあリーズナブルかなと思わないでもないところ、はるかに強欲な値付けの場合がほとんどで、2400円とか、安くてもせいぜい1800円とかだったりする。その程度の値引きで買うのであれば、おとなしく3000円払って新品を手にしたほうがいいのに、といつも思っていた。
レンジでチンする行為がレンジアップ、と呼ばれるようになったのはいつ頃からだったっけ。レンジの筐体の中の飲食物の温度が上がるのだから、日本語の論理としてはたぶん正しい。納得できないのは、上記のような中古品を「レンタルアップ」と呼ぶ感覚だ。わたしにとっては「レンタル落ち」がふさわしい。別にシールが貼られたからといって盤面の温度が上がるわけでもないし、むしろオーディオ・オカルト全盛期には、CDは冷蔵庫に入れて冷やすことによって音がよくなるとすら言われていたものだった。
ところで、屈折したヒッピーの社会経済的上昇と下降についてならば、「ヒッピーあがり」「ヒッピーくずれ」、どちらの表現も可能だと思う。前者であればたとえば髪を切って就職し、なんとなくヤッピーへの転身を果たした、というような。後者だとなんだろう、うまい具体例が思い付かないけど、そういうひとはどこにでもいるだろう。日本ではかなり小さな地方の街にも、フリー・ジャズを聴かせたり、都会から演者を呼んでライヴをおこなったりするような店がある現象について、大友良英はこんなことを言っていた。若い時期を都会で過ごしたひとたちが、それぞれの故郷に戻る際に都会の文化を一緒に連れて帰ってきて、それまで田舎にはなかった類の店をつくり、場所を開いた、と。そうしたひとたちを「活動家くずれ」と呼ぶのは失礼だろう。では「あがり」なのかというと、ちょっとそれもわからない。「襟裳岬」で襟裳岬にいる男はそういうふうにして都会から離れた男だと誰かが分析していた。
ワゴンから取り出されて誰かに買われて行ったレンタルアップ状態のCDは別に社会的階層が上がったわけでもないのだけど、不特定多数のひとに借り出されてポテチまみれの指紋を付けられたりカーステレオのプレイヤーに乱暴に押し込まれたりする生活から、とりあえず誰かの家に連れていかれてCD棚に収まる生活へと転身したと考えれば、あながち悪いもんでもない。ひとによってはきれいにシールを剥がしてくれるかもしれないし、新しいプラケースに入れてくれるかもしれない。身請けされた水商売の女が小料理屋の女将になるような話は昔からある。中小企業の社長夫人になったりもする。どっちが「あがり」でどっちが「くずれ」なのかは一概には言えないにせよ、すべての国民は日本国憲法第25条によって、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保証されている。では国民以外には保証されていないのかといえば、日本国憲法の前文には「われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。」と書かれている。それを理解していない政治家くずれが、憲法の精神によって地上から永遠に除去されるとしたら、ごく自然な成り行きだろう。
それが起きた直後にはとくになにも言う気が起きないし、逆になにも言わない気しか起きない状態だったのが、夜になると上体を水平にし、朝になると斜めから垂直へと起こす作業を一日も休まず繰り返しているうちに、やはりなにか口にしておきたい思いも出てくる。
まず浮かんできたのは、高橋源一郎がどの本でだったか、大江健三郎「キルプの軍団」の冒頭部分を引用して、サーヴィスがよい、と書いていたこと。いや、正確にはたしかその前になにかほかの小説(タイトルなどは明示されていなかったはず)の引用があって、そっちを「サーヴィスが悪い」とくさしてから、対比する形での「キルプの軍団」の話だったはず。
サーヴィスが悪い、とはたぶん、文字が並んでいて一見したところ物語が進行しているようではあるけれども本質的にはそこにはなにもなくて、読み続けたい気持ちを持続させるのが困難である、くらいの意味だと思う。この問題はおそらく映画のほうがはるかに悪質で、なぜならば映画ではとにかく時間がたつのを待っていれば時間は過ぎるし、本質的にはなにも起きていなくても画面にはたいていなにかが映っているから、それを根拠に、ほらこんなにも豊かな世界がある、と主張されるとなかなか反論できないような気にもなってしまう(反論しよう!)。
わたしが映画を見る習慣を身につけて、小説を読むのが馬鹿馬鹿しくなってほとんどやめてしまってからだいたい20年くらいたつのだけど、もういまでは逆に、映画が本質的に持つその悪質さにうんざりし始めていて、ただ物語を語りたいだけのようなこんなものに付き合うのだったら小説を読んだほうがいい、と、また元の場所に戻ってきたような錯覚を覚えもする。でもそれは元の場所でもないし、だから読みもしない。
そしてもちろん、全部が全部そんな映画ばかりでもない。そしてごくたまにはサーヴィスのいい映画も存在するのであって、すぐそこにあるDVDを取り出しもせずにゴダール=ゴラン「万事快調」の始まり方を思い出してみる。カメラはフィックス、手に持たれたペンが小切手帳にサインをし、サインの済んだ小切手が1枚ずつむしりとられていく。小切手にはあらかじめ、シナリオにいくら、撮影にいくら、端役にいくら、現像にいくらなどと、映画をつくるにあたってどこにいくら支払われるべきかが書き込まれていて、画面外からはときおり、イヴ・モンタンとジェーン・フォンダの交わす会話が聞こえてくる。「映画をつくるにはあれもいるんじゃない? 牛乳とパン」「ああそうだった、帰りにスーパーに寄ってくるよ」
まあたぶん実際はこんな会話ではなかったはずだが、なにが言いたいのかというと、この映画は、あなたがいま見つつあるこの映画はどんな映画で、それがどのようにつくられつつあるのかを、あたかも物語のような形を取りながらあなたに理解させるためにつくられているので、つまり、サーヴィスのレヴェルというか基準というか発想というか構造が、ほかの映画とは違うのだ。
若木康輔さんが昨年から今年にかけて、ゴダールについてこれ以上かみくだいてわかりやすく書かれた文章もなかなかないだろう、と思わされるふたつの記事をブログにあげてくれている。(→☆)(→☆)
いつだったか、その若木さんは、漫画にテレヴィに音楽にと、吸収しなくてはいけない(と勝手に思っていた)文化が多すぎてパニックになっていた子供時代、映画の横のところで待ちかまえていれば大事なものは全部そこに集まってくるから効率よくつかまえられると気付いた、みたいに言っていたはずだ。たぶんゴダールと若木さんは、いろいろなメディアのハブになりうる映画の特性について、まったく違うことを、違うやり方で考えているんだと思う。違うことを違うやり方で考えているのではそれは単に「違う」なんじゃないのと言われそうだけど、そうはならないのが面白いところで、たぶんこの文章をいまでもまだ辛抱強く読み続けているあなたは、そろそろなんだかよくわからなくなってきたなと思っているに違いない。それももっともな話で、というのもこれは、いま書かれつつある文章をどうやって書いたらいいのかよくわからないままの状態でとりあえず書いてみてあとで消すつもりのものがそのまま残されている文章だからで、少しだけ話を戻して、さっき書いたメディアのハブとしての映画、をわたしの言い方で言い換えると、映画は後発のメディアだからできることの範囲が一見広いし、なんでも盛り込めてしまう、ただしそれで面白くなるかどうかはまた別、って話になる。
そんなこんなを考えながらまた別の場所に移動する。4月の日曜日、茨城県つくば市にある本屋、PEOPLE BOOKSTOREの10週年を祝うパーティに遊びに行った。会場のオクトベースをなぜだか美容室だと思い込んでいて、重い扉を開けて中に入ると音響も照明の暗さもクラブそのものだったので、へえ、やたら本格的なんだな、とびっくりしたのも束の間、ちょうどヨッシー・リトル・ノイズ・ウィーヴァーがプラスチックス「ピース」のカヴァーを演奏している最中だったので嬉しくなる。
そのパーティで小西康陽の――いしあいひでひこさんは先日、その名前を「吉本隆明=よしもとりゅうめい」のような昭和のマナーで「こにしこうよう」と発音していた――DJを聴いて、ゴダールを思い出した。……と書くと、いかにも平成初期にたしかに存在した気がする渋谷系のムーヴメントを連想するし、さっき書いたことと関連付けてみるならば――わたし程度の歳になれば、なにを聞いてもなにかと関連付けられるほどの知性を誰だって獲得できるのだけど、そうではないひとももちろんいる――渋谷系とは、レコード(屋)の横のところで待っていればほかのものも効率よくつかまえることが可能なムーヴメントだった、とも言える。たとえば映画、ファッション、文学、デザイン。ほかにも、編集者としてのわたしの(小手先の)技術は、渋谷系のリスナーだった過去の経験にかなりの部分を負っている。渋谷系には政治はなかったのでは? と、一見もっともなツッコミを入れる御仁には、当時渋谷系だったあるヴォーカリストはいまでは立派なネトウヨになっているらしいじゃないですか、と言っておこう。
さて、小西氏のパブリック・イメージは渋谷系の頃からあまり変わっていないだろうから(パブリック・イメージとはそうころころ変わらないものだ)、彼のDJでゴダールを思い出したと書くと、イェイェや小洒落たモッド・ジャズやヨーロッパ映画のサントラなどをプレイしたのかと思われる方も多いだろう。もちろんそうしたものもプレイされはする。しかしわたしがこの日、ゴダール的な知覚の変容をもたらされたのは、たとえば「ヤン坊・マー坊の歌」によってであり、クレージーキャッツによってだった。何度も耳にしてよく知っているはずなのに、実際には聴いてはおらず、なにもわかっていなかった曲。しかるべき配列、しかるべき環境、しかるべき音響で触れることによって、それらは音楽へと変化する。
さほど熱心なリスナーではないとはいえ、この30年で10回くらいは小西氏のDJを見聞きしているので、しかしここまでは想定内の驚きだった。予想していなかったのはここから先。そうした知覚の変容がもたらされた耳で聴くと、「すでに音楽として認識していたはずの音楽が、あらためて音楽になる」のだった。つまり、たとえばビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」――映画にしか興味のないようなひとでも、たぶん聴いたことがあるロックの古典――を、「ヤン坊・マー坊の歌」やクレージーキャッツを初めて音楽として認識したときのような新鮮な感覚で聴いて、驚くことができる。これは単に、ひさしぶりに聴いて新鮮だったとか、大きな音で聴くとそれまで気付けなかったディテイルも耳に入るとか、そういう単純な話だけではない。それらを含みつつ、さらにダイレクトであり、さらに批評的な営為であるというか。当たり前だけど、非音楽が音楽になる驚きよりも、もともと音楽だったものが、非音楽が音楽になるようなやり方であらためて音楽になる驚きのほうが、はるかに大きいし、複雑で、味わい深い。
いま批評的な営為、と書いて気付いたが、こうした、「いかにもな批評の形をしていない批評」を好んで、自発的に驚かされてきたわたしが、テン年代に若いひとたちによって盛んにおこなわれた批評にピンとこなかったのは当然だろう。わたしにとってそれらは、さまざまな形をとりうるはずの批評が、いかにも批評然としたフォーマットへとわざわざ全力で後退していったムーヴメントにしか見えなかったのだ。
そろそろ本題に入ろう。最近もうなにも書く気がせず、書けなくなってもいるのになぜ無理してこの文章を書いているのかというと、 ニコラス・D・ジョンソン&ウィル・メリック「search/#サーチ2」を見ていてなんとなくゴダールを思い出し、その直感が正しかったのかを確かめたくて、見終わったあとにもう一度見に行ってしまったので――見終えていない映画をもう一度見ることはできない――せっかくなので記録を残しておくべきだと感じているからだ。ついでに言えば、直感に正しいも正しくないもないわけなのだけど(事実と合致しているかどうかはあるとして)。
「サーチ2」になぜゴダールを感じたか、ここまで書いてきた内容を踏まえて言うならば、度を過ぎたサーヴィスのよさがあるからで、その前に少しこの映画の説明をしておこう。「2」というからには「1」があったようにも思うし、「3」もできてほしいと思っているけれども、とりあえず続きものではないので「1」は見てなくてもよい。「1」との関連性は、すべての映像がモニター上の映像であるのが売りになっていることで、これだとなんだか非常に頭の悪い説明なのであわてて補足すると、主人公の持ち物であるMacのデスクトップ上に映るFaceTimeや、各種の通信アプリ、監視カメラ、などなどだけで(つまり、いわゆる映画のカメラで撮られた映像ではない映像だけで)構成されている。
しかし、頭のいいひとならば一度見ただけですぐ見抜けるはずだし、頭のよさの種類が違うわたしは再見したあとこうして文字にする過程でようやくわかってきたのだが、そもそもこの前提が、成り立っていないのだ。最近なにかの映画のセリフで「前提に無理があるぞ」というのを聞いて、そんなこと映画が自分で言ってたら「ズル」じゃん、と思ったのだけど、この映画のつくり手たちも、自分たちの無理には当然気付いていたはずだ。その結果、肝心ないくつかの場面では、強固なまでに古典的な画面が出現する。
たとえば、母親とその彼氏が出会いの初期にマッチングアプリ上でやり取りした動画メッセージを交互に提示して、擬似的な会話=切り返しを成立させるやり方。知的な観客はまず、そのようなやり方でかくもスムースな会話がつくれることに舌を巻き、そしてすぐ、わたしたちが100万回くらい見てきた切り返しによる映画の会話が人工的で擬似的なものである事実に思い至るだろう。ここでは技術が過去を向いている。
導入部で膨大な情報をばばばっと並べて観客をつかんでしまえば、あとはなにをやってもすべてがつくり手のお約束で進んでいく。そうなれば多少の雑さもなんとなくスルーされてしまう。ある人物が主人公の家を訪れる場面は、主人公のMacのカメラがとらえた映像として観客に示される。主人公が喋っているところと訪問者が喋っているところは、同じカメラが撮った映像を拡大してトリミングして、それらを素材として、「普通の映画」のような切り返しをつくり出している。当然画質は荒く、アングルにも無理がある。わたしにしてみれば「そうまでして普通の映画のふりをしなくてもいいだろう」と言いたくなるのだが、つくり手からすれば「いかに普通の映画らしく見せるか、それこそがコンセプトなのだ」となるのだろう。
つまり最初から、目指しているものが違う。わたしがこの訪問の場面や、監視カメラの映像を素材とした後半のある場面で強く思った――憤った、と言ってもいい――のは、ゴダールや佐々木友輔だったらこんな非倫理的なトリミングはしないぞ、ということだった。素材の映像をズームするのは、まあいい。トリミングして一部を拡大するのも、ギリ許す。でも、それを使って切り返しを組み立ててしまうのは、決定的な一線を越えた行為に思えてならない。もっともそれも、わたしがこの映画に「佐々木友輔がもしメジャー資本で映画を撮ったら」のような、実現する可能性のあまり高くないifを期待したがゆえの、トンチンカンで独りよがりな憤りなのかもしれない。(トリミング以前の問題として、本当にそれらのカメラの固定のアングルに収まる位置ですべてが起きていたのか?という重大な疑問もあるが、それについては2回見てもなんとも言えなかったので保留にしておく)
話を戻すとこの映画、さんざん述べたとおりで前提は崩壊しているが、少なくとも、カメラになにかの現実が映っているのだけを根拠に、ほらこんなにも豊かな情報がある、などとつまらない主張をしないだけでも、充分サーヴィスはいい。すべての映像について「これは自然に置かれたカメラの映像ではない」と言い張るからには、どんな映像もなんらかの必然性をもって画面に存在しなくてはならない。どんなささいなカットも、たまたま映り込んだ通行人ではないのだから、単に画面に登場して一定時間後にそのまま消えていくような怠惰なマネは許されない。その結果、音楽再生アプリで音楽が再生されていることを示す丸囲みの三角(あるいは三角の丸囲み)は画面上でそのまま、ナヴィゲイションアプリ上の、移動しつつある状態を示す丸囲みの三角(あるいは三角の丸囲み)になったりする。安楽椅子探偵ならぬデスクトップ探偵として振る舞う主人公は、恐ろしいほどの素早さで検索し、パスワードを詐取し、アプリをダウンロードし、さまざまのアプリで各方面に連絡を取る。その過程で、わたしたちがそうするように、自分が人間であることを証明するためにバスの写っているタイルをタップしたり、なにかのサーヴィスを利用するときに価格帯の範囲のバーを安いほうへとスライドさせたりする。
見ようによっては、古典的な映画の約束を都合のいいように使っている作品ではあるけれども、これはこれで、「すべての映像はなにかの上に映っている映像である」という、白痴的な同語反復の快感を与えてくれるとも言える。映画とはつまり、わたしたちが映画だと感じるように編集された映像のことでしかない。フィルムカメラなりヴィデオカメラなりによって、映画的な意志のもとに撮られた映像だけが映画の材料になりうるわけではない、ということは昔からいろいろなひとが考えてきているわけで、この映画はその発想の最先端にいる、とまでは思わないけれども、その発想をもっともスムースな形で作品化したもののひとつである、くらいは言ってもよさそうだ。そしてそのスムースさのために、前提は崩壊する必要があった。
*写真は、最近我が家で発掘された渋谷系時代のヴィンテージのTシャツ。
(最終更新日:2023/10/26)
音楽について考え、音楽について考えることについて考え続ける。インターネット最後の論客、堂々降臨。20世紀に落ちてきた男が21世紀のスキッツォイド・メン&ウィメンに贈る、最初で最後のデビュー作! メジャー各社からのリリース拒否を受け、インディーズから緊急発売。
◇虚実のあわいを越えて届いたコメントの数々……
・全体にエヴィデンス不足と指摘され、社内の企画会議を通りませんでした。残念です。――文芸大手・A社
・いしあい様の今後のご活躍をお祈り申し上げます。――人文中堅・B社
・私はこの、ひとりごとで形成された本を、銃とギムレットが出てこないハードボイルドとして読んだ。――安田謙一(ロック漫筆)
・音楽(ロック)と文学(ブック)の火花散る出会い。――今野雄二(メッセージ by 大川隆法)
◇情報
ロックのしっぽを引きずって|いしあいひでひこ・著
2023年01月27日発行|さまざまな経緯により弱気の200部
B6判|タテ書き|日本語|94ページ
諸事情反映価格1000円(+ところにより消費税)
◇スタッフ
表紙アートワーク|Van Paugam
裏表紙コメント|安田謙一(ロック漫筆)
本文イラスト|鹿島絵里子
特別寄稿|植村正美
編集協力|野村玲央
デザイン|村松道代
編集・発行|鈴木並木
印刷・製本|株式会社イニュニック
◇ためし読み
金を払う前に内容を確認したいという現代人のもっともな要求にそれなりにおこたえ! 本書の「イントロダクション」全文を、noteにて公開中です。→☆
◇あわせて読みたい|「トラベシア」Vol.6「いしあいひでひこのやさしい人生」
すでにこんなものが出ていました。1冊まるごと、一般人・いしあいひでひこを特集した雑誌。グラビア、インタヴュー、鼎談、往復書簡、本人や第三者の文章などなどによって、いしあいさんと彼の生きた時代の深層に迫ります。→☆
◇購入方法
自主制作の出版物ですので、大手資本の本屋さんや、通販サイトなどでは売られておりません。いくつか買い方がありますので、気分に応じて選んでみてください。
(1)実店舗での購入
2023/10/26現在、以下の店舗に納品済みです。在庫状況はそれぞれのお店にお問い合わせください。ただし、開店直後や閉店間際の電話は迷惑な場合があります。書店に限らず、どんな業種のお店でもそうです。これからは客が気をつかう時代ですから覚えておいたほうがいいです。……話がずれました。取り扱い店舗は少しずつ増える予定ですが、それほどたくさんは増えません。普段行きつけのお店に入荷するかどうか知りたい場合は、鈴木までお問い合わせください。
(メール:suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp)
シーソーブックス(札幌市北区)
BOOKNERD(岩手県盛岡市)
PEOPLE BOOKSTORE(茨城県つくば市)
つまずく本屋 ホォル(埼玉県川越市)
ディスクユニオン(新宿中古館・ブックユニオン新宿、ROCK in TOKYO(渋谷)、お茶の水駅前店、神保町店、池袋店、立川店、オンラインショップ) ←取り扱い終了しました
模索舎(東京都新宿区)
タコシェ(東京都中野区)
本屋 Title(東京都杉並区)
恵文社一乗寺店(京都市左京区)
誠光社(京都市上京区)
Calo Bookshop & Cafe(大阪市西区)
blackbird books(大阪府豊中市)
1003(神戸市中央区)
(2)通販(直販)
以下の情報を、鈴木並木(メール:suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp またはツイッターのDM:@out_to_lunch)までお知らせください。折り返し、手続きについてご案内します。
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国外へは、送料実費で対応します。ご相談ください。
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わたしの銀行の口座は昨年から変わっておりません。ご存知の方は、わたしからの連絡を待たずにさっさと振り込んでいただいても大丈夫です。
あと、これはむろん強制ではないので読み飛ばしてくださってぜんぜんかまわないんですけど、既定の額よりいくらか多めに振り込むことによって、応援する気持ちを示すことが可能です。
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クレジットカードやコンヴィニ払いなどで購入したい場合は、BOOTHをご利用ください。知らないひとにメールなどを送ったりするのが生々しくて抵抗があるとか、面倒、という方も。結局わたしが家から発送するので同じことですが。
BOOTHはこちら。「トラベシア」とのお得なまとめ買いセットもあります。→☆
あと、これはむろん強制ではないので読み飛ばしてくださってぜんぜんかまわないんですけど、既定の額よりいくらか多めに支払える仕組みがあります。応援する気持ちを金に換算して示すことが重要です。
◇取り扱い希望のお店のみなさまへ
「トラベシア」は取次などを通さない完全独立出版物となります。ありがたくも取り扱いご希望の場合は、suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp までご連絡をお願いします。
以下、条件的なあれこれです。
・基本的には7掛けでの買い切りでお願いしております(1部700円+消費税)。
・送料当方負担、もしくは直接搬入で納品します。
・当方の入金用口座は三菱UFJもしくはみずほ。
・入金日は各店様の規定通りでかまいません。
・少部数でもOKです。
なお、いわゆる書店様以外での取り扱いも大歓迎です。こちらの意表を突くような業種のお店からのご連絡も、お待ちしております。
◇発行人のことば|ロックのしっぽをくねらせろ(あるいは、ロックのいろは坂)|鈴木並木
まるで日光いろは坂、あるいはニューオリンズ市内を流れるミシシッピ川のように蛇行するこの体験的長篇ロック・(オデ)エッセイの第一稿を読んで、タイトルにはぜひ「ロックンロール」と入れたい、と思った。山下達郎『FOR YOU』のリリース当時の酷評レヴューが発掘されたことに触発されて始まってシティポップやなんかにも展開していくいしあいさんの一連のツイート(→☆)がそもそもの制作のきっかけだったにもかかわらず、だ。
もっとも、この本をお読みいただければわかるように、これらの要素は一般的に思われているかもしれないほどには――少なくともいしあいユニヴァースの中では――遠くないし、ついでに言えば、ここでのロックンロールとは、チャック・ベリーやリトル・リチャードよりは「ふられ気分でRock'n'Roll」(TOM★CAT)や「痛快!ロックンロール通り」(沢口靖子と後藤久美子)のほうに近い。つまりはある種のアメリカの記号=イメージ。だからこそ、シティポップのジャケに出てくる椰子の木や街道沿いのダイナーがよく似合う。
そんなこんなを考えながら、2022年10月24日、渋谷WWWにエクスネ・ケディのライヴを見に行って、大音量で奏でられる和風グラム・ロック・サウンドを浴びているうちに、『ロックンロール・サブスティテュート』というタイトルが浮かんできた。ピンチヒッター。代理人。代用品。邦楽と洋楽、日本とアメリカの距離を半世紀にわたって意識し続けてきたであろういしあいさんにはうってつけのタイトルじゃあるまいか。日本語と英語で検索しても、このフレーズを思い付いている人間はほぼいないようだ。ほかならぬ安田謙一さんが『ロックンロールストーブリーグ』という本を辻井タカヒロさんと一緒に出してらっしゃるが、誰も関連性には思い当たるまい。喜び勇んでいしあいさんに提案したところ、それに対してはなんのコメントもないまま別のタイトルが送られてきて、さらにそこから変更されてご覧のとおり、『ロックのしっぽを引きずって』になった。
まあそれもそうか。『ロックンロール・サブスティテュート』というタイトルは、いまだに(50年遅れで)日本語のロック問題について考えているようなわたしがいつか書くかもしれない本にこそつけられるべきだろうし、いしあいさんにしてみたら、俺はあんたの代理人じゃないよ、って言いたくもなるだろう。
勃興期の日本語のロックには、いまでは誰も覚えていない、すっとこどっこいなものもいろいろあったに違いない。いまそれらを聴いたとして、50年前の人たちが受けた違和感を追体験するのは土台無理には違いないけれど、もしかしたらこんな感じだったんじゃないか、との錯覚を最近、覚えた。ほかならぬ安田謙一さんがミュージック・マガジンで紹介されていた、INI「Password」(→☆)を聴いたときのこと。こういう書き方は本人やファンのみなさんに失礼かもしれないが、これは日本語のロックならぬ日本語の韓流ボーイズ・グループであって、これなら韓国語の「本物」聴けばいいのでは、とか、いや、そう言っちゃうとなにも前に進まないな、とか、「外人」に対するこういう形での憧れがいまでもあるのか、とか、あれこれ考えてしまった。もっとも、この曲そのものには、そうした批評性はあまり前面に出ていないから、考える材料としての面白みはあまり濃くはないけど。
さて、若い読者諸氏がこの本を読むと、何十年も前の出来事をよく覚えているいしあいさんの記憶力にきっと驚かれると思う。わたしも若いつもりで驚いてみたりするのだけど、そんなわたしにしてからが、森脇美貴夫『パンクライナーノート』の筆者プロフィール欄の、温泉に入るのが好き、みたいな一文を目にして、温泉なんてなにがいいんだろうと首をかしげたのをよく覚えている。あれからもう25年くらいはたっているはずだ。そしてわたし自身、四十肩の治療で湯治をするようになってから温泉が好きになり、タトゥーを入れる前にせいぜい通っておきたいと思っているのだけど、ちなみに、四十肩になった瞬間もよく覚えている。車の助手席に乗せてもらったとき、体をひねって後部座席の荷物をとろうとしたら激痛が走って腕が伸ばせなくなったんだった。あれはたしか代々木か、明治神宮の裏あたりだった。なんでそんなところを走ってたんだっけか。
ほかに覚えているのは、これももう25年くらい前、たしか萩原健太がマイ・リトル・ラヴァーのたしかホワストかセカンドについて(覚えてないじゃん)書いていた、「洋楽との距離感に無自覚」というフレーズとか。わたしはマイ・リトル・ラヴァーを「俗流渋谷系」の代表とみなしていて、だからこの一節は、渋谷系に対する最も痛烈な批評のひとつだとも思っている。それで覚えている――正確には、一度も忘れていない――のかもしれない。そのへんの思い出は、たしか「ビンダー」に載っている私小説「東京は広い」に書いてある気がする。
もうひとつくらい書いておこうか。ピーター・バラカンがポーグス『堕ちた天使』のライナーで、いかにもついでみたいに、最近ようやくCDになった、とフェアポート・コンヴェンションの『アンハーフブリッキング』だか『リージ&リーフ』だかを紹介していたのも忘れられない。結局のところ、あとあとまで(記憶に)残るのは、そのときどきの「最近」が記録されているものだってことになるんだろう。
で、その『堕ちた天使』の日本盤。たしか歌詞の対訳も「ニューヨークの夢」だけはバラカンさん本人がやっていたんじゃなかったっけ。この曲ばかりは他人――というか日本人――にはまかせられない、と思ったんだろうと勝手に想像している。歌詞対訳といえば、ドアーズのなにかのアルバムで柳瀬尚紀が歌詞対訳をやっていたのには驚いたものだったけど、バラカンさんの名前が出た(というか、わたしが出したんたけど)ついでに言いたいのは、この本には一度も登場しないレッド・ツェッペリンについて。バラカンさん流に言えば「ゼペリン」。
あるとき、ツェッペリンの「永遠の詩」(→☆)を聴いていて、これって現代の耳からしたらもう、ギターポップだよなと思った。ギターのキラキラした疾走感はザ・スミスとかとそんなに違わないし、ヴォーカルを除けば、たとえばデビューした頃のフリッパーズ・ギターがライヴでカヴァーしてたよこの曲、と言われたらへぇーそうなんだと思うかもしれない。ツェッペリンからスミスまでが10年、それからフリッパーズ・ギターまではたかだか5年。そこからいままで、もう30年もたってしまっている。70年代も90年代も、遠く離れてしまったせいで、望遠レンズの圧縮効果で同じ場所にあるように見えてくる。よくツイッターで回ってくる、スカイツリーと月が同じ大きさで並んでいるみたいに見える写真。
歴史は伸びたり縮んだり、くっついたり離れたりする。距離を置くと見え方が違う件でいえば、セックス・ピストルズもそう。ロック史における最大の断絶、切断面、歴史の転換点のようにみなされていた彼らが、「それ以前」と「それ以後」をつなぐ接着剤だったとわかるのも、いまになってこそだ。
そして、さっき風呂に入っていて初めて気が付いた。YMOも似たようなものだったんじゃないか。70年代と80年代、ロックと芸能界をつなぐ接着剤。テクノ・ポップと呼ばれていた、日本のある種のニューウェイヴ音楽に夢中だった高校生のわたしにとって、いちばんかっこよかったのはなんといってもプラスチックスやP−モデルで、(とくに初期の)YMOにはまったく心が躍ることはなかった。とはいえ子供の頃にリアルタイムで接した「君に、胸キュン。」は普通に好きだったし、初期の彼らのフュージョン戦略の意味も、いまならわかる気もする。
―――
文学の話。いしあいさんは以前、御母堂は若いころ文学少女だった、と言っていた。ただしその意味はいまとは違う、と。昔は欲望の受け皿としての趣味の種類が少なかったから、いまならばBLやK-POPにハマったり、自分で漫画を描いたり、バンギャだったりもするであろう、つまりは文化的な志向のある人はみんな文学少女になったのだ、と。映画監督にも、そうした文学青年くずれ――と言って悪ければ、文学への憧れをかかえた人たち――は多かったはずだ。そしてわたしは、そういうのが嫌いじゃない。
このあいだ岡本喜八の「江分利満氏の優雅な生活」を見てあらためて印象深かったのが、日々を生きるのに必死な江分利満氏がふところに文学への憧れを隠し持っていることだった。わたしたちは、この映画ができた1963年(いしあいさんの生まれた年)からすでに余りに遠い時代にいるので、洋酒会社の宣伝部員が小説を書いたからっていちいち驚いたりはしない。しかし当時は、そうではなかったろう。岡田茉莉子がコメディエンヌとしての輝かしいキャリアを捨てて吉田喜重と結婚してしまったのも、いわばそうした、戦後の日本において結核以上の猛威を振るった「文学という病」の症状のひとつだったのだと思う。
ついでに言うと、映像派のシネフィルの中に、そうした文学趣味を蛇蝎の如く嫌う人たちが一定数いる。たぶん彼らは「文学」を、純粋な映像の中に混じってきやがった非・本質的ななにか、みたいにみなしてるんじゃないかと思うんだけど、わたしに言わせれば、そういうところがダメなんだよ。そもそもあなたたちの好きな「作家主義」、あれってまんま、文学から借りてこられた概念じゃん。
まあそれはともかく、ある時期までのロックも、少なくとも日本の一部の人にとっては、そういう、文学の代用品――と言って悪ければ、同じ路線にある芸術――として受け入れられていたはずだ。そしてその、ロックと文学の結び付きがすたれたのは、健康で必然的な趣味の多様化による当然の帰結なんだけど、そうした、「ロック文芸」みたいなものを復権したいというのも、この本の発行人としてのわたしの意図のひとつ。言うまでもなく、この場合の文芸とは、文字通り、文の芸、文による芸、文を使った芸、文のための芸のこと。わたしが読みたいのはいつも、そうしたものでしかないのだ。別になにかの情報を得たくて本を手に取るわけじゃない。この本に、固有名詞を説明するための註を一切つけなかったのも、そういう理由。頭はひとつでも手は2本あるんだから、読みながら、空いたほうの手でわからないところを検索してくれればいい。
註がついていない件のついでに、これも言っておこうかな。引用や固有名詞が多いこうした本を読むと、自分の知らないことばかり書いてある……と腰が引けてしまう人もいると思う。でももう、そういうことを気に病む必要はないはずなのだ。空いてるほうの手で検索すればいいだけなんだから。
あるいは――こっちのほうが厄介で――カッコつけてやがらあと反発したくなる人。馬鹿って言う奴のほうが……って物言いがあるように、そう感じるってことは、引用をそういうふうにしかできない人なんだと思う。いしあいさんはたぶん、もうすでに誰かが自分の考えを正確に言葉にしてくれているんだったら、それをつかったほうがいいって考えている。それは怠惰でも虚栄でも諦念でもなく、彼の謙虚さのしるしなのだ。そしてゴダールも同じ種類の謙虚さを持っていて、だから、このふたりが共振し合うのは当然。この、謙虚さゆえの引用ということについては、若木康輔のブログ(→☆)を読むとわかるはず。
ところで、この本とは関係ないけど、いや本当はあるけど、現代の諸問題の多くは、プロとアマ、玄人と素人、ヤクザとカタギを不用意に近づけたり混ぜたりするせいで起こるってのがわたしの認識で、映画界のパワハラも、カタギの人間がうかつにヤクザに近付いて殴られた、とみなすのがいちばん実態に近いと思っている。お互い自分の身分をわきまえて、おとなしく棲みわけていれば誰もケガしないで済むのに、わざわざ殴られに行って、痛い痛いって大騒ぎしている。わたしも軽くだったら殴られるのは嫌いじゃないもんだから、いままでつくってきた雑誌「トラベシア」同様、この本でも、プロとアマをわざと混ぜてみた。おつきあいくださった植村正美さん、鹿島絵里子さん、鈴木知子さん、野村玲央さん、ヴァン・ポウガムさん、村松道代さん、安田謙一さんに、深く感謝いたします。
長々としゃべりすぎた。いしあいひでひこは人を饒舌にする。読んだらきっとなにか言わずにはいられないこの本を、みなさんにお手にとっていただきたいし、ぜひ、身のまわりの誰かと勝手に感想を言い合ってもらえたらと思う。
そしてさらなる希望を蛇足気味に申し述べるならば、この本の出版がきっかけとなって、いしあいさんがテレヴィやラジオへ登場したり、なんとなく司会業などへと進出していくことも、わたしは期待している。イメージは「エレキの若大将」の内田裕也。あの軽妙さと異物感。あれこそがロックンロールのイメージなのだ。
◎「トラベシア」Vol.6「いしあいひでひこのやさしい人生」発刊記念イヴェントその4「いしあいひでひこを編集する −音楽・人間・社会−」
○概要
・日時 2022年09月11日(日) 14時30分開場/15時開始/17時頃終了
・場所 スペースへいわ(豊島区上池袋3丁目。詳しい場所は予約者にのみ通知)
・登壇者 いしあいひでひこ(訪問介護員)/野村玲央(書籍編集者・ライター)
・参加費 大人1000円/20歳未満500円
・定員 10名
・飲食 フリードリンク。ご自分での持ち込みも可。
*このイヴェントは【完全予約制】です。 *満席になりましたので予約受付は終了しました。
*このイヴェントは現地観覧のみです。配信はありません。
○ごあいさつ
2022年04月の京都・誠光社でのイヴェントに際して、いしあいさん関連の催し物はこれで最後、と申し上げたような気がしないでもないのですが、どうしてもやりたくなっちゃったのでまた開催することにしました。
発端はいしあいさんのこちらの一連のツイート(→☆)。山下達郎のアルバム『FOR YOU』(1982年)のリリース当時に書かれたレヴューがひどい、というツイートがまずあり(→☆)、それに対していしあいさんがいつものように抑えきれずに反応したわけです。これを読んでわたしはピンと来ました。いまならいしあいさんに、長年期待されている単著『ディスコとはなんだったのか 黒人音楽の正体(仮題)』を書いてもらえるはず!
シティポップ問題って言ってみればかなりのところディスコ問題(いしあいさんのライフワーク)ともからんでくるわけだから、いしあいさんは無限に話せるし書けるし、そこに(黒人)音楽と思想と社会の関係の話をふんだんにトッピングして、遠慮なく脱線もしてほしい。書いてもらう以上はせっかくならば物体としての紙の本にして、世に問いたい。ちょうど11月に文フリ東京があるじゃないか。いしあいさんは書き始めれば早いはずだけど、その前に考えの整理をしてもらう必要がある。しゃべったものをそのまま文字にすれば本になるくらいにまで。
ということで、野村玲央さんにお相手を務めていただきます。ポピュラー音楽に造詣の深い編集者・ライターである野村さんに、後続世代ならではの鋭い切り口でもって、いしあいひでひこの頭の中をリアル・タイムで編集してもらおうという目論見。つまり、この日みなさんにご覧いただくのは、いわば来たるべきいしあいさんの単著に向けての、公開編集会議でもあるわけです。うまくいけば、以下のようなスケジュールで事が進むのではないかな。
・9/11 いしあいさんいろいろ話す
・〜9/30 いしあいさんが執筆する
・10月 編集、デザインの実務作業
・11月上旬 印刷所に入稿
・11/20 文学フリマ東京で頒布開始
いしあいさんひとりでは実現は難しそうなので、本づくりの実務を担当するティームのメムバーも募集します。本をつくるのってどうやるんだっけ……とりあえず以下の作業をするひとが必要ですよね(兼務も可)。
・編集(制作工程の全体管理。校正、校閲含む)
・DTP(印刷所との交渉含む)
・表紙のイラストまたは写真
・文フリ出店者で、いしあい本を置いてくれるひと(いしあいさんは申し込まないと思うので)
当日お越しのみなさまの中から、こうしたスタッフを募りたいです。いしあいさんには執筆に専念してもらって、少人数のティームでサポートするイメージ。9/11にお越しになれないけどティーム入りしたい場合は、鈴木までご相談ください。
もちろん、編集なんかには別にかかわりたくないけどただ単にシティポップや黒人音楽や人間の話が聞きたいとか、あくまで安全な客の立場で高度消費社会におけるイヴェントのひとつとして享受したい、とかいうみなさんの参加も大歓迎です。
○予約方法 *満席になりましたので予約受付は終了しました。
当イヴェントは【完全予約制】です。以下のいずれかの方法で、主催者(鈴木並木)にご連絡ください。予約完了の通知時に、会場の場所と入場方法をお知らせします。
メール:suzukinamiki@rock.sannet.ne.jp
ツイッターのDM:@out_to_lunch
・おおむね24時間以内に返信します。届かない場合は、お手数ですがご一報ください。
・ツイッターのDMを送受信するためには、主催者をわざわざフォローする必要はありません。返信が受け取れるような設定にしておいてください。設定方法→☆
*会場の場所をご存知の方は当日、予約なしで来てくださってもかまいません。ただし、満員の場合は入場をお断りすることもあります。
○参加費のお支払い方法
当日、入場時に、現金でお支払いください。
○細かい注意
・会場は一般家庭(居住用マンション)です。消毒用アルコールなどは用意しますし、適宜換気もおこないますが、検温はしないので、具合が悪かったら来ないでください(キャンセルの連絡をお願いします)。心配なひとも来ないでください。会場ではマスクを着用してください。
・会場は一般家庭(居住用マンション)です。椅子席は限られており、あとから来た方はフローリングの床にクッションで(もしくは直接)お座りいただく形になります。確実に椅子に座りたい場合は、早めにお越しください。
・会場は一般家庭(居住用マンション)です。普段お金を払って利用するような、いわゆる「お店」同等のサーヴィスを期待することは禁じます。常識でご判断ください。
○登壇者プロフィール
・いしあいひでひこ
1963年、東京都板橋区生まれ。一般男性。1998年、自分のホームページを開設。以降、偉大なる傍観者として日本のインターネット界のさまざまな事件や騒動を目撃・記憶。その独自のスタンスは平山亜佐子氏によって「和製フォレスト・ガンプ」と称される。2020年、コロナ禍における介護士としての日常を『仕事本 わたしたちの緊急事態日記』(左右社)に寄稿し、一部で話題を呼ぶ。2021年、雑誌「トラベシア」で世界初の特集「いしあいひでひこのやさしい人生」が組まれる。単著『経営者としての渋谷陽一』『ディスコとはなんだったのか 黒人音楽の正体』『はてな文化の功罪』の執筆が待望されている。現在、埼玉県毛呂山町在住。
*ツイッター→☆
・野村玲央
1993年京都府生まれ。編集者として人文書や美術展図録を手がけるほか、ライターとしてポップカルチャーについて寄稿多数。08年、Vampire WeekendやMetronomyをきっかけにポップ音楽を掘るようになる。特に好きなジャンルはソフトロックやモンド、南米音楽。リアルタイムの“シティポップ”はceroの「わたしのすがた」やオノマトペ大臣の「サマースペシャル」でした。さまざまな軸を設定し、いしあいさんのお話を深堀りします。
*ツイッター→☆
いま就活中で、いくつかの派遣会社と日々メールのやりとりをしている。応募してもたいてい、ご紹介できなくてすみませんという自動返信が来るだけだが、ごくたまに、人間の担当者の名前が書いてあるメールが届いて、職歴を詳しく知らせろ、などと言ってくる。先日、18時近くに返信をしようとして、時間外に仕事をさせては悪いなと思っていったんやめて、翌日に返事をもらうつもりで22時過ぎに返信したら、それに対してすぐにまたメールが来た。
こんなこともある。映画を見て帰ってきて、夕食を食べて、子供を風呂に入れて、寝かしつけて、自分が寝る前に感想をツイッターでつぶやく。するとすぐに、公式アカウントがRTしてくる。
あるいはまた。好きなミュージシャンが夜の8時になにかを発表するので、パソコンの前で待機する。
こんなとき、AIではなく、派遣会社の担当者なり公式アカウントの中のひとなりレコード会社かマネジメント・オフィスの社員なりがどこかで労働している、と考えるのが自然だろう。いまのところはまだ。彼ら、彼女たちは、その日は午後から出社して夜までの勤務なのだろうか。たぶんそうじゃないだろう。残業(させられ)代をもらっているのか、あるいは月給に数十時間分の固定残業(させられ)代が含まれているのか、もしくはサーヴィス(させられ)残業をしている(させられている)のか。
個人的には、文化や芸術に関わるひとたちは決められた時間でぴったり出勤・退勤しなくてもいいと思っているし、必要に応じて、過労死はしない程度に長時間働いて、すばらしいものをつくって届けてほしいと願っている。ただし、自分がそうした現場の末端のアシスタントとして、あるいは付随する事務をおこなう社員として、その長時間労働につきあわされるのは、もちろんまっぴらなわけだけど。
ジョセフ・コシンスキー「トップガン マーヴェリック」を見た。ここでは、トム・クルーズをはじめとしたパイロットたちの人間としての労働の姿が描かれている――と書いてみて、どことなくしっくりこないのはなんでだろう。飛行中にかかる通常の10倍近いGにせよ、決められたコースを逸れたら即座に撃墜されるであろう目標への潜入にせよ、過酷な労働条件が見てよくわかるように演出されているのに。そもそも冒頭の、無人機の開発を進める上層部 vs. 有人機で前人未到の速度記録を達成するトムとの対比からして、この映画がトム・クルーズの人間宣言であることは明らかだ。さらに、人間のパイロットは絶滅するぞと言われて、トムは言い返す。そうかもしれないが、いますぐにではない、と。
ここでトムが、人間の労働としてのパイロットの日常を、肉体の限界に賭け続ける自分たちの映画づくりに重ねているのは明白だが、そしてその明白さは誰が見てもすぐに見て取れることであり(そもそもそうした状態を指して「明白」と呼ぶ)、ここでは触れない。
気になるのは、トムをはじめとしたパイロットたちの労働時間についてだ。訓練=撮影の過酷さは、実際に俳優たちを戦闘機に乗せて撮ったという前情報から伝わってきている。この作品の感想で、パイロット=俳優たちの表情の緊迫感はCGやセット内にしつらえたコックピットではなく現実の飛行機で撮ったものならではだ、という趣旨のものをよく見かけた。そんなこと本当にわかるんだろうか。わたしにはわからない。もちろん、自分が画面で見た表情と、撮影方法の情報とを突き合わせて勝手に納得するのは、見たひとの自由だが。
(なんの映画の撮影時のエピソードだったっけ……疲れた演技をするためにそこらを走り回って実際に肉体を疲れさせている若い役者を見ていた時代劇スターが、なんのために役者は芝居の勉強をするのか、と感想を漏らしたのは。とはいえわたしも、「幸福の黄色いハンカチ」で高倉健が、出所後初めての食事のシーンのために3日間絶食しただとかの「伝説」は好きだし、その真偽を調べる気もない)
(また、近田春夫は何十年も前に、ドラムを生にするか打ち込みにするかの選択は、実際にどういう音が欲しいかではなくて思想の問題に過ぎない、というようなことを言っていた。プロの耳にももはや聴き分けられない、という意味で。ここでいう「思想の問題」には、レコーディングの予算やスケジュールをどうやって割り振るか、も含まれているだろう。つまり、トムには生でやりたいという思想があり、それが許される環境があった、あるいはそれを自分でつくった。それはトムの問題だから、トムの思想に共感するからといって、それが画面にあらわれている、などとわざわざ錯覚、心酔しなくてもいい)
「トップガン マーヴェリック」には残業は描かれない。パイロットたちは夕方にはバーにいて酒を飲みビリヤードに興じているし、日中の労働時間に浜辺でボール遊びの労働をする。訓練の過酷さは長時間労働としてではなく、大きなGの負荷に代表されるように、短く濃いものとして凝縮されて表現されている。攻撃目標のプラントの稼働日が早まりそうだとわかり、時間が足りないとセリフでも告げられているのに、誰も残業を申し出ない。夜間に訓練飛行をおこなえば、闇夜を引き裂くジェット機のフォトジェニックな姿が撮れることは保証されているだろうにもかかわらずだ。
聞いたところによると、欧米の撮影現場は組合の力が強いせいでホワイトなのだそうだ(雑ですみません)。トムの現場は当然クリーンだろうから(その真偽を調べる気はない)、前述の「実際に飛行機に乗ってるからこそ迫真の表情になる論」に従えば、残業が発生しない撮影現場で日常を送る監督も俳優も、残業を描けないのは納得がいく。
描かれていないのは残業だけではない。トムは当然KAROSHIなどしないし、パイロットの業務の一環として当然発生しうる可能性のある、生命活動を停止した状態で土の下に超長期間横たわる様子も暗示すらされない。終盤、トムとマイルズ・テラーが雪原で邂逅する場面があるが、ふたりが空中の飛行機にいた状態からどうやって無事に地上に降り立ったのかも描かれていなかった気がする。あるいはふたりはそれぞれ、あの時点ではすでに、生命活動を停止していたのではないだろうか。そう考えることによってその後の荒唐無稽な展開がすんなり理解可能になるし、「実際に飛行機に乗ってるからこそ迫真の表情になる論」に従えば、実際には死んでいない俳優の死を描くことはできないからである。こうして、人間による映画づくりの限界が、トム・クルーズによって規定されてしまった。
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一方で、理想的なものづくりのためには過剰労働もいとわないどころか、それを美化して恥じるところがないのが吉野耕平「ハケンアニメ!」だ。同時間帯に放送されるふたつのアニメ番組のつくり手を描くこの映画で、登場人物たちは納期に間に合わせるべく長時間労働する。TV番組はあらかじめ決められた時間に放送されなくてはならないことになっているからだ(ほんとにそうなの? そんなこと別にどうでもいいんじゃない?)。
ただしここにも、描かれていないものはある。片方の番組の新人監督を演じる吉岡里帆は電車で通勤していて、そしてその時間はまちまちだ。日中、まだ陽の高い時間帯に帰宅しているようにとれるカットもあった気がするが、その日は早く仕事が終わったのだろうか。たぶんそうではない。前日、スタジオに残って、ソファで仮眠したカットが省略されているのだろう。あまりにも身も蓋もないからだ。
もう片方の番組のプロデューサー、尾野真千子は、おそらく仕事が終わったあと、ボクシング・ジムに行ってそこで吉岡里帆と偶然会い、一緒に銭湯につかり、風呂上がりの彼女との会話に触発されて、追加修正の依頼をするため、その足で秩父のアニメーション・スタジオまで車を走らせる。あたかも漠然とした田舎のように描かれている秩父は意外なことに埼玉県に実在する土地だ。都内から車で行くには、よくわからないが練馬から関越道に入って花園で降り、そこから一般道(田舎だから、舗装されていない砂利道だったりするのだろう)を行く必要があり、2時間くらいはかかるものと思われる。しかしその道中は省略され、観客には隣町に行くような感覚しか与えられない。映画の重要な技術である「省略」を、こういうふうにつかってはならないはずなのに。
吉岡が雨の中で転倒してボクシング・ジムのチラシに気付いた時点ですでに夜だったから、尾野が銭湯を出たのは21時、早くても20時頃か。そうすると、秩父のスタジオにアニメーターたちが集められたのは22時以降になるだろう。銭湯やスタジオに掛け時計があったかどうかは見逃した。わたしはこの作品を2回見て、少なくともスタジオの場面でいま何時頃なんだろうと気になった記憶はあるから、たぶんなかったのに違いない。
尾野はおにぎりをつくって、労働するアニメーターたちにふるまう。彼らに、残業(させられ)代はきちんと支払われているのだろうか。秩父のあたりは物価も安いだろうから一軒家の家賃は月5000円くらいか。食費についても、近所の農家から米や野菜をもらったり、あのへんの山でとれる霞を食ったりすればほぼゼロでまかなえそうだが、それにしてもだ。
入社7年目の吉岡の月給はいくらくらいだろう。彼女の住むマンションの場所、築年、広さは推測するしかないが、劇中で勤めている「トウケイ動画」を現実空間における東映アニメーションと仮定してみる。勤務地が練馬区東大泉のスタジオだとすれば、住んでいるのは西武池袋線を下ったひばりが丘、清瀬あたりか。だとすれば、6〜7万円で家族用の広さのマンションを借りることができるから、ひとり暮らしには必要以上の広さに見えたとしても経済的な不自然さはない。ところで彼女が通勤に乗っていた電車はなに線だったろう? これも見逃してしまった。
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続けて大野大輔「辻占恋慕」を見てみると、「トップガン マーヴェリック」と「ハケンアニメ!」に描かれていなかったもの、描く必要もなかったものが容赦なく描かれていて、なんとも言えない気分になってしまう。「なんだかんだ言ってもあななたちは軍隊や会社から給料もらって夢を追えているんだから恵まれているじゃないですか。そもそも、そんな人間の様子を映画にする必要なんてないんじゃないですか」と言いたくなる。
じゃあなにが「必要」なのか。「辻占恋慕」で描かれているのは、音楽の夢を追う若者の、生活と労働がごっちゃになっているありさまで、ただし登場人物たち自身は、30歳前後である自分たちをもう若くはないとみなしているようだ(もしかしたら大野自身もそう思っている?)。適当な仕事しかしてこずに面白おかしく暮らしてきてもうすぐ50歳になろうとしているわたしから見ると、30歳なんてぜんぜん若者じゃんって感じなんだけど、そういえばこの映画を見ながら、濱口竜介「PASSION」に出てきたひとたちもだいたい30歳前後って設定だったのかな、と不意に思ったのだった。ハマリューの若者たちはきちんと収入がありそうだけどね。
で、わたしのまわりには仕事をしながらライヴハウスで歌っているような友人・知人が何人かいて、でも、彼らが自分自身のことを「夢を追っている」と認識しているかどうか、なんて話はしたことがない。そういうひとたちにこの映画を見てもらいたい気もするけど、あまりに身も蓋もないので、推薦しづらい。そもそもわたしのつくった「トラベシア」の「音楽と金」号は、そうしたひとたちが、生活と音楽活動の折り合いをどうやってつけているのかを経済的な面から知りたい、というところから発想されたものだった。音楽と夢。生活と金。年齢と才能。偶然と創造。諦念と継続。
夢を追って継続して走るためには、まずスタート地点として、誰でも生活に必要な金を確保しなくてはならない。トム・クルーズや吉岡里帆には軍人や正社員としての身分と給料があり、いわば職業として夢を追うことができる。「辻占恋慕」の主役のふたりのうち、早織はコールセンターらしきところで働き、大野は運送会社らしきところに勤めている。労働映画としての「辻占恋慕」の面白さは、劇中で描かれる大野の「転職」だ。この転職には夢から遠ざかる面と夢に近づく面の両方があって、考えてみるとたしかにこの転職後の職業を描いた映画はわりとよくあるのだが、見ているあいだは、それがあまり気にならない。転職後の大野はほぼ一貫して、たぶん心ならずも、その職業にふさわしい服装をしている。「辻占恋慕」と「ハケンアニメ!」をどちらも見たひとは、わたしがなにを言いたいかもうお分かりかと思う。「辻占恋慕」の大野と、「ハケンアニメ!」のある人物は、とくにそうしろとは誰からも言われていないにもかかわらず、自らの制服、あるいは舞台衣装として、その服を着ている。
TVドラマの世界については不勉強で知らないけれど、少なくともいまの日本映画界を見渡してみるなら、大野大輔はおそらくもっともキレのいいセリフを書ける脚本家だから、低予算も世界の狭さもものともせず、面白い映画をつくってしまう。映画の終わり近く、大野は自分の職権を濫用して、あるいは職権を投げ出すようにして舞台を踏み、次々に言葉を吐く。この場面にわたしは震えながら笑ったし、なにかの間違いで「アネット」のアダム・ドライヴァーとこの映画の大野大輔が入れ替わるのすら夢見てしまった。夢を見るのはタダだからね。
*この記事は当初、原稿料がもらえるメディアに書かれるはずのものとして構想されたが、わたしが出した打診のメールに対して担当者(人間)から返信がなかったので、こうしてここに書くことにした。この記事を、労働者階級出身の映画評論家・佐藤忠男と、派遣会社Mでわたしを担当してくれている牧野さんに捧げる。
*写真は2014年、道頓堀をクルーズしてきたトムと、見物しているわたしのツーショット。
家の中にいても寒いので、暖をとろうと思ったら火傷した。
ジヨー・ベービ監督の映画「グレート・インディアン・キッチン」を見た。以下、公式サイトの「STORY」の全文。
妻が家事から解放されるのは、 自身が「穢れ」となる日だけだった。インド南西部ケーララ州で、高位カーストの男女がお見合いで結婚する。中東育ちでモダンな生活様式に馴染んだ妻は、夫の住む由緒ある邸宅に入り、姑に導かれて家事のあれこれを学んでいくが、ほどなく姑は嫁いだ娘の出産準備のため家を離れる。彼女は一人で家事全般を受け持つことになる。さらに、早朝からの家事労働で消耗していても、夜には夫の求める身勝手なセックスを拒むことができない。そうした重荷から逃れられるのは、皮肉にも生理の期間だけ。しかしそれは、彼女が穢れた存在と見なされる数日間でもあった。
見終わったあと、こうツイートした。(→☆)
「グレート・インディアン・キッチン」見た。炊事や洗濯などの生活上の仕事から排除され、あてがわれたものを食べるほかは宗教的儀式をするだけの男の悲しみが深く伝わる。生理中は家事を免除されるしきたり、昔は女性への休暇はこのような形で成立していたのか。古くからの伝統にはやはり意味がある。
ある程度予想したとおり、おもに引用ツイートの形で、少なからぬ数の指摘、意見、罵倒を受けた。
このツイートの内容は、わたしが映画を見て実際に持った感想とはほぼ正反対で、ではなぜそんなことをしたのかと言えば、「面白半分で思ってもないことを書いて、どういう反応が来るか試してみる」ため。
そもそも、「グレート・インディアン・キッチン」(以下「GIK」)は、前述の「STORY」をわかりやすく、誰が見ても誤解のしようがないように「説明」することを第一の目的としていて、なるほどたしかにいろいろなテクニックが的確に使用されている。「問題」を明示するプラカードとしては出来がいいから、メッセージを間違いなく受け取ったぞ、という気分になれて盛り上がれるけど、映画としては痩せている。(痩せてない=広がりがあって豊かな映画はどんなのかというと、たとえばガウリ・シンデ監督「ディア・ライフ」とかね)
個人的には、ここ2年くらいの、フェミニズム的傾向を持っていることが宣伝材料になっている映画にはほぼまったく満足できていなくて、そのことはここ(→☆)に書いた。そこで描かれ、世間に示された「問題」、あるいは「問題意識」こそが重要で意義深いのだ、という意見はよくわかる。さらに言えば、「内容」と「表現形式」が完全に切り離せるものではないのもそのとおり。
それにしても、それならそれで、わたしのツイートの内容を真に受けるだなんて、あれだけ明快につくられた「GIK」に対して失礼というか、作品の力を本当に信じているのですか? と言いたくなる。みなさんあの映画から同じメッセージを受け取って、同じ方向に「正しく」誘導されたり、違和感を共有できて喝采したり、したわけでしょう?
ご自分のお好きな映画に対してそれだけ失礼な態度を平気でとれるのだから、この映画や、さらには映画という表現形式そのものに対して――単につくり手に対して、ではなく――失礼、という発想は、そもそも頭にないんでしょう。したがって、わたしに対して失礼な発言を、引用ツイートというわたしに確実に届く形でおこなうに際しても、なんの躊躇も遠慮もない。たとえば適当にいくつかかいつまんで紹介すると、トーンはある程度さまざまですが、こんな感じの意見が届くわけです。(実際の文言はわたしのツイートのところから見れます)
・あれ男が炊事や洗濯から排除されてるように見えるのか、ほんと世の中にはいろんな見方をする人がいるな…
・もう少し色々お調べになったり、他の人の意見を聞いてみるなどしてみるといいかもしれませんね…
・すごい(褒めてません)、ホンモノがいるぞ...
・同じインド映画である「パッドマン」を併せてご覧になることをおすすめします
・農業に携わる技能実習生の話を聞いて「土に親しむ生活から排除され無機質なオフィスで座る仕事をあてがわれ、スーパーで買った野菜や米を食べるだけの日本人の悲しみが深く伝わる」とおっしゃる感受性の持ち主かな?
・ちゃんと観てた???馬鹿なん?????????
・さすが他罰性と被害者面だけは一丁前の男さん
・この映画を見て、男の悲しみって感想が出てくるって、すごいと思う。もっと客観的な視点を養った方がいい。
・仕事できなそう…
・正気とは思えない意見。
・本気かジョークかは知らんけど、『そういう映画である』という情報を流布した事の影響はどうするんだろう。
・うんこ。
・面白半分で作品そのものを曲解し未視聴の観客に誤解を与えるような発言をされても非常に不快なだけです。
実際の自分の意見ではないものに対するコメントとはいえ、もっと芸がある言葉が聞けるのではないかと図々しくも期待していたので、見知らぬひとたちから罵倒されるのは正直不愉快で、まあ、自分がこれで不愉快になるんだ、というのも意外な発見でしたけど。
ところで気になるのは、わたしのツイートは形式としては単なる「間違った感想」であって、とくに誰かを攻撃しているわけでもないのに、それに対して、いきなり「うんこ。」だの「馬鹿なん?」と声をかけてくる異常さです。なんかもう殴られすぎて訳が分からなくなっていますが、これは異常ですよね? とはいえわたしも普段、たとえばレイシストやネトウヨを見かけたとき、個々の彼ら/彼女たちの私生活や人格にいちいち思いを巡らせたりはしないわけで、たぶんそれと一緒で、そこに見えているのは人間ではなく、単なるでっかい標的ってことなんでしょう。あと、間違った感想イコール加害性のある発言、とみなされるようになっている、っていうのも確実にあるね。
ただ、上にも抜粋しておいたとおり、人間を相手するように書いてくれたひとも何人かはいました。「パッドマン」、面白かったですよね。「農業に携わる〜」は、ほぼ唯一、読んでいてくすっとしたコメント。(「仕事できなそう…」は……否定しません)
間違った情報を流して未視聴の観客に誤解を与えたことはどうするのか、について。たしかに理屈としてはそうかもしれませんが、たとえば「GIK」でツイッター検索してたったひとつだけ混ざっているわたしのツイートなんて、GIK絶賛の全体主義の中ではノイズにもならないでしょう。それも数十個の引用ツイートによってよってたかって否定されているわけですし、たまたまわたしの意見だけを目にするひとなんて、10000人にひとりもいないはずです。
ところでさっき、「実際に持った感想とはほぼ正反対」と書いたのは、「男の悲しみ」のことが引っかかっているから。いやいや、どうか、そら出た! と言わないでいただきたい。「GIK」では、女性の置かれた境遇を明確にするため、男性は害悪の記号として、あえてなにも考えない、ぺらっぺらの紙人形同然のものとして描かれている。あの作品の「戦略」としては、もちろんそれで正しい。わたしにコメントしてきたアカウントの多くが、ジェンダーやフェミのことだけつぶやいたり、そういう話題だけをリツイートしたりすることに特化しているのと同様に、「戦略」だから。
しかしわたしが興味を持って見に行ったのは「戦略」ではなく、一応、映画なので、あの男のひとたちの生活やこれまでの人生はどんなものだったんだろうか、と考えてしまう。たとえば、ナプキンを買ってきてくれと頼まれた夫はなにを感じたのだろう? 怒り。恥ずかしさ。驚き。悲しみ。当惑。いろいろ複雑な感情がありうるだろうに、そこには触れられない。店頭で、いざナプキン売り場に行ってどれを買えばいいのかとあわてふためく、そんなカットを入れることすら、あえてしていない。排水管の修理の手配を頼まれても繰り返し放置していたことは描いて、こちらには触れない。プラカードに余計なことを書き込むと、読みづらくなるから。そういう「戦略」。
自分ではなにもしない義父にしても、この世に生まれた瞬間からいまのような害悪だったのではない。家族と社会に育まれて大きくなり、いまのような考え方と行動様式を身につけてきたはずだ。息子の夫に反撃されるまで「アップデート」しなかったことには、非難されるべき面も大いにあるだろうけど。ただしわたしがあの立場だったら、自発的に気付きを得られたかどうかは自信がない。
ところで、このあいだ読んだもろさわようこ「新編 おんなの戦後史」に――と書くと、かえって著者に迷惑がかかるかもだけど、すみませんね、わたしはあなたが思っている以上に複雑で人間的な存在なので、そういう本も読むんですよ――男の読者としてとても印象的な主張があった。いま手元にないので正確な引用はできないけど、抑圧されている女の立場からは恵まれているように見えるからといって男を攻撃してもなんの解決にもならない、女が不利益をこうむる社会構造では男もまた不利益をこうむっているのだ、というようなもの。
対等な男女関係を持てず(あのセックスでは夫も気持ちよくはないだろうに)、それに気付いてないのかあえて気付いてないことにしてるのか、ともかくいびつな構造の上に安住している男の姿には、やはり「悲しみ」が皆無ではないと思うんだけど。先祖代々の写真と家事の音のあの場面、あそこには、社会構造によって害悪になってしまった男たちの姿もあったのでは、と考えることは許されないですか。もちろんそこが本題ではないことも、これがこじつけ気味の意見であることもわかってますよ。ただその程度の飛躍も許されないのは映画の見方としてどうなのか。
わたしだって現代に生きる者として、日々社会の矛盾を感じているし、(それによって下駄を履かされて、利益を享受してもいるだろうけど)男性優位社会はさっさと解体されるべきだと思っている。ただしそのためには、現実の一部を拡大して、ある種の観客が見たいものを見せるだけの「GIK」を、「暗部を鋭く照らし出す!」とか賞賛してても、たいして効力はないと思うんだけど。映画版の「新聞記者」(ネトフリ版は見てません)が、リベラルのひとたちが「リベラルな映画だ!」と喜ぶだけのものでしかなかったのは本当に残念だったし、あの程度の映画に喜んでるひとたちもどうかしてるわけで、「GIK」を見たひとたちにもそんな感じのひとが確実にいそうだなあと思いました。
「GIK」を見て実際にわたしのツイートのような感想を持ったひとがいたとして、そういうひとたちを反省させたり改心させたり、そこまで行かずとも、映画の主張を正しく理解してもらうために、本当にあなたたちがわたしに対して使ったような言葉で効果があると思ってるんですか? 効果なんかなくてもいい? 気にくわない相手がツイッターから消えれば溜飲が下がる?
最後に2点ほど。
その1。(引用ツイートでなく)直にメンションしてくれたあるひとに対して、わたしは、過去ツイートを見てくれれば文脈上わたしがミソジニストでないことはわかる、と返事をした。その方は見てくれて理解してくれたようなのだけど、ほかのひとたち何人かが、お前の過去には興味はない、その特定の発言が問題なのだ、と言ってきた。ツイッター的には、それが正しい。あらゆる文脈が消滅して、発言そのものだけが拡散しておもちゃになる仕組みだから。今回たぶん初めて、身をもってそれを理解した。
わたしの文脈を理解する気などない、という考え方は、まあそれはいいでしょう。しかし、世界にもはや文脈など存在しない、という考え方に対しては、あなたは間違っている、とはっきりと言わざるを得ない。あらゆる人間や物事にはそれぞれ事情、歴史、過去、文脈がある。ツイッターのシステムが反文脈的につくられているからといって、それにホイホイ乗っかって、自分の主義主張のために文脈の存在自体をなかったことにするのは、知的怠慢、歴史の抹殺、人間の否定だと思う。ひとことで言って「最低」です(怒るポイントがおかしいけど、それも成り行き)。わたしは、人間を人間扱いせず、ツイート単位の主張のみで切り取って記号として判断する人間不在のbotアカウントとは、共闘する気も話をする気もありません。
わたしのことはいいんですよ。ただ、今後、わたし以外のひとに接するときは、どうかそのひとの発言の背後にある事情や文脈を可能な限り汲んであげてください。
(ところで今回、どなたかのホームを見に行って、男性のことを「Y」と呼ぶ言い方があるのを知りました。ギョッとして、最低な表現だなあと思いましたが、いままで似たような具合に記号として扱われてきた女性のみなさんのしんどさが、ごくわずかですが、わかった気がしました)
その2。わたしの最初のツイートが本心ではない件。「拡散されたもんだからあわてて言い訳してる」とか「負け惜しみ」とか「逆張りのつもりの本心なんだろう」みたいなことを言うひとがいました。事情はわかります。おそらくあなたがたの周りには、わたしのような、一銭の得にもならないことをするひとは、いままでいなかったんでしょうから。
「釣り」という言い方はあまりにもゲスいので自分では使いませんが、人間、思ってたのと違うことや、ときには真逆のことを言うことがあるのは誰でも知ってると思う。前項と関連して、ツイッターではそういうのは(もう)通用しませんよ、と言われたら、はいそのようですね、と答えるしかない。
売名行為、と言ってきたひともいた。いままで接したことのなかったひとたちからたくさんコメントもらったので、ある意味では名前が売れたとは言えるかもしれない。でもそのひとたちがわたしにプラスの感情を持ったとは到底思えないので、結局なんの得にもなっていない。それはご理解いただけると思う。
じゃあなんでそんな、意味もないし得にもならないことをするのか、というご質問、もしくはお怒りに対しては、自分でもよくわからない。損得を考えたらこんなこと、やらないほうがいいに決まってる。なにが起きるのか、薄々わかっていても実際にやってみたい、見てみたい、そんな気持ちがおさえきれなくなるときがあるんです。その結果、こうしてひさしぶりに頭をつかって長文を書くことになり、脳が活性化されたのはほぼ唯一の収穫かもしれない。
ここまでお読みくださった方は、賛同するかどうかは別として、わたしのツイートがミソジニストのbotではなく、人間によるものだとおわかりいただけたと思う。書き足りない部分、言葉の至らない箇所はあるはずなので、ご質問いただければなるべくお答えするつもりです(お前の意見は自分と違っているから許せない、みたいなものにはお返事しないと思います)。最近はコロナもあってやってませんが、我が家ではときどき、誰でも来ていいホームパーティを開催しているので、そこで直接お話しすることもできます。